十国春秋卷十九 列傳 文獻太子𢎞冀

要約

文献太子𢎞冀は元宗の長子で、母は光穆皇后。民間の讖「一人の真人が冀州に在り」に応じるよう名付けられた。東平郡公から南昌王、燕王と進封され、元宗即位の際の兄弟継承の誓いのもと東都留守を務めた。後周が広陵を陥し呉越が常州を攻めた際、元宗は𢎞冀の若年を理由に召還しようとしたが、部将趙鍔の諫言を容れて留任を願い出て許された。龍武都虞侯柴克宏を信任して重用、常州で呉越軍を大破させて敵将佐数千を捕らえる功を立て、これを轅門でことごとく処刑したが、その専断を元宗は不悦に思った。

太弟景遂が藩に帰り、斉王景達もまた兵を喪って敗走する中、独り功のあった𢎞冀は太子に立てられて政事に参決し、緩んだ紀綱を剛断で引き締めた。しかし法を越えた処断を怒った元宗が打毬杖で笞ち「景遂を召すことにしよう」と叱責したことが、のちの景遂毒殺事件を招く遠因となった。元宗が周に伝位を申し出た際は、周世宗の書によって思いとどまらされている。顕徳六年、疾を患いしばしば景遂の祟りを見るようになり、まもなく薨じた。有司は当初「宣武」と諡したが、句容尉張洎が武功の顕彰を戒める上書を行い、元宗はこれを容れて諡を「文献」と改めた。

現代語訳全文

文獻太子𢎞冀

  • 文獻太子𢎞冀は元宗の長子である。母は光穆皇后。もとより唐末、民間に相い伝わる讖があり「一人の真人が冀州に在り、口を開いて弓を張り宗辺に向う」と言い、元宗はその子がこれに応ずることを欲し、そこで名付けて𢎞冀とした。初め東平郡公に封ぜられ、南昌王に進んだ。元宗が即位すると弟の景遷を兵馬元帥、景達を副元帥とし、烈祖の梓宮の前で誓い、兄弟相い伝えることを約したので、𢎞冀は東都に留守した。景遂が太弟となるに及んで、また潤州に鎮を徙し燕王に封ぜられた。𢎞冀は人となり沈厚で寡言であった。周師が廣陵を陥し、呉越もまた常州を攻めたとき、元宗は𢎞冀がまだ若く軍旅の事に習熟していないことを念い、使者を遣わして召し還そうとした。部將の趙鍔は「王は春秋(年齢)はまだ若いが、元帥の重責は衆心の恃むところであり、一たび退けば部下は揺らぐでしょう」と言い、𢎞冀はそこで、多壘(戦乱)の秋に義として安逸に就くことは無く、死をもって国に報いる用をなすことを願うと奏した。元宗はこれを許した。龍武都虞侯の柴克宏、右衛將軍の陸孟俊を遣わして常州を救わせ、潤州の主は樞宻副使の李徴古が白(もう)して神衛統軍の朱匡業を克宏に代えて帰らせた。𢎞冀は克宏に才略があることを察し、「あなたはただ前進して戦え、私が守りを担当する」と言い、表して克宏が必ず賊を破ることができると言った。常州の危うさは旦暮に迫っていたが、臨敵に将を易えることは兵家の忌むところであるとして、臣(𢎞冀)は身をもってその功を保証すると請うた。克宏もまた感激して奮い立ち、馳せて常州に至り、果たして呉越の兵を大破し、首を斬ること萬級、その将佐数千人を捕らえ、潤州に俘とした。𢎞冀は時にまさに艱危にあることから、ことごとく轅門から駆り出してこれを斬った。人々はみなその能く断ずることを壮としたが、元宗は専殺(勝手な処刑)をもって不悦とすること久しかった。太弟景遂が藩に帰ることを請い、景達が元帥となってまた奔潰して南に帰るに及んで、独り𢎞冀だけが功があり、そこで立てられて太子となり政事に参決した。元宗は仁厚で群下は多く縦弛(規律の緩み)していたが、この時に至って𢎞冀は剛断をもってこれを済(ととの)え、紀綱は頗る振起した。元宗はその為すところが法を踰えると考え、ある日大いに怒って打毬杖でこれを笞(むちう)ち、「私は景遂を召すことにしよう」と言った。景遂はこれによって酖死に遭うことになった、その事は景遂の伝にある。元宗はすでに周に盟を請い、位にあること久しくして降屈を恥じ、しばしば使者を周に遣わして位を𢎞冀に伝え大国の附庸となろうとしたが、周の世宗は書を賜ってこれを力めて止めた。その詞に、「皇帝は謹んで書を江南國主に致し敬問する。ここに来章(来信)を覩るに、縟旨(丁寧な趣旨)を備え形し、この日の伝譲の意を叙べ、向来の高尚の心を述べ、なお数載以来の交兵已まざる事をもって、追悔の事を陳べ、克責の詞ならざるは無い。省咎責躬(過ちを省み自ら責める)することは、災に因って懼れを致すもまた過ぎたることは無い。況んや君は血気まさに剛にして春秋(年齢)は鼎盛(壮年)、一方の英主として百姓の驩心(歓心)を得ているのに、どうして君臨を高く謝し世務を軽く辞するべきか。希怡(安逸)の道を慕うよりは、康済(民を安んじ済うこと)の誠を懐くにしかず。かつ天災の流行は国家に代々あり、昔の聖哲もまた逃れられなかったところである。もし盛徳が日に新たであれば、この景福(さいわい)はいよいよ遠いであろう。諒(まこと)に思うに英敏なれば必ず誠懐を照らすであろう」と。元宗はそこでやめた。周が使者を遣わすたびにまた別に𢎞冀に国信を賜うことを常とした。顯德六年七月、𢎞冀は疾を患い、しばしば景遂が祟りをなすのを見た。九月丙午、薨じた。有司はその靖難(内乱を平定した)の功をもって宣武と諡した。句容尉の張洎は𢎞冀が薦めた士であったが、上書して「世子の徳は視膳問安(親への孝養)にあり、今、武功を標顯して後世に垂示するのは、微を防ぎ漸を杜(ふせ)ぐゆえんではありません」と言った。元宗はこれを善しとし、その議を下して諡を改めて文獻とした。洎はこれより名を知られるようになった。