十国春秋卷五 列傳 李簡

李簡

  • 李簡は上蔡の人である。太祖に仕えて親将となった。ちょうど孫儒が広陵に駐屯したとき、太祖は兵を出してこれを防いだが、儒に囲まれて危うく脱出できなくなったところ、簡は敢死の士百人を率いて太祖を幾重もの包囲から救い出す功をあげた。その後、官を歴任して常州刺史に至った。
  • 高祖の時、簡は李遇らと共に徐温に対して大いに不満を抱いていたが、遇が誅殺されると、簡を武昌軍節度使に任じた。武義元年(919年)、鎮西大将軍・兼侍中を加えられた。太和元年(929年)、病により江都への帰還を求めたが、途中の采石で卒した。
  • 徐知詢はもともと簡の婿であったので、簡の親兵二千人を金陵に留め、簡の子の彦忠を父に代わって鄂州に鎮守させるよう上表して推薦したが、当時徐知誥が輔政しており、これを許さなかった。知詢は大いに怒って言った、「劉崇俊の兄の親族は三代にわたって濠州を治めている。彦忠は私の妻の一族なのに、どうして武昌を得られないのか」。これより次第に知誥と仲違いするようになった。

史論

評して言う。李神福は戦って克たないことがなかったが、その義は私を忘れることにあり、ただ勇略のみで勝ったわけではない。張訓は用兵において決断をもってし、陶雅は民を治めるにあたって寛大をもってし、劉威は静をもって動を待ち、台濛は柔をもって強に対した。古の名将に照らしても何ら劣るところがない。李遇は一言の過ちからついに禍のきっかけを発し、李簡は常に内心の憤りを抱きながらも結局天寿を全うすることができた。これもまた幸・不幸というものであろう。