十国春秋卷五 列傳 李遇
要約
李遇は太祖に従って挙兵し、功を積んで常州刺史・宣州観察使を歴任した将である。安仁義が東塘を焼いて常州を襲おうとした際、出戦して大胆に罵倒すると、仁義は伏兵を疑って軍を引き揚げたという武勇の逸話も伝わる。高祖の代に徐温が実権を握ると、遇は素性の知れぬ徐温が国政を掌握したことに強い不満を抱き、「徐温とは何者か、顔すら知らぬ者が突然国を掌握するとは」と公言して憚らなかった。徐玠が呉越への使いの途中に宣州に立ち寄り新王への拝謁を勧めた際も、色をなして「侍中(張顥)を殺した者こそ反逆ではないか」と言い放ち、温を強く刺激した。
これに怒った徐温は王壇を宣州制置使に任じて交代を命じ、柴再用に昇・潤・池・歙の兵を率いさせて宣州を包囲させたが、遇はこれを受け入れず、月を越えても陥落しなかった。徐温はさらに典客何蕘を遣わして説得を試みるとともに、遇が溺愛する末子を捕らえて城下に示して降伏を迫った。子の泣き叫ぶ姿に耐えかねた遇はついに屈して城を出たが、再用はこれを斬り一族も皆誅した。この一件以降、諸将は徐温の威勢を恐れて逆らわなくなり、高祖はただ位を備えるだけの名ばかりの君主となった。遇の死は、部将の家に現れた怪異とも結び付けられ宣州の古老の間で長く語り継がれたという。
現代語訳全文
抗命と滅亡
- 李遇は(欠)の人である。太祖に従って挙兵し、功を積んで常州刺史に任じられた。安仁義が叛して東塘を焼いて常州を襲おうとしたとき、遇は出戦して仁義を望み見て大いに罵ったので、仁義は「遇がこれほど大胆に私を辱めるのは、必ず伏兵があるからだ」と言って軍を引いて去った。
- その後、宣州観察使に遷った。高祖が王位を嗣ぎ、徐温が政を執ると、遇は内心これに服さず、常々「徐温とは何者か。私はこれまで顔すら知らなかったのに、突然国を掌握するとは」と言った。
- 館駅使の徐玠が呉越へ使いする途中、宣州を通ったとき、温は玠に遇を説得して新王に拝謁させるよう命じた。遇ははじめこれを承知したが、玠が「公がそうしなければ、人は公が反逆すると言うでしょう」と言うと、遇は色をなして言った、「あなたは私が反逆すると言うが、侍中を殺した者こそ反逆ではないか」(侍中とは景皇、すなわち張顥を指す)。
- 温はこれを聞いて大いに怒り、すぐさま王壇を宣州制置使に任じ、遇の不朝の罪を数え立て、別に柴再用に昇州・潤州・池州・歙州の兵を率いさせて宣州を接収させた。遇はこの交代を受け入れず、再用はこれを包囲したが、月を越えても陥落しなかった。
- 温はさらに典客の何蕘を遣わして遇を諭させ帰順させようとした。蕘はそこで王命をもってこれを説き、「公の本志が本当に反逆であるなら、蕘を斬って(帰順の意を示すべく)殉じさせて構いません。もし本来反心が無いのであれば、どうして蕘に従って帰順を申し出ないのですか」と言った。
- 当時、遇の末子は広陵の牙将であったが、遇はこれをこの上なく愛していた。温はその子を捕らえて宣州城下に示した。その子は泣き叫んで命乞いをしたので、遇はこれによって戦うに忍びず、ついに蕘に従って出た。再用は迎えてこれを斬り、その家族にまで及んだ。
- 遇が死んで以来、諸将の多くは温の威勢を恐れ、高祖はただ位を備えるだけの存在となった。
- これより先、遇の部将朱従本の家の厩には猿数頭が飼われていたが、ある夜、馬に飼葉をやる者が、驢馬のような姿で黒く、毛が生え、手足はみな人のようなものが地に伏して猿を食い尽くさんばかりのところを見た。まもなく遇は一族誅殺された。宣州の古老が言うには、郡中には常にこの怪異があり、軍府に変事があるたびに現れ、現れると臭気が漂うという。田頵が敗れようとしたときにも、夜回りの者がこれを街で見かけ、近づくことができなかったが、旬月のうちに禍が及んだという。