十国春秋卷八 列傳 雷彦恭

朗州を失いて奔る

  • 雷彦恭は武貞節度使雷満の子である。雷満は朗州に拠り、沅水を引いてその城に塹を作り、上に長橋を架けて攻めがたい構えとし、また深い池を掘っていた。
  • 府中に立ち寄る客があると、これを池のほとりに招いて宴し、池の水を指して「蛟龍や水怪はみなここに窟る。水府なのだ」と言い、酒たけなわになると座上の器を取って池中に投げ入れ、裸になって入りその器を取って水上で戯れ、しばらくしてから衣を整えてまた座に戻ったが、意気は平然としていた。その無頼な剽掠ぶりはもとより天性であった。
  • 天祐の初め、雷満が卒すると、雷彦恭が跡を継いで節度使となり、太祖に附いたが、それでもなお攻め掠めて荆湖の患いとなった。
  • やがて楚王馬殷が兵を発して雷彦恭を攻めたが、雷彦恭は塹を頼みとして拠り、年を越えても攻め破れなかった。(天祐)五年夏、楚の兵は朗州を陥落させ、雷彦恭は軽舟で(呉へ)来奔した。高祖はこれを淮南節度副使とした。
  • 楚の人はその弟の雷彦雄ら十人を捕らえて梁に送り、汴の市で斬った。澧州・朗州はついに楚に帰した。雷彦恭はのちに広陵で卒した。