十国春秋卷八 列傳 譚全播

要約

譚全播は南康の人で、同郷の盧光稠と親しく交わった。唐末の大乱に群盗が蜂起すると、衆に推されて挙兵したが、譚全播は「良き帥を得るべきだ」と諸軍を諭し、剣を抜いて木を三度斬りつけて威を示し、盧光稠を主に押し立てた。みずからは勇略をもって王潮を攻めて虔州・韶州を取り、弟の盧光睦が潮州で軽率に敗れた際も伏兵を用いて逆に潮州を奪った。劉隠が大軍で韶州に迫ったときは、精兵を山谷に伏せて偽って敗走を装い、これを大破した。戦功はことごとく盧光稠や諸将に譲り、その信頼をますます深めた。

盧光稠が梁に帰順して鎮南軍留後となった後、病没に際し譚全播に符印を託したが固辞し、その子盧延昌に仕えた。延昌が家臣黎球に殺されると、黎球は譚全播をも除こうとしたため、病と称して門を閉ざし世との交わりを絶ち、後を継いだ李彦図の疑いの目もうまく欺いて難を逃れ続けた。李彦図が死ぬと州人が相次いで邸を訪れて再起を請い、譚全播はついに立って梁から防禦使に任じられ、虔州を七年治めて善政を敷いた。

のち呉の高祖が劉信を遣わして虔州を攻めさせ、譚全播は雩都で捕らえられて広陵に連行された。右威衛将軍・百勝軍節度使に任じられたが、まもなく八十五歳で没した。

現代語訳全文

虔州に義を行いて名を成す

  • 譚全播は南康の人である。つねに同郷の盧光稠と互いに親しくしていた。盧光稠は容貌が雄偉であったが他に才能はなく、譚全播は勇敢で見識と謀略があったが、独り盧光稠の人となりを異ならぬものとして立てた。
  • 唐末、群盗が南方に起こると、譚全播は盧光稠に語った。「天下は騒然としている。これはまさに我らの時だ。いたずらにこの貧賤を守っていてどうする」と。そこでともに兵を集めて盗(=群雄の一団)となり、衆は譚全播を推して主とした。
  • 譚全播は言った。「諸軍はいたずらに賊となろうというのか、それとも成功を望むのか。もし成功を望むなら良き帥を得るべきである。盧公は堂堂として真に君らの主たる人物だ」と。衆はうわべで承知した。
  • 譚全播は怒って剣を抜き木を撃って三度切りつけ、「我が令に従わない者はこの木のようになる」と言った。衆は恐れ、そこで盧光稠を立てて帥とした。
  • このころ王潮が嶺南を攻め陥れたので、譚全播は王潮を攻めてその虔州・韶州の二州を取った。また盧光稠の弟の盧光睦を遣わして潮州を攻めさせたが、盧光睦は勇を好んで軽率に進んだ。譚全播は持重を戒めたが聞き入れず、必ず敗れるとみて奇兵を組んでその帰路に伏せた。
  • 盧光睦ははたして敗走し、潮州の人々がこれを追ったところ、譚全播は伏兵をもって迎撃してこれを大破し、ついに潮州を取った。
  • このころ劉隠が南海に起こって盧光睦を撃退し、兵数万をもって韶州を攻めた。盧光稠は大いに恐れ、譚全播に「虔州・韶州はみな公が取ったものだ。今日、公でなければ守ることはできない」と言った。
  • 譚全播は「私は劉隠など容易に対抗できるとわかっている」と言い、そこで精兵一万を選んで山谷の中に伏せ、うわべでは城南に戦場を構えるふりをして劉隠に戦の期日を告げ、老弱の兵五千で挑戦させた。
  • 戦いが酣(たけなわ)になると偽って敗走し、劉隠が急いでこれを追うと伏兵が発し、劉隠はついに大敗した。盧光稠は戦功を先んじたが、譚全播は諸将にことごとくこれを推し譲ったので、盧光稠の心はますます彼を賢とした。
  • 天祐六年、盧光稠は高祖に来附し、また虔州・韶州の二州をもって梁に命を請うた。梁の太祖はそのために百勝軍を置き、盧光稠を防禦使兼五嶺開通使とし、さらに鎮南軍を建てて留後とした。
  • ほどなく盧光稠が病に倒れ、符印を譚全播に託したが、譚全播は受けなかった。盧光稠が卒すると、譚全播はその子の盧延昌を立ててこれに仕えた。
  • 盧延昌は遊猟を好み、その将の黎球は門を閉じて盧延昌を拒み、盧延昌は殺された。黎球はそこで譚全播を殺そうと謀ったが、譚全播は恐れて病と称して外に出なかった。
  • ほどなく梁は黎球を防禦使に拝したが、黎球は急病で死に、その将の李彦図が自立した。譚全播はますます恐れ、ついに病篤しと称して門を閉ざして自ら世間との交わりを絶った。
  • 李彦図はこれを疑い、人を遣わしてその動静を覗わせたが、譚全播はうわべで病の重い様子を装って自らを免れた。
  • 李彦図が死ぬと、州の人々は相ついで譚全播の邸に詣で、門を叩いてこれ(の再起)を請うた。譚全播はそこで立ち上がり、使者を遣わして梁に命を請い、防禦使を拝命した。
  • 譚全播は虔州を治めること七年、善政があった。高祖は劉信を遣わして虔州を攻め破らせ、雩都で譚全播を捕らえ、これを広陵に連れ帰り、右威衛将軍・百勝軍節度使を命じた。ほどなく卒した。享年八十五。