十国春秋十國春秋卷九 吳九 列傳(王稔・骨言・陳祐・陳紹・方從訓・蔣延徽・王壇/張崇・張宣・崔太初・曹筠/李戴ほか文臣)

王稔

  • 王稔は廬州の人。中和三年(883年)、太祖(楊行密)が廬州刺史のとき、州人の王朂が賢者だと聞いて召して用いようとしたが、朂は固辞し、その子弟について「子の潛は学問を好み慎み深く、事を任せられる。弟の子の稔は気節があり、将にできる」と述べた。太祖は潛を召して門下に置き、稔を騎将とした。
  • のち功を積んで滁州刺史に至った。順義三年(923年)、鍾泰章が寿州で官馬を横領しているとの訴えがあり、睿帝(楊溥)は稔に霍邱を巡らせ、泰章に代えて寿州団練使とし、まもなく節度使に移した。
  • ほどなく寿州の任を解かれて揚都に帰り、統軍となった。
  • ある日、庁舎で客と語っていると、突然小さな赤い蛇が屋根から落ちて稔に向かってとぐろを巻いた。稔が器で覆わせ、しばらくして開けてみると、蝙蝠が一匹飛び去っただけであった。その年、稔は同平章事を加えられ、人々はあの怪異の応験だと言った。

骨言

  • 骨言は唐の骨儀の後裔。高祖(楊隆演)が江西に用兵した際、行営都虞侯とされた。驍勇果毅で、兵の統率に長けていた。
  • 危仔倡が信州を挙げて降伏を請うと、高祖は張景思を代わりの刺史とし、骨言に兵五千を率いて景思を送り込ませた。仔倡は骨言の兵が来ると聞いて州を捨て呉越へ奔った。
  • 骨言は景思とともに信州に入り、落ち着いて経営にあたり、人々はその乱を鎮める才を認めた。

陳祐

  • 陳祐は若くから勇力があり、高祖は黒雲都将に任じた。
  • 天祐十年(913年)、銭傳瓘らが呉越兵を率いて常州へ侵入し、徐温が兵を率いて防いだ。無錫に至ったとき、祐は徐温に「敵は我らが遠来で疲れて決戦できまいと見ている。今その不備に乗じて手勢で撃てば、傳瓘は捕らえられます」と申し出た。そこで別道を回って呉越兵の背後に出、徐温は大軍でその正面に迫り、内外から挟撃して呉越兵を大破し、斬獲は数知れなかった。
  • のち大将に抜擢されて潤州に鎮した。牙将の周郊が乱を起こすと、祐が衆を率いて討ち平らげ、功があった。累進した官は原文が欠けており不明。のち没した。

陳紹

  • 陳紹は宛邱の人。驍勇果敢で戦に巧みで、勇があるうえ計略も多かった。累進して左驍衛大将軍に至った。
  • 梁将の王景仁が侵入したとき、紹は徐温に従って防いだ。徐温は趙歩で景仁と遭遇し、戦ってやや退いた。景仁が軍を率いて追い、隘路に迫ろうとしたとき、吏士はみな色を失った。
  • 紹は突然槍を取って大呼し、「敵を深く誘い込んだ。今こそ進むべきだ」と叫び、馬を躍らせて反転して戦い、左右に突撃した。全軍がこれに続き、鋭鋒をくじき陣を破り、当たる者は総崩れとなって梁兵は退いた。
  • 徐温はその背を撫でて「お前の智勇がなければ、私は危うく苦境に陥るところだった」と言い、金帛を格別に賜った。紹はそれをすべて麾下に分け与えた。
  • また霍邱で戦って梁兵を大破し、梁兵の屍を積んで京観とした。この役は高祖の時代の戦功第一とされた。
  • まもなく紹は叛いて呉越へ走った。武義元年(919年)、陳璋が香湾で呉越兵を破ったとき、徐温はその勇を惜しみ、紹を生け捕った者に銭百万を賞すると募った。指揮使の崔彦章が応募して捕らえて帰り、徐温はふたたび紹に兵を統べさせた。

方從訓

  • 方從訓の父・方虔は太祖の守将として兵を率い寧国に駐屯し、両浙に備えたが、のち呉越に捕らえられた。
  • 從訓は父に代わって寧国を守り、防禦にかなりの功を挙げた。子孫は代々寧国の人となった。

蔣延徽

  • 蔣延徽は太祖の婿。臨川王・楊濛とかねて親しく、中書令の徐知誥はこれを大いに畏れ忌んだ。
  • 大和年間(929-935年)、信州刺史となった。建州の土豪・呉光が閩の臣・薛文傑に圧迫され、一万の衆を率いて呉に亡命し、あわせて援兵を請うた。
  • 延徽は功を立てる好機と見て、朝命を待たずに兵を率いて合流し建州を攻め、浦城で閩兵を破って建州を包囲し、あと一歩で陥とすところまで行った。
  • 知誥は、城を得た後に延徽が楊濛を奉じて(呉の)復興を図ることを恐れ、使者を送って急ぎ帰還させた。閩人はその隙に追撃し、呉軍は敗れた。延徽は右威衛大将軍に左遷された。

王壇

  • 王壇はもと孫儒の隊将。孫儒が敗れると、その党三千人を率いて睦州の陳晟のもとへ奔った。晟はかなり疑って外城に置いた。
  • まもなく壇は三河鎮将の陳厳とともに婺州を攻め、婺州刺史の蔣環は会稽へ奔り、壇はその地を取った。
  • のち東陽鎮将の王永と攻め合った。呉越の武粛王(銭鏐)は当時、鎮海・鎮東節度使であり、兵を収めるよう諭したが従わなかったので、兵を興して討った。
  • 光化三年(900年)、壇は敗れて宣州へ奔り、田頵が親将として用いた。頵が敗れると壇は太祖に降り、淮南節度副使に任じられた。
  • 天祐九年(912年)、宣州制置使として出、李遇が朝覲しない罪を責めた。数年後に没した。

張崇

  • 張崇は慎県の人。官は廬州観察使に至った。
  • 天祐十三年(916年)、光州の将・王言が乱を起こすと、崇は命を待たず兵を率いて討ち平らげ、高祖は格別に褒賞した。久しくして徳勝軍節度使に抜擢され、武義への改元(919年)で安西大将軍を加えられた。
  • 崇は在官中に不法を好み、士庶は苦しんだ。あるとき広陵へ参覲したので、廬州の人は転任するものと思い、互いに喜んで「あいつはもう戻って来ない」と言い合った。崇は帰ってこれを聞き、人数分の「渠伊銭(あいつ税)」を取り立てた。
  • 翌年また参覲したときは、人々は口を閉ざして何も言わず、ただ顎鬚をしごいて祝い合った。帰ると今度は「捋髭銭(鬚しごき税)」を取り立てた。その貪欲・放縦ぶりはおおむねこうした類であった。
  • 廬江の民が県令の収賄を訴えたとき、侍御史知雑事の楊廷式は張崇まで併せて糾弾しようとしたが、徐知誥が取りなして止めさせた。
  • まもなく武寧軍節度使を領し、のちまた廬州に鎮した。大和三年(931年)、清河王の爵を賜った。
  • 崇は廬州にあって財貨を厚く使って権要に取り入り、そのため常に旧鎮に戻され、二十余年にわたって民の患いとなった。

張宣

  • 張宣、字は致用。若くして太祖に従って軍校となり、大将の柴斐に属した。斐は人を愛し部下をよく抑え、諸将もこれに感化されたが、宣だけはかなり暴虐で部下は苦しんだ。
  • 劉信が虔州を囲み、虔州の人が楚に援軍を乞うたとき、信は宣と高審思に兵を分けて防がせ、楚軍を大敗させた。
  • 累進して諸軍都虞侯となり、左街使に移ったが、いずれも厳酷をもって治めた。
  • 最後は武昌軍節度使を領し、地下室を設けて罪人を取り調べた。罪の大小を問わず、そこに入れられて無事に出た者はいなかった。
  • 久しくして境内は大いに治まり、道に落ちた物を拾う者もなかった。
  • あるとき雪の日に炭屋で喧嘩があり、取り調べると「炭を一秤買ったが目方が足りない」という。宣が量らせると確かにそうだったので、炭を売った者を斬り、首を晒し炭を市に懸けた。これ以来、炭は十五斤を一秤とすることに定まり、売り手は目方をごまかさなくなった。
  • 南唐の昇元年間(937-943年)に没した。

崔太初

  • 崔太初は出身地が原文で欠けている。太祖父子に仕え、官は寿州団練使に至った。在官中はかなり誅求と苛酷を事とした。
  • 順義元年(921年)、罷免されて右雄武大将軍となった。
  • これより先、徐温は太初が民心を失ったと聞いて広陵へ召還しようとした。徐知誥が「寿州は辺境の大鎮です。変事が起こるのではありませんか」と言うと、徐温は怒って「崔太初一人を制せないなら、他の者はどうする」と言い、ついに召還した。

曹筠

  • 曹筠は高祖に仕えて馬軍指揮使となった。衣錦軍の役で叛いて呉越へ奔った。
  • 徐温はその妻子を厚遇し、かつ招いて「私がお前を意に満たぬ思いで去らせたのだ。妻子のことは気にするな」と伝えた。
  • 武義元年(919年)、呉越兵が香湾で敗れると、筠はその機に乗じて呉へ戻った。徐温は、かつて筠の言を用いなかった三つの事例を自ら数え上げ、筠の去就の罪は問わず、田宅を返し軍職に復した。まもなく筠は内心恥じ入って没した。

李戴

  • 李戴は唐の平章事・李蔚の従孫。唐末に進士に及第した。人となりは大まかで威儀を構えなかった。
  • 唐が亡ぶと呉へ亡命し、起居郎を授けられ、広陵に家した。子の貽業のことは『南唐春秋』に見える。

盧擇

  • 盧擇は醴泉の人。烈祖(楊渥)に仕えて中書舎人となり、高祖のとき吏部尚書に進んだ。
  • 当時、政権は徐氏にあり、擇は位を占めるだけで見るべき事績はなかった。のち病没した。

楊迢

  • 楊迢は唐の楊敬之の孫。烈祖・高祖に仕えて駕部員外郎に至り、武義元年(919年)に給事中に移り、その職で没した。

徐善

  • 徐善は洪州の人。秦裴が洪州を陥としたとき、善の妹はとりわけ美貌で、ある軍校に奪われ、無理に結納を納められた挙句、連れ去られた。
  • 善は広陵へ赴いてこの件を訴えようとした。当時、烈祖の府庭は警戒が厳しく、布衣の遊士は一年かかっても一度も会えなかった。
  • 善がちょうど白沙まで来たとき、烈祖は夜の夢に神が現れて「江西の秀才・徐善が公に会おうと、いま白沙の宿にいる。良士であり、しかも訴えたい事情がある。手厚く遇するように」と告げるのを見た。
  • 烈祖は明朝すぐ騎馬を遣わして善を迎えた。到着すると礼遇は厚く、善は妹が掠奪された次第を詳しく述べた。烈祖は金を出して買い戻させ、善のもとへ帰した。
  • 歙州刺史の陶雅はこれを聞いて感心し、善を辟召して従事とした。高祖のとき中書舎人となった。

盧蘋

  • 盧蘋は洛陽の人。博学で応対に巧みだった。歴任して司農卿に至った。
  • 順義三年(923年)、後唐が梁を滅ぼしたと通告してきたので、睿帝は蘋を後唐への使者とした。厳可求はあらかじめ唐朝が問うであろう事柄を推し量り、密かに数条を書いて授けて行かせた。最後には黒雲都・長剣の兵数、および五十指揮使が都下にいることまで条目を増やした。
  • 唐に着くと、質問はことごとく可求が書き記した順の通りに来た。蘋がそれに応じて答えると、荘宗は大いに喜び、格別の贈物をして帰らせた。
  • 蘋は帰国して「唐主は遊猟に耽り、財を惜しんで諫言を拒み、内外みな怨んでいる。数年もたずに滅ぶだろう」と述べ、果たしてその通りになった。

楊彦伯

  • 楊彦伯は新淦の人。唐の時代に童子科に及第した。のち昭宗に従って鳳翔へ行き、そこから郷里へ逃げ帰った。吉州刺史の彭玕が厚遇し、しばしば県邑の代理を務めた。
  • 天祐年間に江西が平定されると、彦伯は高祖に仕え、累進して戸部侍郎となった。睿帝が軒に臨んで斉王・知誥を策命したとき、彦伯に詔して門下侍郎を摂して事を行わせた。
  • はじめ彦伯が長安へ選に応じに行ったとき、ある夕、華陰の宿に泊まった。そこの女将は先の吉凶を知ることができた。彦伯が出発しようとすると履が見当たらず、童僕をひどく叱りつけて騒いだ。女将は「出立の際に靴をなくすのは、事が成らぬ兆しです。京国には乱が起こり、あなたは百の艱難を経ることになるでしょう。あなたの爵禄はみな江淮にあり、官は門下侍郎に至ります」と言った。彦伯は信じなかった。
  • このとき(門下侍郎を摂したとき)その言葉を思い出し、鬱々として楽しまず、数か月で没した。

賈潭

  • 賈潭は器量があり、人と争わなかった。高祖のとき歴任して兵部尚書に至った。
  • 潭はかつて嶺南節度使が升ほどもある大きな橘を手に入れたのを見た。割ってみると中から数寸の小さな赤い蛇が出てきた。これも不思議な出来事である。