十国春秋十國春秋卷七 吳七 列傳(劉信・吕師造・王綰・王茂章・米志誠・苗璘/周本・李德誠・王安・王輿)
劉信 ── 出自と太祖への帰属
- 劉信は兖州中都の人。はじめ群盗の一味だったが敗れて広陵へ逃げ、太祖(楊行密)に仕えて数々の功を立てた。
- 太祖は厚遇し、しばしば呼んで軍議をさせた。あるとき酔って口がきけず、太祖に罵られると、劉信は剣一振りを提げて席を立ち去った。追わせようとする側近に太祖は「信が私を裏切るはずがない。酔って去っただけで、醒めれば戻る」と言い、翌日果たして参上した。
- 累進して鎮南軍節度使に至った。
虔州攻めと徐温との軋轢
- 天祐十五年(918年)、王祺が虔州の譚全播を攻めたが長く落とせず、王祺が病んだため、高祖(楊隆演)は劉信を虔州行営招討使として交代させた。
- 劉信は昼夜攻め立てたが陥とせず、使者を送って譚全播を説き、人質と賄賂を取って引き揚げた。
- 同平章事の徐温は激怒し、「十倍の兵で一城を落とせず、説客で降らせるとは、どうやって敵国を威圧するのか」と言い、使者を笞打って返し「これは信を笞打ったのだ」と告げた。
- さらに劉信の子・英彦に兵三千を授け、「お前の父は上流の地にあって大軍を率いながら敵に勝てない。これは謀反だ。この兵を連れて父とともに謀反せよ」と言い放った。
- あわせて昇州内指揮使の朱景瑜を同行させ、「譚全播の守兵は農夫ばかりで、一年越しの飢えに苦しみ、妻子を城外に置いている。囲みが解けて喜んで帰ったところへ大軍再来と聞けば必ず逃散し、全播が守るのは空城にすぎない。行けば必ず勝てる」と述べた。
- 劉信は大いに恐れ、増援して虔州を破った。
骰子の誓いと晩年
- 劉信が滞陣して密かに譚全播を逃がし謀反を企てていると讒言する者が現れた。劉信はこれを聞き、自ら戦勝を報告するため金陵に赴き徐温に会った。
- 徐温と博打をした際、劉信は骰子を握って声を張り「劉信が呉に背く気があるなら悪目が出よ。二心がなければ渾花(総赤)となれ」と誓った。徐温が慌てて止めようとしたが、一擲して六つの賽がすべて赤となった。徐温は恥じ入り、自ら盃を取って劉信に飲ませたが、それでも疑いは解けなかった。
- のち楚が荊南を攻め、荊南が救援を求めると、劉信は歩兵を率いて潭州へ向かい、荊南の囲みは解けた。
- 武義元年(919年)、征南大将軍を加えられた。
- 唐(後唐)の荘宗が梁を滅ぼし、諫議大夫の薛昭文を閩への使者として遣わし洪州を通過させたとき、劉信は宴を設けて労い、「皇帝は私を知っているか」と尋ねた。昭文が「主上は河南を平定したばかりで、まだ公の名をよくご存じない」と答えると、劉信は「漢に韓信あり、呉に劉信あり、同格の人物だ。帰って天子に伝えよ、いずれ淮上で射を競おうと」と言い、百歩先の牙旗の銀の飾りを指し、盃を挙げて「これに中てたら私のために一杯飲んでくれ」と言い、一発で射当てた。
- まもなく後唐が蜀を討つと、徐温は急ぎ劉信を広陵へ召して左統軍とし、内地の備えという名目で実は任地を奪った。ほどなくして没した。
- 南唐が禅譲を受けると、旧功により太師を追贈された。長子の彦英は高祖に仕えて親兵を統べ、第四子の彦貞は南唐に仕えて別に伝がある。
吕師造 ── 出自と戦功
- 吕師造は揚州の人。太祖の淮南挙兵に従い都将となった。
- 天復元年(901年)、李神福が杭州を攻め、呉越の将・顧全武が八つの砦を連ねて待ち構えた。神福は師造に青山の下へ伏兵を置かせ、偽って退いて全武を誘い出し、伏兵を発して全武を捕らえた。
- 天祐初、周本に従って衢州刺史の陳璋を援けた。呉越兵が衢州を取りに来たとき、師造は周本に「敵はすぐ目の前にいながら陣を動かさない。我らを侮っているのだ。必ず撃つべきだ」と説いた。周本はその言を全て用いたわけではなかったが、その日途中で呉越軍を破り、師造の働きが大きかった。
- まもなく南面都統軍使として蘇州を攻めたが功はなかった。その後また周本に従って南征し、上高で苑玫を破り、池州団練使に移った。
- しばらくして楚が鄂州を侵すと、高祖は師造を水陸行営応援使として楚軍に当たらせたが、到着前に楚軍は退いた。饒州刺史に改められた。
- 太祖父子に歴仕して南北に転戦し、多くを陣中で過ごし、向かうところ敵の鋭鋒を挫き陣を崩した。累進して光禄大卿・検校太保兼御史大卿に至った。
竹篠江の怪異
- 池州にいたころ、師造はかなり蓄財に励んだ。あるとき娘を揚都へ嫁がせ、たいそう豪華な支度をつけて家人に送らせた。
- 夜、竹篠江に停泊していると、一人の道人が突然舟に躍り込み、舟を突き抜けて行った。その通った跡から火が大きく燃え上がり、後ろの舟に移るとそこにも火がついた。
- ただ一人の老婢の髪が一尺ほど焼けただけで、人にも舟にもまったく損害はなく、道士の姿も消えていた。人々は不思議がった。
王綰
- 王綰は合肥の人。太祖に仕えて漣水防遏使となり、海州副使に移った。
- 天復年間、青州の王師範が沂州・密州を握って(梁に)叛き、太祖に援軍を乞うた。太祖は臺濛と王綰に兵を授けて援けさせた。
- すでに密州を抜き、進んで沂州を攻めようとしたとき、間諜が「城中は旗を伏せ太鼓を止めている」と報じた。王綰は「これは攻めてはならぬ」と言ったが、諸将は強いて攻めようとし、綰は止められなかった。そこで林間に伏兵を設けて待った。ほどなく沂州を攻めた軍は果たして勝てず、敵が勢いに乗って追撃してきたところで伏兵を発し、軍を救うことができた。その用兵はおおむねこうした類であった。
- 武義元年(919年)、鎮東大将軍を加えられ、のち百勝軍節度使に移って没した。
王茂章 ── 出自と気質
- 王茂章は廬州合肥の人。幼いころから太祖の淮南挙兵に従い、常に側近くに侍して親校となった。
- 驍勇果敢で剛悍、質朴でほとんど威儀を構えず、敵に臨めば身をもって士卒に先んじた。太祖はその勇を高く買った。
青州の戦い ── 朱友寧を斬る
- 梁王朱全忠が甥の朱友寧に青州の王師範を攻めさせると、師範は太祖に援軍を乞い、太祖は茂章に歩騎七千を授けて救援させた。
- 師範は城を背に二つの柵を築いていた。友寧が夜にその一方を襲い、柵中から急を告げて出撃を促したが、茂章は動かなかった。友寧は一柵を破り、連戦を続けた。夜明けごろ、茂章は友寧の兵が疲れたと見て出撃し、大いに破って友寧を斬り、その首を太祖に報じた。
汴軍との激戦と撤退
- そのころ朱全忠は鄆州を攻めていたが、友寧の死を聞くと二十万の兵を率いて強行軍で駆けつけた。
- 茂章は塁を閉ざして怯えたふりをし、汴兵が緩んだ隙に柵を壊して打って出、疾駆して激戦した。戦いの最中に退いて座り、諸将を呼んで酒を飲み、その後また戦った。
- 全忠は高所からこれを望み見て、青州の降人に「酒を飲んでいるのは誰か」と尋ね、「王茂章です」と聞くと、「この者を将に得られたら天下を平らげるのは造作もない」と嘆じた。汴兵はまた敗れた。
- 茂章が軍を還すと汴兵が急追した。茂章は逃げ切れぬと見て、裨将の李虔裕に一旅の兵を与えて山の下に伏せさせ、自軍は進まず鞍を解いて眠った。虔裕が「追兵が来ます、急ぎお逃げください」と叫び、死を賭して押しとどめようとしたが、茂章は「私もここで戦う」と言った。虔裕が三度請うてようやく茂章は動き、虔裕はついに戦死した。そのため汴兵は追いつけず、茂章は全軍を保って帰還した。
宣州の対立と杭州への出奔
- 茂章は累進して潤州団練使となった。太祖が薨じ、烈祖(楊渥)が宣州から入って立つと、茂章を代わって宣州の地を守らせた。
- 烈祖が宣州を去るとき、帷幕と親兵を持って行こうとしたが、茂章は惜しんで渡さなかった。烈祖は怒り、王位を襲うと兵を出して攻めた。茂章は杭州へ奔った。
- 呉越の武粛王(銭鏐)は鎮東節度副使とし、梁王朱全忠の家諱を避けて名を景仁と改めさせ、のち寧国節度使を領させた。
梁での仕官と最期
- まもなく梁王が帝を称し、かねて景仁の名を知っていたので人を遣わして召した。景仁は間道を通って梁へ帰った。
- 途中、撫州を通ったとき、危全諷はちょうど呉と兵を交えており、兵を並べて景仁とともに城に登って眺めた。景仁は「私は長く呉に仕えた。呉兵には三等あり、公のこの軍勢はその下等に当たる程度だ。十万を増さねば勝てまい」と言った。全諷は果たしてこれで敗れ、人々は景仁を用兵に通じていると称した。
- 汴に至ると引き続き寧国軍節度使とされ、同中書門下平章事を加えられた。長く用いどころがなく、宰相の班に列して朝請に参るだけであった。
- 数年後、梁の太祖は北面招討使とし、晋人と戦って柏郷で大敗した。梁太祖は「私にも分かっている。韓勍・李思安がお前を客将と侮って指揮に従わなかったのだ」と言った。
- 梁の末帝が立つと淮南招討使として廬州・寿州を攻めさせた。軍が独山を過ぎたとき、山に武皇帝(楊行密)の祠があり、景仁は再拝し号泣して去った。霍山で戦って梁兵は敗走したが、景仁が殿軍となって力戦したので、梁兵の損害は大きくならずに済んだ。
- 汴に帰って疽を患い没し、太師を追贈された。
米志誠
- 米志誠は太祖に仕えて牙校となった。勇敢で膂力があり、当時、朱瑾は槊の巧みさで、志誠は射術で名を知られ、軍中はともに驍将と認めた。
- 安仁義が叛くと、王茂章とともに潤州で仁義を捕らえた。のち都押牙となり、梁の潁州を襲ったが陥とせなかった。
- 高祖のとき行営都指揮使として楚将の苑玫を破って功を立て、また柴再用とともに劉崇景らを万勝岡で破った。累進して泰寧軍節度使となった。
- 朱瑾が徐知訓を殺したとき、志誠は十数騎を率いて天興門に至り、瑾の行方を問うたが、瑾はすでに死んだと聞いて引き返した。
- 徐温は志誠が瑾に加担したと疑い、どうしても殺そうとした。厳可求は事が仕損じるのを恐れ、袁州で大勝したと偽って将吏を呼び集めて祝賀させ、伏兵を置いて志誠を捕らえ、その諸子ともども斬った。
苗璘
- 苗璘は家系不詳。太祖のとき裨将として劉存に従い、鄂州の杜洪を攻めた。
- 当時、梁将の曹延祚らが兵を率いて杜洪を援け、勢いは盛んだった。降兵が汴軍の内実を語り、「鄆軍は与しやすいが、開道軍は容易に当たれない」と言った。璘は決死の士を率いてみずから開道軍を撃ち破り、その将士三百人を捕らえて鄂州城外に引き回した。杜洪は気勢を挫かれ、ついにこれによって敗れた。
- 乾貞初(927年)、累進して右雄武軍使・同静江軍使となった。王彦章が楚の岳州を攻めたとき、璘は楚将の許徳勲と道人磯で戦って敗れ、楚の捕虜となった。まもなく楚に和を求めて帰国し、病没した。
史論(列傳前半)
- 論に曰く。劉信・吕師造・王綰はいずれも猛々しく、虎や貔のごとき臣であった。王茂章は一方面を任せるに足る才を持ちながらその用を全うできず、禍を畏れて出奔したのはやむを得ぬ事情による。米志誠は不当な殺戮に遭い、その刑は罪に見合わなかった。東海(徐温)の悪業は数え切れぬほどである。苗璘については、鄂州の役における功績は決して埋没させてはならない。
周本 ── 出自と太祖への帰属
- 周本は舒州宿松の人。漢の南郡太守・周瑜の後裔で、周瑜は宿松に葬られ、その墓を祠とし、傍らに住む子孫は数十家に及んだ。
- 幼くして父を失い貧しかったが膂力があり、単身で虎と格闘して殺したことがある。
- はじめ宣州節度使・趙鍠の将となり、勇は軍中随一だった。太祖が趙鍠を破って周本を捕らえたが釈放し、帳下に属して牙将とした。
- 攻戦のたび真っ先に城壁に登り、堅陣を破って鋭鋒をくじき、矢石を浴びて全身傷だらけになった。戦い終わると自ら鉄を焼いて傷を焼灼し、飲み食いも談笑も平生と変わらなかった。累進して淮南馬歩使となった。
衢州の陳璋救出
- 両浙の将・陳璋が衢州に拠って呉に帰順したが、呉越兵に囲まれて出られなくなった。太祖は周本を遣わして璋を迎えさせた。
- 到着すると呉越軍は囲みを解いて璋を出したが、兵を並べたまま動かなかった。周本は璋を連れて帰った。
- 裨将の吕師造が「呉越兵が近くにいて動かない、撃つべきだ」と請うたが、本は「私は陳使君を迎える命を受けた。陳君が来た以上、私の任務は済んだ。何のために戦うのか。しかも敵が近くにいて動かないのは、必ずこちらを待ち構えているのだ。撃って勝てるか。向こうが先に動いてから撃っても遅くない」と答えた。
- ほどなく呉越軍が追尾してきた。呉軍が途中で宿営した夜半、周本は驚いたふりをして輜重を捨てて逃げ、傍らに伏兵を置いた。呉越軍は果たして急追し、伏兵が起こって前後から挟撃し、その軍を殲滅した。
象牙潭の大勝 ── 危全諷を捕らえる
- 天祐六年(909年)、撫州刺史の危全諷が諸州の兵十万を率いて洪州へ攻め寄せ、象牙潭に陣した。楚人も高安を囲んで全諷に呼応した。
- 江西守将の劉威から急報が届き、高祖は将に任じうる者を列官に諮った。厳可求が周本を推した。
- 周本はそのとき蘇州を攻めて落とせず、それを恥じて病と称して家に臥せっていた。可求が自ら出向いて無理に起こすと、本は「蘇州の役は敵が強く我が弱かったのではない。ただ我が将帥の権限が軽く、下がみな独断で動いたから功がなかったのだ。今どうしても用いるなら副将を置かないでほしい」と言った。これを許され、精兵七千を得て昼夜兼行した。
- 高祖ははじめ高安の囲みを解くよう命じたが、本は「楚人は高安を取りたいのではなく、全諷の後援をしているだけだ。先に全諷を破れば楚人は必ず高安を捨てて逃げる。撃つまでもない」と言った。
- そこで象牙潭へ駆けつけて急襲し、その軍を大破して全諷を捕らえ、楚人も逃げ去った。吉州刺史の彭玕、信州刺史の危仔昌もみな城を捨てて去り、江西の地はここで定まった。
- 到着した当初、本はただちに兵を進め、劉威が宴で労おうとしたのを断った。ある者が「敵は多い、形勢をよく見てから」と言うと、本は「賊は我らの十倍だ。我が兵にそれを知られれば、戦う前に気勢を奪われる。急いでその鋭気に乗じて用いてこそ功がある」と答えた。果たしてその読み通りとなり、高祖はその才を奇として信州刺史に用いた。
信州の城楼の宴
- 数年後、閩・楚・呉越の兵二万が信州を攻めた。信州の兵は数百に満たず、迎え撃って利あらず、呉越兵が幾重にも城を囲んだ。
- 周本は城門を開かせ、門内に空の幕を張り、僚佐を招いて城楼に登り、音楽を奏でて宴を張った。飛矢が雨のように降り注いでも少しも動じなかった。呉越軍は伏兵があるかと疑い、囲みを解いて去った。陣に臨んでの決断はおおむねこうした類であった。
名将としての評価と晩年
- 後唐の荘宗が洛に入ると、高祖は司農卿の盧蘋を使者として送った。帰って「唐主が我が国の名将は健在かと問い、その中に周本の名があった」と報じた。これにより召されて雄武統軍となり、やがて出て寿州に鎮し、徳勝軍節度使に改められ、のち安西大将軍・太尉・中書令・西平王を加えられた。
- 本は学問はなかったが儒士を尊び、僚属を礼で遇したので、士民に愛された。性は朴訥で他の才はなかったが、軍事だけは生まれつき知っているかのようであった。
禅譲への抵抗と最期
- 斉王(徐)誥が禅譲を受けようとしたとき、徐玠・周宗らは周本と李德誠の名位が重いことから、二人に群臣を率いて勧進させようと諷した。
- 本はすでに老いて耄碌しており、末子の弘祚が一家に禍が及ぶのを恐れて代わりに署名して上表した。本はそれを知らず、なお親しい者に「私は呉室の厚恩を受けた。老いたとはいえ、異姓を推戴などできようか」と言っていた。
- 臨川王(楊)濛は爵を公に降されて和州に廃居していたが、禅譲が近いと聞き、監視役を殺して腹心二騎とともに周本のもとへ走った。本はすぐ会おうとしたが、弘祚が固く止めた。本は怒って「我が家の若君だ。なぜ一目会わせぬ」と言った。弘祚は中門を閉ざし、外の者に濛を捕らえさせて訴え出、濛はついに誅殺された。
- 本は衆に従って建康へ行き勧進した。これを恥じ恨んで病みつき、数か月で没した。年七十七。
- 晩年は酒を好み施しを楽しんだ。「ご高齢なのだから、子孫のために少しは蓄えては」と言う者に、本は「私は草鞋履きで武皇帝(楊行密)に仕え、位は将相に至った。誰から遺されたものだと言うのか」と答えた。
- 死後、太常は令に準じて三日の廃朝としたが、南唐の先主は旧将なので手厚い典礼を求めよと命じ、礼官が「前朝では汾陽王郭子儀のために五日の廃朝とした例がある」と述べたので、その礼に従わせた。諡は恭烈、葬儀には鹵簿が給された。
- 信州刺史のころ、揚都へ参内した折、私諱の日にあたって独り外舎に泊まった。灯をともして寝ようとしてまだ眠らぬうち、室内に物音がした。見ると火鉢がゆらゆらと浮き上がり、天井まで達し、しばらくして下りてきて灰が舞い上がった。翌日、浮き埃が物を覆っていたが、他に怪異はなかった。広陵の人はこれを不思議な出来事として語り伝えた。
周鄴(周本の子)
- 鄴は周本の長子。若くから驍勇で、本に従って征討し戦功があった。
- 本が信州にあって建州まで進出したとき、道が険しく囲まれて危地に陥った。鄴は馬を躍らせて救援し、自ら数十人を斬り、本を守って脱出させた。建州の人々は驚き恐れて潰走した。
- 臨川王濛が捕らえられたときは、嘆き憤ること一か月余りに及び、国人はこれを義ありと称した。
- のち南唐に仕えて親軍を統べ、累進して滁州刺史・廬州節度使となった。凶暴で狠戻、常に野心を抱いていたが、南唐の先主は周本の子ゆえに特に大目に見た。昇元六年(942年)に没した。
李德誠 ── 出自と趙鍠への忠
- 李德誠は広陵の人。若くして宣州節度使・趙鍠に仕えて給使となった。
- 太祖が宣州を攻め、趙鍠が敗れると側近はみな散ったが、德誠と韓球だけは離れなかった。
- 城中では裨将の周進思を推し立てて太祖に抗した。鍠は德誠を城内に入れて進思に降伏を説かせようとしたが、出発しようとした矢先に急に疫病にかかって動けず、代わりに韓球が命じられた。球が進思のもとへ行くと、進思は球を斬ってその首を城外に投げた。德誠はその日のうちに治り、人々は不思議がった。
- 趙鍠が死ぬと、太祖はその人となりを義として一族の女を娶らせた。
潤州以後の歴任と栄達
- 常に従軍して功を積み、江南馬歩軍使となった。諸将とともに潤州で安仁義を包囲したとき、諸将は仁義が城に臨んで督戦するのを見るたび罵ったが、德誠だけはそうしなかった。
- 城が陥ちたとき、仁義は弓矢を手に城上に座っていたが、德誠が来るのを見て「お前は私に無礼を働かなかった。しかも奇相がある。いずれ必ず大いに貴くなろう。私はお前の功としてやる」と言い、弓矢を投げ捨てて捕らえられた。太祖はただちに德誠を潤州刺史に任じた。
- まもなく江州に移り、のち撫州節度使に転じた。武義元年(919年)、平南大将軍・中書令を加えられ、ほどなく百勝軍節度使に改められた。大和年間(929-935年)にはまた鎮南軍節度使となった。
- 南唐が禅譲を受けると太師を拝し南平王に封ぜられ、進んで趙王に封ぜられた。
- 德誠は楊氏に仕えることが最も長く、南唐では佐命の臣として率先して百官を率いて勧進した。もともと大きな功労はなく、時勢の巡り合わせで高位に至ったが、富貴と長寿は世に稀なほどであった。ただし人となりは謙恭沈厚で、始終一貫していた。
- 洪州から金陵へ参覲したとき、南唐の先主は内夫人を遣わして道中で労わせ、百官は都門に列して謁し、参内の日には朝堂に席を設けて待たせた。
- 昇元四年(940年)に没した。年七十八。南唐の先主は五日の廃朝とし、諡を忠懿とした。子は二十八人あり、建勲は宰相、建封は将となった。妻の楊氏は滕国君に封ぜられ、当世の栄華とされた。
- はじめ南唐の信王・李景達は德誠の娘を娶っていたが、先主が李姓に復すと、有司は同姓の婚は非礼だとした。先主は「南平王は国の元老であり、婚を離すべきでない。信王妃は南平を氏としてよい」と制し、これも異例の扱いとされた。
王安
- 王安は廬州廬江の人。若くして太祖に仕え、麾下に属した。
- あるとき太祖が戦場で高い塚に登って敵を望んだとき、安は唾壺を捧げて傍らに侍していた。一同が前方に目を奪われている隙に、突然一人の武士が矛を構えて太祖に迫り、誰も防げなかった。安は壺を地に置き、弓を引いて一発で射殺し、静かに弓を袋に納め、また壺を捧げて立ち、顔色ひとつ変えなかった。太祖は喜んでその背を撫で、「お前ほどの器量なら、いずれ必ず富貴になる」と言った。
- 功を積んで袁州刺史に至った。南唐の禅代のとき百勝軍節度使に用いられた。虔州は嶺南と地を接し、南漢の使者が往来するので節度使が宴労と贈答にあたるが、安の名は南漢主の祖の諱に触れるため、南唐の先主は名を「会」と改め賜った。昇元五年(941年)に没した。年七十三。
王輿
- 王輿は鎮東大将軍・王綰の弟。はじめ小校として周本に従い危全諷を攻めた。
- 開戦に際し、本は賊の水柵を見渡して諸将に部署を割り当て、傍らの山頂の小さな営を指して「お前はあれを取ってこい」と輿に言った。輿は生返事をして動かない。本が「行くのを憚るのか」と言うと、輿は「私を臆病者とお思いでないなら、この柵を攻めさせてください。ここを捨ててあちらへ向かって何になりましょう」と答えた。本は大いに喜び、「お前もここが必争の地と分かっているのか」と言って任せた。
- 輿は軽舟に乗ってその前鋒を襲い破り、柵を押し開いて突入した。諸軍が続いて進み、賊は大潰した。
- 功を積んで諸軍都虞侯に至り、睿帝(楊溥)のときは大いに信任された。長らくして光州刺史として出た。
- これより先、兄・綰の子の傳拯が海州都指揮使として叛いて唐(後唐)に付き、輿が光州にいると聞いて使者を送り誼を通じようとした。輿はその使者を捕らえて上申し、あわせて郡の任を解いてほしいと願い出た。控鶴都虞侯に進み、のち左宣威統軍となり、鎮海節度留後・金吾衛大将軍を歴任した。
- 南唐の禅代では輿は睿帝に従って潤州へ行き、鄂州へ鎮を移された。監軍の甄廷堅とかねて折り合いが悪かったが、廷堅が二心ありと誣告されたとき、南唐の先主が使者を送って廷堅を捕縛し獄に下そうとした。使者が着く前に輿はこれを察知し、密かに廷堅に告げ、「今はただちに闕に帰って処分を待つほかない。中使と行き合わぬように」と策を授けた。廷堅は恐れて他の策を考える余裕もなくこれに従い、難を免れた。これにより人々は輿を長者と認めた。
- 中主(李璟)のとき同平章事を加えられ、保大二年(944年)に没した。年七十四。
王輿の奇話
- 輿は若いころ従軍して潤州を攻め、大弩に射られて右耳に中り、矢は左耳から抜けてさらに傍らの一人に当たり、その者は立ったまま死んだ。輿は助けられて営に帰り、百日余り臥せったが無事で、老年まで耳は遠くならなかった。
- また潁州を攻めたとき、夜の夢に道士が現れ「流星が落ちてくるが、避けられれば富貴になる」と告げた。営門に寄りかかって士卒を城に登らせていたとき、城上から投石機の石が発せられ、営門と鎧の半ばに当たってともに砕けたが、輿は傷つかなかった。輿は「夢の流星とはこれだ」と言い、世人は皆これを奇として、輿自身もかなりこれを自負した。
史論(列傳後半)
- 論に曰く。周本と李德誠はともに楊氏の勲臣で、位も顕職に列した。一方は徐広が涙を流したような(旧朝を惜しむ)心を抱き、一方は范雲の勧進の術に倣った。行跡は似ていても志はいささか異なっていた。王安は器量で称され、王輿は寛厚で知られ、二姓に歴仕して功績は輝かしいが、やはり南平王(李德誠)と同列には論じられない。