十国春秋卷十八 列傳 喬氏
要約
卷十八列伝の末尾には、烈祖の後宮であった元敬皇后(宋后)と、後主の宮人喬氏らをめぐる逸話が付記されている。元敬皇后はもと乱兵に虜掠されて徐温(義祖)の帳下にあった女性で、先主(烈祖)が正室を喪った際、徐温から「これはきっと福がある」と与えられ、嗣主(元宗)・景遷・景達を生んだ。久しく寵を得られなかったが、太祖夫人の宋后(元宗の生母とは別の宋氏という説もある)に憐れまれてしばしば薦められ、恩寵を受けてからは服御も皇后に亜ぐほどとなり、景遷を生むにいたって奢侈がいよいよ甚だしくなったという。国太妃に封ぜられ、のちに光穆順聖の尊号を追贈された。甥の宋諤はのち参軍となったが、国戚であるがゆえに官職はさほど大きくはならなかったと伝えられる。
喬氏は後主の宮人で、書をよくし、宮中にあって常に出家して仏に奉じていた。後主は手ずから金字の心経を書いてこれを賜った。南唐滅亡後に宋へ入り、禁中で後主の薨去を聞くと、その経を出して相国寺に捨て冥福を祈り、巻末に「故李国主の宮嬪喬氏、謹んで国主の百日に、昔に賜わりし妾が書きたる般若心経を相国寺の塔院に捨てまつる、伏して願わくは弥勒尊の前にて一花を持ちて仏に見えん」と書き添えた。字は整潔で詞は愴惋であったという。後に江南の僧がこの経を持ち帰り、故国の天禧寺の塔の相輪の中に納めたが、見る者はみなこれを悲しんだ。
あわせて、珍しい花を髪に挿しては常に蝶を招いたという宮人秋水と、後主が高さ六尺の金蓮の台を宝物で飾り、細帯纓絡をつけて品色の瑞蓮を作らせ、宮人窅娘に帛で足を纏わせて新月の形に屈させ、素韈で蓮花の中を舞い回らせたという逸話も記される。窅娘の舞は「凌波の態」と称えられ、宮中の女性たちがこぞってこれに倣った(纏足の起源譚として名高い)。唐鎬が窅娘のために作った「蓮中花更好、雲裏月長新」の詩句や、宋の南征後に獲られた後主の別の寵姫が、夜灯に照らされて「宮中はもとより夜も大宝珠を懸けて日中のように明るかった」と語ったという逸話も、あわせて記されている。
これらの逸話はいずれも、南唐の後宮に生きた女性たちの寵愛と哀歓、そして王朝滅亡の陰で失われていった生の記録として今日に伝えられている。
現代語訳全文
喬氏
- 喬氏もまた後主の宮人である。書をよくし、宮中に居って常に出家して仏に奉じていた。後主は手ずから金字心経を書いてこれを賜った。国が亡んで宋に入り、禁中で後主の薨去を聞くと経を出して相國寺に捨てて冥福を資した。その巻の後にこう書いた、「故李國主の宮嬪喬氏、謹んで国主の百日に、昔に賜わりし妾が書きたる般若心経を相國寺の塔院に捨てまつる。伏して願わくは、弥勒尊の前にて一花を持ちて仏に見(まみ)えん」と。字は整潔で詞は愴惋(悲痛)であった。後に江南の僧がこれを持ち帰り故国の天禧寺の塔の相輪の中に置いたが、見る者はこれを悲しんだ。また秋水・窅娘という二人の宮人があった。秋水は珍しい花を簪(かんざし)に挿すのを好み、芳香が鬢を拂うと常に蝶がその上を遶り、撲(はら)っても去らなかった。窅娘は纎麗で舞をよくし、後主は金蓮を作ること高さ六尺、宝物で飾り細帯纓絡(飾り紐)をつけ蓮の中に品色の瑞蓮を作らせ、窅娘に帛で足を繞(まと)わせ纎小にして上に屈させ新月の状を作らせ、素韈(白い足袋)で蓮花の中を舞い回旋させて凌波の態があった。これにより人々はみなこれに倣った。