十国春秋卷十一 列傳 張翊

才を恃みて非命に死す

  • 張翊はその先世は京兆の人である。唐末、張翊の父の張授は番禺に任じられたが、劉隠が広南を拠り取ろうとするに及んで、官を棄てて北に還り、潭州・衡州の間に至った。馬氏がすでに潭州・澧州を有していたので、家を挈(ひきい)て江南に来奔し、廬陵の禾川を過ぎて屋を借りてここに居した。
  • 張翊は弟の張惟彬とともに書を読むことをよくし、先業をよく継いだ。高祖の時、徐知誥が国政を輔けると、張翊は広陵に入り射策(試験)をもって及第し、武騎尉を授けられた。
  • 徐知誥が鎮を金陵に移すに及んで、これに従って江を渡り、宋斉邱に見知られ、府中に署せられて従事となった。南唐の禅代に際し、虔州観察判官に抜擢された。
  • 西昌令として道を仮りて広陵に還ると、里人はこれを栄とした。ほどなく才を恃んで褊躁(狭量で短気)で左右を凌暴したため、鴆(毒)を被って卒した。
  • 張翊の文辞は婉麗で、「禾山大舜二妃廟碑」「廬陵紫陽観碑」「新興仏閣碑」の文は、みな張翊の撰したものである。

史論

  • 論じて言う。殷文圭ら諸人は、みな彬彬たる文章の選(すぐれた文人)である。あるいは典贍(典雅で豊か)にして体を得、あるいは精簡(精緻簡潔)にして長ずるところを擅(ほしいまま)にした。江南にはもとより才士が多いが、殷文圭らには実に篳路藍縷(草創の苦労)の功があった。杜荀鶴は唐の臣であったとはいえ、常に宣州の幕府に居たことをもって、また呉人の列に載せることができるのである。