十国春秋卷十九 列傳 晉文成王景遂
要約
景遂は烈祖の第三子で、呉に仕えて門下侍郎となり、烈祖受禅後は吉王から寿王、燕王、斉王と進封された。性格は純厚恬淡で士君子の風があり、呉の讓皇の喪では命を受けて喪事を護り、柩を望んで哀慟し見る者を感嘆させた。烈祖崩御に際して元宗は位を譲ろうとしたが大臣に固く止められ、代わって景遂は庶政を総べるよう命じられたのちに撤回され、まもなく皇太弟に立てられた。位に固執しない意を示すため字を「退身」と改め、東宮にあること十三年、しばしば藩地への帰還を願い出た。
賛善大夫張易の峭直な諫言をよく受け入れ、纎麗な詩を咎められれば敬んで従い、契丹使節として送り出す際も元宗の信任を得るなど、文雅で客好きな人柄であった。交泰年間にようやく天策上將軍・晋王として洪州に鎮したが、佐官の樞宻副使李徴古が驕慢を極めたため斬ろうとして周囲に止められるなど、鎮地では鬱屈も抱えていた。太子𢎞冀との確執が深まる中、𢎞冀が親吏を使って毒を都押衙袁従範の子に持たせ、鞠遊びの後に渇いて求めた飲み物に毒を仕込ませたため、景遂は享年三十九で急死し、殮する前に体はすでに潰えていたという。元宗は深く悲しんだが、暗殺の真相は伏せられたまま知ることがなかった。朝を廃すること七日、太弟を贈られ、文成と諡された。
現代語訳全文
晉文成王景遂
- 景遂は烈祖の第三子である。呉に仕えて門下侍郎となった。烈祖が受禅すると吉王から壽王に進封され、東都留守・江都尹に除せられた。性は純厚恬澹(穏やかで欲がない)で、雅(つね)に士君子の風があった。讓皇(呉の睿帝)の喪に際し、景遂は命を受けて喪事を護りに行き、柩を望んで哀慟し、見る者はみな聳嘆(感動して尊敬すること)した。烈祖が崩じると元宗は位を景遂に譲ろうとしたが、大臣が固く止めてやめた。燕王に徙封され、まもなく齊王に改封され、諸道兵馬元帥を加えられた。翌年、景遂に庶政を総べるよう命ずる詔がすでに下されていたが、皆が不可であると言い、そこで下された詔を収め、しばらくして皇太弟に立てられた。すべて太子の官属はみな太弟の官属に改められた。景遂は固く辞退できなかったので、老子の「功成り名遂げて身退く」の意を取って字を退身と易え、その位に処らない志を示した。平生、客を好み文章をよくし、燕集(宴会)の虚しい日は無かった。賛善大夫の張易は峭直(厳格で正直)で言を尽くすことを喜び、景遂はかつて纎麗な詩を賦し易はこれを面前で規(いさ)め、景遂は敬んでこれを納れた。またかつて怒って玉盃を坐で砕いたところ、景遂はしきりに推し謝って迕(さから)う色が無かった。易が契丹に使いするに及んで、景遂は手ずから疏を上げ、易は竒士であるから夙夜に納誨(諫言)させるべきで、みだりに不測の淵に使わすべきではないと言った。元宗は答えて「易は竒士である、海神もこれを畏れるべきだ」と言い、ついに行かせた。景遂は東宮にいること十三年、しばしば藩に帰ることを乞い、交泰の時に至って初めて天策上將軍・江南西道兵馬元帥・洪州大都督・太尉・尚書令に改授され、晉王に封ぜられた。樞宻副使の李徴古をもってこれを佐けさせ鎮南軍節度副使とした。徴古は驕嫚(おごりたかぶり)に習い、鎮に至るとますます専恣が甚だしくなった。景遂は積もり積もって堪えられず、これを斬って自ら有司に拘(とど)まろうとしたが、左右がこれを諌め止めた。初め景遂が鎮に出るとき、𢎞冀が太子であったが、ある日元宗に譴(とが)められ、景遂を再び立てようとする意があった。景遂は鎮にいてもまた頗る忽忽として躁忿(いらだち)が多く、常に意に忤(さから)うことをもって都押衙の袁從範の子を殺した。𢎞冀はこれを刺知(さぐり知る)し、そこで親吏に酖(毒酒)を持たせ從範に遺わし、これに景遂を毒させようとした。景遂は鞠(まり)を蹴って渇き漿(飲み物)を索めたところ、從範は毒を入れた漿を進め、暴薨した。享年三十九、まだ殮(納棺)しないうちに体はすでに潰えていた。元宗はもとより友愛が深く、訃を聞いて悲悼したが、左右が慰め釈こうとして、太弟は初め病を得たとき「上帝が私に許旌陽(仙人)に代わるよう命じた」と人に語っていたと妄りに言い、元宗はようやく少し解けた。それゆえ酖に遭ったことをついに知ることがなかった。朝を廃すること七日、太弟を贈り、文成と諡された。