十国春秋卷十 列傳 嚴可求
要約
厳可求は同州の人で、父厳実は唐に仕えて江淮水陸転運判官となり江都に家した。可求は若くして通敏で心計に長け、徐温の客から太祖(楊行密)の幕僚となった。太祖が朱延寿を除こうとした際には目の病を装わせる計略を献じ、太祖の臨終には烈祖(楊渥)擁立の召符をいち早く確保して継承を実現させた。
張顥と徐温が烈祖を弑した後、張顥が自立を図ると、厳可求は「先王の旧輩がその下に甘んじまい、幼主を立てて歳月を待つべきだ」と説いて思いとどまらせ、烈祖の母史太夫人の教という形で高祖(楊隆演)擁立を宣布し、その企てを封じた。張顥が徐温を潤州へ追い出そうとしたときも、厳可求は行軍副使の李承嗣を動かして徐温の留任を実現させた。張顥は裏切りを知り刺客を放ったが、厳可求は迫る刃を前にしても筆を止めず、その忠壮な態度に刺客が心服して財だけを奪い立ち去った。まもなく徐温は鍾泰章に命じて張顥を誅殺し、国政を独占した。これはひとえに厳可求の功であった。
その後、揚州司馬、営田副使、門下侍郎などを歴任し、順義中には尚書右僕射・同平章事を兼ねた。唐が梁を滅ぼした際、徐温が両端を持そうとしたのを固く諫めて出兵を思いとどまらせ、後唐荘宗が驕り数年のうちに内変が起こると予言し的中させた。徐知誥が将校の放埓を憂えた際には鷹狩り禁止の一策で容易く治めてみせた。太和二年、徐温に遅れること三年で没した。
日頃から徐知誥を徐氏の実子でないとして退け、徐温の実子徐知詢の登用を勧めていたため知誥に深く忌まれ、楚州刺史に出されそうになったが、呉の建国を急ぐよう徐温を説いて留任を得た。知誥はやむなく娘を厳可求の子厳続に嫁がせた。恩義には篤く、微賤の頃世話になった陽邑令の子には、表向きはわずかな穀物と絹のみを贈って何気ない態度を装いながら、実は密かに黄金数十斤と邸宅・僕馬まで与えて厚く報い、以後その者との関わりを謝絶した。その権謀の巧みさはこのようであった。
現代語訳全文
謀略をもって国政を左右す
- 厳可求は同州の人である。父の厳実は唐に仕えて江淮水陸転運判官となり、これによって江都に家した。
- 厳可求は若くして通敏で心計に長け、徐温の客として太祖の幕僚となり、事に当たっては多くの籌画をなした。
- 太祖が朱延寿を疑いこれを殺そうとしたとき、徐温は厳可求の謀を用いて太祖にわざと目の病を装わせ、朱延寿を欺いた。事が成ると徐温は右牙指揮使に遷り、厳可求もまた策を献じたことによって謀議に与ることができた。
- 太祖が病篤くなったとき、徐温と厳可求が入って病を問うたところ、(太祖は)ひとり厳可求を目で見つめ、久しく凝視した。
- 衆が退出すると、厳可求は「王がもし諱(不慮の死)となれば軍府はどうなるでしょうか」と言った。太祖は「私は周隠に命じて長子の楊渥を召させた。今は死を忍んでこれを待つのだ」と言った。
- 厳可求は徐温とともに急いで周隠のもとへ赴いたが、周隠はまだ出ておらず、召符が案上にまだ置かれているのを見た。急いでこれを取って(使者を)遣わし、烈祖(楊渥)はこうして跡を継ぐことができた。
- 張顥が徐温とともに烈祖を弑したとき、両者は約してその地を中分し梁に臣従しようとしていた。烈祖が没すると、張顥は約を背いて自立しようとし、声を励まして諸将に「嗣王はすでに薨じた。軍府は誰が主となるべきか」と三度問うたが、誰も応える者がなかった。
- 厳可求はひそかに徐温のために取り計らい、進み出て密かに啓して「今、四方の境は多事であり、公が主となるほかありません。しかし今日ではあまりに速すぎることを恐れます」と言った。張顥は色を変えて「何を速すぎるというのか」と言った。
- 厳可求は「廬州の劉威、歙州の陶雅、宣州の李簡、常州の李遇はみな先王の故の同輩です。公が自立しても、この者たちが公の下に甘んじるでしょうか。幼主を立て、しだいに歳月をかけるのに越したことはありません。諸将のうち誰が従わないでしょうか」と言った。張顥は黙り込んだ。
- 厳可求は急いで走り出て一通の書を書き、袖の中に隠し、同列の者たちを率いて使者の邸へ祝賀に赴かせた。衆はその意図するところを測りかねた。出てから教(命令書)を宣布したが、それは烈祖の母、史太夫人の教であった。
- その大略は「先王の創業は艱難であり、嗣王は不幸にして早世した。楊隆演が次いで立つべきである。諸将は楊氏に負くことのないように」というもので、辞旨は激切であった。張顥は気色をみな挫かれ、その義が正しいことによってあえて奪うことができなかった。高祖(楊隆演)はこうして立つことができた。
- 張顥はこれより徐温と隙を生じ、高祖に諷して徐温を潤州に出させようとした。厳可求は徐温に会って「公が牙兵を舎てて藩郡に就けば、禍がすぐに至るでしょう」と言い、徐温はこれを憂えた。
- 厳可求はそこで張顥を説いて「公が徐公を潤州に遷らせたのは、州の人がみな『その兵権を奪ってこれを殺そうとしている』と言っていますが、本当でしょうか」と言った。張顥は「右牙(部下)がそう望んだのであり、私の意ではない。すでに事は進んでいる、どうしようもない」と言った。厳可求は「容易いことです」と言った。
- このとき行軍副使の李承嗣が軍府の政に与っていたので、厳可求は李承嗣のもとに詣でて「張顥の凶悪はこの通りです。今、右牙を外に出そうとするのは意図があってのことでしょう、公の利にもならないでしょう」と言った。
- 翌日、張顥と李承嗣を招いて徐温のもとを訪れさせ、(李承嗣が)目を怒らせてこれを責め、「古人は一飯の恩も忘れない。ましてや公は楊氏の宿将である。今、幼い嗣子が新たに立ち多事の時に、外に自ら安んじようとするのか」と言った。徐温もまたわざと謝して「公らが留めるのであれば、去ることを望みません」と言い、これによって(潤州行きは)実行されなかった。
- 張顥は厳可求に売られたことを知り、夜、盗人を遣わしてこれを刺させようとした。厳可求は逃れられないと悟り、府主に辞する書を書かせてほしいと請うた。盗人が刀を執って迫る中、厳可求は筆を執って懼れる色がなかった。盗人はおおよそ字を判読できる者で、その辞気の忠壮なのを見て「あなたは長者だ、私は忍びなく殺せない」と言い、ついにその財を奪って去った。
- ほどなく徐温は鍾泰章に命じて張顥を牙堂で斬らせた。徐温が張顥を除いて国政を独占できたのは、厳可求の力によるものであった。
- 事が平定すると揚州司馬を授けられた。ほどなく徐温は潤州を鎮し、子の徐知訓を留めて厳可求とともに広陵にあって政を秉らせた。
- 宿衛の将の馬謙・李球が乱を起こしたとき、徐知訓は出て逃げようとしたが、厳可求は「公が衆を棄てて自ら去れば、衆は何を頼みとしましょうか」と言い、そのまま戸を閉じて寝た。その鼾の音が外に聞こえ、府中はこれによって安んじた。
- 朱瑾の変に及んで、徐温は使者を遣わして米志誠を殺そうとしたが、厳可求はこれが命に抗うことを恐れ、計をもってこれを捕らえ斬った。徐温は朱瑾の一件によって大いに殺戮を行おうとしたが、厳可求は徐知誥とともに徐知訓が禍を招いた経緯を具さに陳べ、徐温の怒りはやや解けた。
- ほどなく営田副使に改められた。武義元年、高祖が呉国王位に即くと、門下侍郎に遷った。順義中、尚書右僕射を拝し、ほどなく同平章事を兼ねた。
- これより先、唐が梁と戦い、兵を徴すよう求めてきたとき、徐温は両端を持し、海路をたどって兵を発しどちらが勝つかを見て助けようとしたが、厳可求はこれを固く争って不可とした。この頃に至り、唐が梁を滅ぼしたことを告げてきた。徐温はこれを咎めて「公は先に私の計画を阻んだが、今はどうするのか」と言った。
- 厳可求は笑って「聞くところでは、唐主は中原を得たばかりで志気は驕り満ちている。数年を出ずして必ず内変が起こるだろう。我らはただ卑辞厚礼をもって境を保って待つだけでよい」と言った。
- そこで司農卿の盧蘋を報使に遣わし、厳可求は密かに数事を条書きしてこれを授けた。盧蘋が洛陽に至ると、問われることすべて授けられたとおりに応対し、莊宗の心を大いに満足させて帰った。ほどなく莊宗は害に遇い、厳可求の言ははたして験(あかし)となった。徐温はますますこれを重んじた。
- 時に徐知誥が政を秉り、四郊多事であることをもって将校を待つのに頗る姑息(一時しのぎ)を事としていたが、将校らは狩猟に興じ酒を集めて民を騒がせていた。徐知誥はこれを法をもって糾そうとしたが、その才力を惜しんでこれを憂え、厳可求に問うた。
- 厳可求は「これを縄すことに煩わす必要はありません。容易く止められます。㤗興・海塩諸県に檄して鷹鸇(鷹狩り)を止めさせるがよいでしょう」と言った。徐知誥はその計に従い、ひと月の間に諸将校で郊野に遊ぶ者がなくなった。
- ほどなく左僕射に進んだ。太和二年に卒した。厳可求の死は、徐温の死に後れること三年であった。
- 厳可求は日頃から徐温に忠実であり、常々「徐知誥は徐氏の子ではない」ということをもって徐温に次子の徐知詢を徐知誥に代えて輔政させるよう勧めていた。徐知誥は内心これを深く忌み嫌っていた。
- 天祐末、(徐知誥は)厳可求を楚州刺史に出そうと謀った。当時、高祖はまだ藩鎮を守っており、厳可求は徐温の意がまだ十分でないことを知り、命を受けるとすぐに金陵に赴き徐温を説いて言った。「唐が亡んで今に十二年、しかも呉はなお天祐の年号を改めていない、唐に負かなかったと言えるでしょう。しかし呉が四方を征伐して基業を建てているのは、常に興復を辞として掲げてきたからです。今聞くところでは河上の戦いで梁の兵はしばしば挫かれ、朱氏(後梁)は日に衰え、李氏(後唐)は日に盛んになっています。ひとたび李氏が天下を有するようになれば、我らは北面して臣となれましょうか。この際いっそのこと先に呉国を建てて民の望みを繋ぐにこしたことはありません」と。徐温ははたして大いに喜び、また厳可求を留めて使者を遣わし礼儀を草案させることをやめなかった。徐知誥は厳可求が去らせられないと知ると、娘をその子の厳続に娶らせた。
- 厳可求は微賤の時、陽邑の吏であった。陽邑の令はこれを器とし、賓客の礼をもって遇し、常々「卿はよく自愛せよ。他日必ず人臣の位を極めるだろう。願わくは私の遺児のことを心に留めてほしい」と言っていた。
- のち厳可求が公輔(宰相の位)に登ったとき、その令の子の理は遺命によって厳可求のもとを訪れたが、厳可求は擔石束帛(わずかな穀物と束ねた絹)を贈るのみで、何も気に留めていないかのようであった。
- ところがほどなく密かに人を遣わして黄金数十斤を持たせ、旅宿の門で待ち構えさせて謝させ、「あなたは陽の宰の子ではないか。相君(厳可求)が黄金を奉じて旅費に備えさせよとのことです」と言わせ、また邸宅一軒を借り、僕や馬をすべてこれのために用意した。令の子は後日、門に詣でて謝すと、厳可求は「かつての府君(陽邑令)の日頃のご厚遇に報いたまでのことです」と言うのみであった。一度会って以来、終身その者との関わりを謝絶した。その権謀の巧みさはこのようであった。