十国春秋卷六 列傳 劉存

要約

劉存は泌陽の人で、驍悍で用兵を善くし、太祖に仕えて功を積んで舒州団練使に至った。天復三年(903年)、李神福を副けて鄂州の杜洪を攻めたが陥落させられず、翌年、神福が広陵に帰るとその後を継いで招討使となった。天祐二年(905年)、城を焼くと城中の兵が突囲して出てきたが、諸将の急襲要求に対し「撃てば城に戻ってかえって固くなる、去るに任せれば城は取れる」と深追いを戒め、果たしてその日城は破れ、杜洪を捕らえて広陵に送り鄂岳観察使となった。

まもなく西南面都招討使として岳州を取り、勝ちに乗じて陳知新とともに舟師で楚を討伐したが瀏陽で大敗し、二人は捕らえられた。楚の武穆王馬殷は二人の武名を惜しんで生かそうとしたが、劉存らは「昔年、宣城では刃を逃れたが、今日の敗北は天が我らを滅ぼすもの、どうしてお前に仕えて生を求めようか、我らは楊氏に背く者ではない」と大いに罵り、屈することなく殺された。岳州は再び楚の手に帰した。かつて讒言により無実の判官霍生を獄中で縊死させた因縁があり、湖南征伐に臨んだ際、舒州の人々の間で霍生の霊が現れる不思議な夢が語られ、後年その死の予兆として伝えられた。史論では、柴再用・秦裴らと並べ、劉存を殺身成仁の義を尽くした士として特に聖賢の道にかなうと高く評価する。

現代語訳全文

節を守った将

  • 劉存は泌陽の人である。驍悍で用兵を善くし、太祖に仕えて功を積んで舒州団練使に至った。天復三年(903年)、李神福を副けて鄂州で杜洪を攻めたが陥落させることができなかった。天祐元年(904年)、神福が広陵に還ると、存が代わって招討使となった。
  • 翌年、兵を率いて鄂州城下に迫って城を焼くと、城中の兵が突囲して出てきた。諸将はこれを急いで撃つよう請うたが、存は「これを撃って再び城に戻れば、城はますます堅固になる。彼らが去るに任せれば、城は取ることができる」と言った。この日、城は破れ、洪を捕らえて広陵に送った。太祖はそこで存を鄂岳観察使とした。
  • まもなく西南面都招討使に任じられ、岳州を取ると、勝ちに乗じて岳州刺史陳知新とともに舟師を率いて楚を討伐したが、瀏陽で大敗した。存・知新は共に捕らえられた。楚の武穆王(馬殷)はかねてより二人の名を聞いており、これを生かそうとしたが、存と知新は大いに罵って、「昔年、宣城では我らの刃を逃れたものよ。今日の敗北はすなわち天が我らを滅ぼすものであって、我らがどうしてお前に仕えて生を求めようか。我らはどうして楊氏に背く者であろうか」と言った。武穆王はこれを屈服させられないと知り、そこでこれを殺した。岳州は再び楚に入った。
  • 知新は当時刺史から団練使となっており、官は光禄大夫・検校尚書左僕射・兼御史大夫に積んでいた。
  • 存が舒州にいたとき、常に儒生の霍某を招いて団練判官としていたが、その後讒言によって獄中でこれを縊死させた。この時に及んで、存が湖南を征したところ、舒州の人が霍生が司命祠から出て手を打って大笑いし、「私の罪はようやく雪がれた」と言う夢を見た。当時、霍生の妻の兄馬鄴が黄州刺史であったが、夜に斉安門を叩いて、「舒州の霍判官が軍前に赴くにあたり、使君に馬を借りたい」と言う者がいた。城壁を守る者がこれを鄴に告げると、鄴は嘆いて、「劉公は無実の霍生を殺した。今この者が赴くならば、どうして禍が無いはずがあろうか」と言った。数日後、存は果たして敗績して死んだ。

史論

評して言う。柴再用は身を慎み功があってもそれをひけらかさない、社稷の臣であった。秦裴は力尽きて敵に降ったが、旧主を忘れず、ついに本国に還って江西を切り開いた。その品格には嘉すべきものがある。二劉・二李(劉金・劉存、李友・李厚)は一時に名将と称され、殺身成仁の義においては苟且に免れることが無かった。存は特に聖賢の道にかなうものである。