十国春秋卷十九 列傳 齊昭孝王景達
要約
景達は字を子通といい、烈祖の第四子。呉の順義四年、雨乞いの日に生まれたため幼名を雨師といった。気品ある人柄を烈祖に愛され、受禅後は寿陽郡公から宣城王、鄂王、燕王、斉王と進封を重ねた。烈祖は彼を後継にと望んだが順序を越えることを憚り果たさなかった。孝行に篤く剛直な性格で、元宗の舟が転覆した際には泳ぎが不得手ながら水に飛び込んで元宗を救い、寵臣馮延巳らが酔いに任せて不遜な態度を取ると激しく叱責し、斬ろうとするほどであった。友人張易の「群小の禍はまだ小さい、自ら隠忍せよ」との忠告を容れて、以後は曲宴を避けるようになった。
軍事の経験は乏しく、保大末の淮南出兵では元帥として師を督したが監軍使陳覚に実権を握られ、朱元の叛乱や寿州陥落など戦況の悪化を止められないまま、五万の兵のうち四万を喪って金陵に帰還した。責任を問われることなく撫州大都督に転じたが、以後は日々酒に溺れて政務を怠るようになった。後主の代には太師・尚書令として尊ばれ、開宝四年、四十八歳で鎮にて薨じ、烈祖の諸子の中で最も長命であった。太弟を贈られ昭孝と諡され、遺命により廬山に留葬された。神仙道家の説を好んでいたが、記室徐鍇の「述仙賦」の諷諫を受けて改めたという。
現代語訳全文
齊昭孝王景達
- 景達は字を子通といい、烈祖の第四子である。呉の順義四年に生まれた。この年大旱があり、烈祖はまさに輔政に当たって焦労を極めていたが、七月既望(十六日)に雩祀(雨乞い)して雨を得た。景達はこの日生まれたので、烈祖は喜び、そのため小名を雨師とした。やや長じて神観爽邁(気品高く優れる)、他の児と異なり、烈祖は深くこれを器(評価)した。受禅に及んで壽陽郡公に封ぜられ、まもなく宣城王に封ぜられた。烈祖は彼を嗣(後継)にしようと欲していたが、越次(順序を越えること)を難じたので果たさなかった。崩御に及んで、景遷はすでに先に死んでおり、元宗は病と称して景遂に固く譲り、順次に景達に及ぼそうとする先帝の遺意を承けようと考えたが、群下に迫られてやむを得ず、景達を進封して鄂王とし侍中を加え、まもなくまた燕王に封じた。景遂が太弟に立てられるに及んで、そこで景達を諸道兵馬元帥・中書令とし、齊王に徙封した。景達は孝友純至で、常に元宗に従って後苑に遊び池に舟を泛べたとき、元宗の舟が覆り、景達はもとより泳ぎを善くしなかったが、たちまち水中に躍り入って元宗を負って出た。また性は剛にして悪を疾(にく)み、朝廷はこれを厳しく憚った。元宗が宗室・近臣を召して曲宴するたび、馮延己・延魯・魏岑・陳覺らは寵を憑(たの)んで笑い呼ぶこと傍らに人無きがごとくであったが、景達はしばしばこれを訶詰(叱責)し、また強く諫めた。元宗がある日東宮で宴し、延己は二弟(景遂・景達)の命が己より出でないことを愧じ、虚辞をもって徳とし、酔いに乗じて景達の背を撫でて「お前は私を忘れるな」と言ったので、景達は忿りに堪えず衣を払って入り延己を斬ることを奏請した。元宗が久しく諭し解いてようやくやんだ。張易が景達に「群小が煽り立てているが、その禍はまだ細(小さい)とはいえ、大王の力ではまだこれを去ることはできない、自ら隠忍するべきです」と語り、景達は悟り、これより禍を畏れ、曲宴に遇うたびに病と称して辞するようになった。景達は剛毅ではあったが軍旅を経ておらず、保大の末、淮南で兵が交わったとき、元帥として師を督したが、陳覺を監軍使としたため、軍政はすべて覺によって決せられ、景達は牘尾(文書の末尾)に署して画諾(承認の印)するだけであった。朱元の叛、壽州の陥落はみな覺の仕業であったが、景達はこれを咎めることができなかった。初め師五萬を出したが、俘死亡叛する者四萬に及び、景達と覺は残兵を引いて金陵に帰り印綬を返上した。元宗はその無功を自ら愧じるのを恐れて天策上將軍・浙西節度使に拝したが、景達は敢えて当たらず要鎮を力めて辞し、撫州大都督・臨川牧に改められた。淮南の敗績以来、日々酣飲を事とし、鎮にあること十余年、竂屬(属官)に委ね政務を視ることを怠った。後主が嗣位すると太師・尚書令を加え、甚だ尊礼した。開寳四年、鎮で薨じ、享年四十八。烈祖の諸子の中で最も永年であった。太弟を贈られ昭孝と諡された。遺命により江州の廬山に留葬された。これより先、景達は神仙道家の説を好んでいたが、記室の徐鍇が「述仙賦」を献じてこれを諷し、ついにその好みを絶った。その勇んで善に従うことはこのようであった。烈祖の五子のうち、元敬皇后は元宗・楚定王・晉文成王及び景遂を生み、江昭順王は种夫人の出であった。