十国春秋卷七 列傳 苗璘
苗璘
- 苗璘は、その世系は不明である。太祖の時、裨将として劉存に従って鄂州で杜洪を攻めた。当時、汴の将曹延祚らが兵を率いて洪を援け、その兵勢はかなり盛んであった。降卒があって汴軍の虚実を語り、「鄆州の軍は与しやすいですが、開道軍は容易には当たれません」と言った。璘はそこで敢死の士を率いて自ら開道軍を撃ってこれを破り、その将士三百人を捕らえて鄂州城外に晒すと、洪は気勢を挫かれ、ついにこれによって敗れた。
- 乾貞年間の初め、官を累ねて右雄武軍使に至り、静江軍使王彦章とともに楚の岳州を攻め、楚の将許徳勲と道人磯で戦ったが、軍は敗れて楚に捕らえられた。まもなく楚に和を求め、再び本国に帰り、病んで卒した。
史論
評して言う。劉信・呂師造・王綰は皆、桓桓(勇武の様子)として虎や貔(猛獣)のような臣であった。王茂章は専閫(一方面の軍を統べる)の才がありながら、その用いられ方を全うすることができず、禍を畏れて出奔したのはやむを得ない事情によるものであった。米志誠は不当に殺戮に遭ったのであって、その罪ではない。東海の悪と同じように数え切れないほどの冤罪があろうか。苗璘のような者は、鄂州の役でのその功は固より没することはできない。