十国春秋卷十九 列傳 江昭順王景逷

江昭順王景逷

  • 景逷は字を宣逺といい、烈祖が初めて禅を受けたとき十二月二日を仁壽節としたが、景逷はこの日生まれたので小名を仁壽といった。烈祖は甚だこれを愛した。母の种夫人が譴(とが)めを得ると、元敬皇后が景逷を自分の子のように鞠養した。元宗が嗣位すると保寧王に封ぜられ、信王に徙封され、出でて百勝軍節度使となった。簡易節儉で虔(虔州)の人はその政に安んじた。時に諸王・大臣はみな浮屠(仏教)を喜んでいたが、景逷だけはこれを非毀(そしる)し、専ら六経・名教を事とした。贛令が卒し、尉の邵繼良が令事を摂(か)ねたとき、令の成喪(葬儀)の日をもって楽を張って宴飲したので、景逷は自ら奏してこれを黜けた。小さな過ちがあるたびに、掌書記の孫峴が苦言をもって規正すると、景逷はこれに礼を加えた。峴が卒すると、その言に言及するたびに必ず涕を流し、その孤(遺児)を厚く恤(あわ)れんだ。後主が立つとさらに封を進めて江王とし、就いて侍中を拝した。鎮にあること十一年、開寳元年に薨じ、享年三十一。中書令を贈られ昭順と諡された。子の季操は宗正卿に官し、後主に従って宋に帰り、右神武將軍となり、累遷して左衛大將軍となり康州刺史を領し、出でて單州都監となり、淮陽・漣水の二軍、蔡・舒の二州を知り歴任した。大中祥符四年に卒した。