十国春秋卷十一 列傳 殷文圭

要約

殷文圭は池州の人(一に陳州西華の人とも)で、幼名を桂郎といい、九華山に籠って苦学し、用いた墨で池の底に穴があくほどであった。唐末、賄賂が公然と行われた科挙において游恭とともに独歩して試験に臨み、乾寧中、東平王朱全忠の表薦を得て及第、裴樞の宣諭判官として汴州に至ると、朱全忠はさらに彼を薦めた。しかし公卿への上書の一節が朱全忠の怒りを買い、追われる身となって以来、しばしば「貧書生はおおむね心に背く」と言われる引き合いに出された。

寧国節度使田頵は儒士を重んじ、殷文圭の母を厚遇して甥のように仕えさせたので、殷文圭はその恩に感じて力を尽くした。田頵の死後は太祖父子に仕えて掌書記となり、太祖の墓誌銘を執筆するなど文章家として名を馳せ、武義元年に翰林学士を拝した。著作に登龍集・従軍藁・筆耕・冥捜集がある。子の殷崇義は南唐の宰相となった。

若い頃、老人に眉が緑で拳が口に入る神仙の相があると予言され、道を学べば冲虚に至り、そうでなければ天下に大名を得るだろうと言われたが、後にその名声によって符合したという。またある日、大沢の中で驟雨と雷雹に遭っても平然としていたところ、両耳の中に鬼神が泥で封じていたという異譚も伝わる。晩年は資財に執着し、潤筆料の遅延を督促する詩を作って世論に軽んじられた。

現代語訳全文

田頵・太祖に仕えた文章家

  • 殷文圭は池州の人である(一に陳州西華の人という)。幼名を桂郎といい、九華山に居て苦学し、用いた墨で池の底に穴があくほどであった。
  • 唐末、詞場(科挙)では請託(賄賂による口利き)が公然と行われていたが、殷文圭と游恭だけは独歩して場屋(試験場)に臨んだ。
  • 乾寧中、昭宗が三峰に幸したとき、殷文圭は東平王朱全忠の表薦を携えて及第し、まもなく裴樞の宣諭判官となり、汴州に至った。朱全忠はまた表を奏してこれを薦めた。
  • ほどなく殷文圭は公卿に啓を投じて「於莵(虎)が獲物を狩るのは尺璧の珍を求めるのではなく、鶢鶋(鳥の名)が風を避けるのは洪鐘の楽を望むのではない」と言った。
  • 南に帰るに及んで多言の者に告発され、朱全忠は大いに怒って吏を遣わしてこれを捕らえさせたが及ばなかった。これより、しばしば「措大(貧書生)はおおむね心に背く」と言い、たびたび殷文圭を引き合いに出して証とした。
  • 当時、寧国節度使の田頵は儒士を頗る重んじ、田宅を置いて殷文圭の母を迎え、甥として殷文圭に仕えた。殷文圭は田頵の意に感じ、これに力を尽くした。田頵が死ぬと、太祖父子に仕えて掌書記となり、文章をもって名を著した。太祖の墓誌銘はその手になるものである。
  • 武義元年、翰林学士を拝した(一に終いに左千牛衛将軍となったという)。登龍集十巻、従軍藁二十巻、筆耕二十巻、冥捜集二十巻がある。子の殷崇義は南唐に仕えて宰相となった。
  • これより先、殷文圭が進士に挙げられたとき、道で老叟に会い、殷文圭を久しく見つめてから人に語った。「先ほどのあの人物は眉が緑で拳が必ず口に入る、神仙の相である。道を学べば冲虚(虚静の道)に至るべきであり、そうでなければ天下に大名を得るだろう」と。殷文圭は実際に拳が口に入る癖があり、後に当時その名を顕したのは、はたしてその言に符合した。
  • また、かつて大沢の中を通っていたとき、驟雨と雷雹があり、衆はみな驚き躓いたが、殷文圭だけは安詳としてまるで聞こえていないかのようであった。雨がやんでから傍らの人が見ると、その両耳の中に鬼神が泥で封じていた。その異徴はこのようなことがあった。
  • 殷文圭は晩年、頗る資財に急であった。ある日、司空の李徳誠のために麻(詔勅の起草)を草したが潤筆料が久しく至らなかったので、詩を作ってこれを督促し、これによって当時の世論に軽んじられた。