十国春秋十國春秋卷三 吳三 睿帝楊溥
呉の太祖楊行密の第四子で、兄の高祖楊隆演を継いだ睿帝楊溥(?–938年)。武義二年に呉王の位を継ぎ、乾貞元年には皇帝を称したが、実権は終始徐温・徐知誥父子の手にあった。在位中に宋斉丘の税制改革が行われ、唐(後唐)と敵国の礼で通交する一方、呉越とは国交を絶った。天祚三年に徐知誥(斉王誥)へ位を禅って譲皇帝となり、丹楊宮に移されて没した呉の最後の君主である。
年表(22件)
- 武義元年919年丹陽郡公に封ぜられる
- 武義二年920年高祖隆演の薨去を承けて呉王の位に即き、母の王氏を太妃と尊ぶ
- 順義元年921年改元して大赦し、冬に南郊で天を祀って太祖を配す
- 順義二年922年宋斉丘の上策を容れ、租税を穀帛での納入に改めて丁口銭を免ずる
- 順義三年923年梁が滅び、唐と敵国の礼で書を交わして通交を開く
- 順義四年924年白沙に行幸して楼船を観覧し、迎鑾鎮と改名させる
- 順義五年925年錢鏐が呉越国王に封ぜられたのを嫌い、呉越との国交を絶つ
- 順義六年926年北海の前進士韓熙載が帰順してくる
- 乾貞元年927年大丞相・東海王の徐温が卒し、斉王を贈られる
- 乾貞元年927年文明殿に出御して皇帝の位に即き、大赦して改元する
- 乾貞二年928年唐の安重誨が対等の礼を嫌って使者を受けず、国交が絶える
- 太和元年929年入朝した徐知詢が留め置かれ、徐知誥が初めて国政を専らにする
- 太和元年929年尊号を睿聖文明光孝皇帝と加え、大赦して改元する
- 太和二年930年王子の江都王楊璉を皇太子に立てる
- 太和三年931年徐知誥が金陵に鎮して朝政を総録し、子の景通が江都で輔政する
- 太和四年932年徐知誥が礼賢院を作って士大夫を招き、金陵城を周囲二十里に広げる
- 太和五年933年徳妃王氏を皇后に立て、徐知誥は東海王に進封される
- 太和六年934年周宗が禅譲を諷し、兄の臨川王楊濛は歴陽公に降されて和州に幽閉される
- 天祚元年935年尊号を加えて改元し、徐知誥を斉王に進封して十州を斉国とする
- 天祚二年936年李徳誠・周本らが諸将を率いて徐知誥に勧進する
- 天祚三年937年詔して位を斉に禅り、譲皇帝の尊号を奉られる
- 昇元二年938年丹楊宮に移されたのち殂す。享年二十八、睿皇帝と追諡される
出自
- 睿帝の名は溥。太祖楊行密の第四子である。
武義元年(919年)
- 丹陽郡公に封ぜられた。
武義二年(920年)即位
- 宣帝(高祖隆演)が薨じ、六月戊申、溥は呉王の位に即いた。母の王氏を尊んで太妃とした。
- 秋七月、昇州大都督府を金陵府と改め、徐温を金陵尹とした。
- 冬十二月、金陵の城が完成した。冶城の旧址に紫極宮を建てた。
順義元年(921年)南郊の祀り
- 春正月、王は使者を遣わして晋王(李存勗)に帝を称するよう勧めた。
- 二月、改元し、境内に大赦した。
- 三月、銭鎰を呉越に返し、呉越も李濤を送り返してきた。同月、李濤を右雄武統軍とした。
- 夏五月丙戌朔、梁が龍徳と改元した。
- 六月乙酉朔、日食があった。
- 冬十月、徐温が王に南郊の祀りを勧めた。ある者が「礼楽が備わっていないうえ、唐の南郊の祭祀は費用が巨万で、今は用意できない」と言うと、温は「王者でありながら天に仕えぬことがあろうか。天に仕えるには誠が貴く、費用の多寡は関係ない。唐が郊祀のたびに南門を開き、その扉の枢に脂を百斛も注いだのは末世の奢侈の弊であって、手本にはならぬ」と述べた。
- 甲子、王は南郊で天を祀り、太祖を配した。乙丑、天興楼に出御して大赦し、徐温を太師、厳可求を右僕射とし、徐知誥に同平章事を加えて江州観察使を領させた。まもなく江州を奉化軍とし、知誥に節度使を領させた。寿州団練使の崔太初を召して右雄武大将軍とした。
順義二年(922年)宋斉丘の税制改革
- 月は欠字。官を任じて版籍を作り、租税を定めた。上上の田は一頃につき銭二貫百文、中田は一頃につき一貫八百文、下田は一頃につき一貫五百文とし、いずれも足陌の現銭で納めさせた。現銭が足りなければ市価に応じて金銀で折納することを許し、丁口の課調も銭を基準に課した。
- 守員外郎の宋斉丘が上策して言った。──江淮の地は唐末以来の戦場であり、今ようやく戦乱がやんで民が落ち着いたばかりである。それを現銭や金銀で納めさせるのは、耕作や養蚕で得られるものではない。商売で銭を得よというのは、民に本業を捨てて末業に走れと教えるに等しい。時価を名目上引き上げ、穀物や絹布そのもので納めさせるのがよい。
- 当時、絹は一匹の市価五百文、紬は六百文、綿は一両十五文であった。斉丘は絹一匹を一貫七百文、紬を二貫四百文、綿を四十文とし、いずれも足銭で計算するよう請い、さらに丁口銭の免除を求めた。朝議は騒然としてこれを阻み、そうすれば官庁は年に億万の銭を失うと論じた。斉丘は「民が富んで国家が貧しいなどということがあろうか」と言い、徐知誥に書を送って「明公は百官を統べて大国を治めながら、民に現銭と金銀を責め立てて国の富強を求めるのは、箒を抱えて火を消し、水をかき混ぜて澄ませようとするようなもの。火が消え水が澄むはずがありましょうか」と述べた。知誥は書を得て「これこそ農を勧める上策だ」と言い、ただちに実施した。以後十年たたぬうちに、野に荒れ地はなく、桑を植えぬ土地もなくなった。
- この年、同泰寺の半分を割いて台城千福院を置き、瓦官寺を昇元寺と改め、その閣を昇元閣とした。
- 大封(後高句麗)の王躬乂が海軍統帥の王建に弑され、王建が自立して王となり、再び国号を高麗と称した。
順義三年(923年)唐との通交
- 夏四月己巳、晋王が皇帝の位に即き、国号を唐、元を同光と改めた。
- 冬十月辛未朔、日食があった。己卯、梁が滅んだ。
- 戊戌、唐が梁を滅ぼしたことを告げてきたが、初めは詔と称した。我が国が受けなかったので、唐主はただちに書式を改め、敵国(対等国)の礼を用いて「大唐皇帝、書を呉国主に致す」とした。
- 王は司農卿の盧蘋を遣わし、金器二百両・銀器三千両・羅錦一千二百疋・龍脳香五斤・龍鳳の絲鞋百足を唐に献じた。また張景を返礼の使者とし、「大呉国主、書を大唐皇帝に上る」と称し、辞礼は牋表と同様にした。
- 徐知誥は王命として滁州刺史の王稔に霍邱を巡らせ、そのまま鍾泰章に代わって寿州団練使とし、泰章を饒州刺史に左遷した。泰章が官馬を私に売買したと告げる者があったための処置である。後に徐温が「私は泰章がいなければ張顥に殺されていた。今日の富貴でどうして彼に背けようか」と言い、知誥に命じて子の景通に泰章の娘を娶らせ、わだかまりを解いた。
- 冬十二月甲申、再び盧蘋を遣わして唐に方物を献じ、唐の太后には金花銀器と衣料を贈った。この時、厳可求は唐主が問うであろうことを予測し、盧蘋に応対を教えた。到着してみるとすべて可求の予想どおりだった。唐主は我が国の大臣を次々に尋ね、とりわけ周本を忠勇の士としてたびたび口にした。
順義四年(924年)
- 春三月、王は右衛上将軍の許確を遣わし、郊天(郊祀)の祝賀として銀二千両・錦綺羅一千二百疋・細茶五百斤・象牙四株・犀角十株を唐に献じた。
- 夏四月丙寅、使者を遣わして唐に方物を献じた。
- 秋八月、右威衛将軍の雷峴を遣わして新茶を唐に献じた。
- 九月壬寅、唐の太妃の喪に対し、慰霊の礼として銀と絹二千を献じた。
- 冬十月、王が白沙に行幸して楼船を観覧した。太学博士の王穀が上書して白沙を迎鑾と改めるよう請い、「日月の運行するところはすべて黄道となり、鑾輿の止まるところの町はすべて赤県となる」といった趣旨を述べた。王は命じて迎鑾鎮と改名させた。
- 徐温が金陵から来朝した。
- 十二月、賀正使の王権を遣わして唐に金花銀器・綿糸千段、および太后への礼物を献じた。
- この年、徐温が石頭城に興教寺を建てた。
順義五年(925年)呉越との断交
- 夏四月癸亥朔、日食があった。
- 六月、鎮海節度判官・楚州団練使の陳彦謙が卒した。
- 冬十二月、呉越王銭鏐が使者の沈瑫を遣わし、唐から玉冊を受けて呉越国王に封ぜられたことを告げてきた。王は国名が同じであることを嫌って国交を絶った。
- 閏月乙卯、雷峴を遣わして賀正の礼幣を唐に献じた。
- この年、唐が諫議大夫の薛昭文を福州へ遣わすにあたり江西を通過させた。鎮南節度使の劉信が郊外で宴を張り、薛昭文は一泊して去った。この時、唐は通事舎人の薛仁謙を都合三度我が国に遣わして修好した。
順義六年(926年)韓熙載の来投
- 春二月辛亥、右驍衛将軍の蘇虔を遣わして金花銀器・錦綺を唐に献じた。
- 三月、左僕射・同平章事の徐知誥を侍中とし、右僕射の厳可求に門下侍郎・同平章事を兼ねさせた。
- 夏四月丙午、唐主(荘宗)が殂し、李嗣源が皇帝の位に即いた。甲寅、天成と改元した。同月、王は使者を遣わして新茶を唐に献じた。
- 五月丁卯、詔して同光の王(荘宗)のために七日間朝を廃した。
- 秋七月、北海の前進士である韓熙載が帰順してきた。
- 八月乙酉朔、日食があった。
- この年、大丞相徐温の四代の祖考に爵を追贈し、金陵に廟を立てた。
乾貞元年(927年)徐温の死と即位
- 春正月、馬軍都指揮使の柴再用が戎服のまま入朝し、御史に弾劾された。再用は功を恃んで従わなかった。徐知誥は表向き便殿で起居を通じたうえで、退いて自ら弾劾した。王は優詔を下して許さなかったが、知誥は強く請い、一か月分の俸給を没収して朝廷の綱紀を正した。
- 三月、唐の劉訓と楚の許徳勲が兵を合わせて荊南を侵した。南平王高季興が我が国に援兵を乞い、王は水軍を遣わして援けた。
- 夏四月、雷峴を遣わして白金・羅綺を唐に献じ、端午の礼を修めた。
- 五月、南平王高季興が鎮を挙げて帰属を請うた。徐温は「洛陽から江陵は遠くなく、唐人が襲うのは容易だが、我が方が流れを遡って救うのは難しい。臣従させておいて救えぬのは恥ではないか」と言い、貢物だけを受けて、唐に藩を称するに任せた。
- 秋八月己卯朔、日食があった。
- 九月、使者を唐に遣わし、応聖節の祝いとして金器百両・金花銀器千両・雑色の綾錦千疋を献じた。
- 冬十月丁亥、唐主が滎陽に至ると、民間で「唐主が自ら軍を率いて侵入する」との噂が立った。唐の宣武節度判官孫晟が亡命してきた。徐知誥は賓客として遇した。
- 辛丑、大丞相・都督中外諸軍事・諸道都統・鎮海寧国節度使兼中書令・東海王の徐温が卒した。
- 先に、温の子で行軍司馬・忠義節度使・同平章事の徐知詢は、しばしば知誥に代わって執政しようとし、厳可求と徐玠もそれを請うた。しかし温は知誥が孝謹であるのを見て忍びず、知詢に「お前たちは彼に及ばない」と言った。陳夫人もまた「知誥は我らが貧しかった頃に養った子です。富貴になったからといって捨てられましょうか」と言った。
- 可求らが言い続けるうち、温は諸藩鎮を率いて入朝し王に帝を称するよう勧めようとしたが、出発しようとして病んだ。そこで知詢に表を奉じて勧進させ、そのまま江都に留めて知誥に代わって執政させようとした。知誥は表を草して洪州節度使を求め、翌朝上奏しようとしたが、その夕方に温の訃報が届いたのでやめた。知詢は急ぎ金陵へ帰った。
- 王は温に斉王を贈り、諡を忠武とした。
- 十一月庚戌、王は文明殿に出御して皇帝の位に即いた。孝武王を武皇帝、景王を景皇帝、宣王を宣皇帝と追尊し、廟号を高祖とした。甲子、大赦して改元した。丙子、太妃王氏を皇太后と尊んだ。
- 徐知詢を諸道副都統・鎮海寧国節度使・兼侍中とし、徐知誥に都督中外諸軍事を加えて潯陽公に封じ、まもなく豫章公に改めた。
- 同月、唐の臣安重誨が徐温の死に乗じて侵攻し、あわせて帝号を称した罪を問うことを議したが、唐主は従わなかった。
- 十二月、帝は兄の廬江公楊濛を常山王、弟の鄱陽公楊澈を平原王、兄の子の南昌公楊珙を建安王とした。
乾貞二年(928年)
- 春正月丁巳、帝は皇子の楊璉を江都王、楊璘を江夏王、楊璆を宜春王とし、宣帝の子の廬陵公楊玢を南陽王とした。東海を広徳王、江瀆を広源王、淮瀆を長源王、馬当の上水府を寧江王、采石の中水府を定江王、金山の下水府を鎮江王に封じた。
- 二月丁丑朔、日食があった。庚辰、通事舎人の劉伝忠を唐に遣わしたが、唐の臣安重誨は我が国が対等の礼を取るのを嫌い、また使者を偵察に来たものとして受け入れず、国交は絶えた。
- 夏四月、右雄武軍使の苗璘と静江統軍の王彦章を遣わして楚の岳州を攻めさせた。丙戌、君山に至り、荊江口へ進軍した。丁亥、道人磯で楚人と戦って我が師は大敗し、苗璘・王彦章はともに捕らえられた。
- 戊戌、常山王楊濛を臨川王に改封した。
- 五月、使者を遣わして楚に和を求め、楚は苗璘・王彦章を送り返してきた。
- 六月辛巳、南平王高季興が再び藩を称することを請い、帝は季興の爵を秦王に進めた。
- 秋八月乙未、大赦した。
- 閏月、皇太后が殂した。先に潤州に虹のような五彩まばゆい気が現れ、驢馬のような頭で長さ数十丈、庁舎を巡って立ち、三周して消えた。占って「庁中に哭声があろう。ただし州府の咎ではない」と言われた。ここに至って国喪をこの堂で発したので、その占いが的中した。
- 九月辛巳、荊南が白田で楚兵を破り、岳州刺史の李廷規ら三十四人を捕らえて献じてきた。
- 冬十二月丙辰、秦王高季興が薨じ、帝はその子の高従誨を荊南節度使兼侍中とした。
太和元年(929年)徐知詢の失脚
- 秋八月、武昌節度使兼侍中の李簡が病を理由に江都への帰還を求め、癸丑、采石で卒した。徐知詢は表を上げて李簡の子の彦忠に継がせるよう薦めたが、徐知誥は龍武統軍の柴再用を後任とした。
- 冬十月、知詢は知誥と権を争い、父徐温の喪を除くために知誥を金陵へ召した。知誥は帝の命であることを口実に許さなかった。
- 当時、知詢は兵を握って上流に拠り、行いは驕り放題であった。呉越王銭鏐が知詢に金玉の鞍や器物を贈り、いずれも龍鳳の飾りがあったが、知詢は憚ることなくそのまま用いた。これによって知誥を軽んじる気持ちが強まり、内心互いに猜疑した。
- 知詢の典客である周廷望が知詢に「公が宝貨を惜しまず朝中の勲旧に贈り、皆を公に心服させれば、あちらは誰と組むこともできません」と説き、知詢は従って廷望を江都へ遣わした。しかし廷望は知誥の親吏である周宗と親しく、ひそかに知誥に款を通じ、同時に知誥の隠謀を知詢に告げてもいた。周宗はつねづね廷望に「世間では侍中(知詢)に七つの落ち度があると言っている。急ぎ入朝して謝罪すべきだ」と言っていた。廷望が帰ってこれを伝え、十一月、知詢が入朝すると、知誥は謀反の状ありと誣告して留め置いて帰さず、統軍に移して鎮海軍節度使を領させた。周廷望は捕らえて斬った。
- 右雄武都指揮使の柯原を遣わして金陵の兵を江都へ引き揚げさせ、知誥は初めて国政を専らにした。徐知諤を金陵尹とした。
- 壬辰、帝は尊号を睿聖文明光孝皇帝と加え、大赦して改元した。
- 十二月、徐知誥に兼中書令を加え、寧国軍節度使を領させた。
太和二年(930年)
- 春正月、平原王楊澈を徳化王に改封した。
- 二月乙卯、唐が長興と改元した。
- 三月癸酉、王子の江都王楊璉を皇太子に立てた。
- 荊南の高従誨が使者を遣わして絶交を告げ、「墳墓が陝州にあり唐人の討伐を恐れる。我が方の援兵は間に合わない」と表明した。帝は兵を遣わして荊南を撃たせたが落とせなかった。
- 夏六月癸巳朔、日食があった。
- 秋八月己亥、海州都指揮使の王伝拯が叛いて唐に降り、団練使の陳宣が殺された。
- 先に伝拯は威名があって士心を得ており、陳宣が罷免されて帰るとき徐知誥は伝拯を後任にすると約束した。ところが後に陳宣を海州へ戻し、伝拯を江都へ召した。伝拯は陳宣が自分を讒したのだと怒り、麾下を率いて別れの挨拶に入ったところで陳宣を斬り、城郭を焼き掠め、衆五千を率いて出奔した。知誥は「これは私の過ちだ」と言い、伝拯の妻子を赦免した。唐の漣水制置使王巌が兵を率いて海州に入り、威衛大将軍として海州事を知した。
- 伝拯の叔父の王輿は光州刺史であった。伝拯が密使を輿のもとへ送ると、輿はこれを捕らえて報告し、あわせて職を辞して帰ることを乞うた。知誥は輿を控鶴都虞侯とした。当時、政は徐氏にあり、兵を統べて宿衛する者はとくに人選が難しかったが、知誥は輿が重厚で慎重なので用いたのである。
- 冬十月丙辰、左僕射・同平章事の厳可求が卒した。
- 同月、徐知誥は長子の大将軍景通を兵部尚書・参政事とし、徐延休を江都少尹とした。
太和三年(931年)知誥の金陵移鎮
- 春二月、徐知誥は中書侍郎・内枢使の宋斉丘を宰相にしようとした。斉丘は自分の資望が浅いことを自覚し、退譲を装って高潔を示し、洪州へ帰って父を葬りたいと願い出、そのまま九華山に入って応天寺に留まり、隠居を願い出た。帝が詔を下して召し、知誥も書を送って招いたが応じず、知誥が子の景通を遣わして重ねて諭してようやく帰朝し、右僕射で致仕した。応天寺は徴賢寺と改称された。
- 秋九月、鎮海節度使の徐知詢が句容令の黄鸞に命じて茅山の霊宝院を再建させた。
- 同月、鎮南節度使・同平章事の徐知諫が卒し、兄の知詢を後任とし、東海郡王の爵を賜った。
- 冬十一月甲申朔、日食があった。
- 同月、太尉・中書令の徐知誥が、輔政の年久しきを理由に金陵で老を養いたいと表で請うた。帝は知誥を鎮海・寧国諸軍節度使として金陵に鎮させ、他の官は元のままとし、徐温の先例どおり朝政を総録させた。その子の兵部尚書・参政事の景通に司徒・同平章事・知中外左右諸軍事を加えて江都に留めて輔政させ、内枢使・同平章事の王令謀を左僕射兼門下侍郎、宋斉丘を右僕射兼中書侍郎とし、ともに同平章事兼内枢使として景通を補佐させた。徳勝節度使の張崇に清河王の爵を賜った。
- 十二月癸亥、知誥は金陵に至った。
太和四年(932年)
- 春二月、徐知誥が府舎に礼賢院を作り、図書を集めて士大夫を招いた。孫晟・陳覚がしばしば密議に与った。
- 秋八月、知誥は金陵城を広げ、周囲二十里とした。
- 冬十一月、知誥を大丞相・太師とし、徳勝軍節度使を領させ、諸道都統は元のままとした。知誥は丞相と太師を辞退した。
- この年、鍾山の南側に飛蝗が一尺余の厚さに積もり、数千の僧が白昼に集まってこれを食い尽くした。
太和五年(933年)
- 夏五月、宋斉丘が徐知誥に帝を金陵へ遷都させるよう勧め、知誥は金陵に宮城を造営した。
- 秋七月、閩の建州の土豪呉光が衆を率いて亡命し、あわせて援兵を請うた。
- 九月甲戌朔、徳妃王氏を皇后に立てた。
- 同月、唐の吏部侍郎張文宝が杭州へ使いする途中、舟が壊れて天長に停泊した。帝は厚く礼遇し、従者の衣服や銭幣数万を与えた。文宝は「本朝と呉は久しく通問していない。賓客でもなく君臣でもない。今この賜物を受けても何と言って謝せばよいのか」と辞退し、飲食だけを受けて他はすべて返した。帝はその礼儀を嘉し、呉越へ文書を送って国境で出迎えさせた。文宝は無事に杭州で使命を果たして帰った。
- 辛丑、徐知誥は国中で水害・火災がしばしば起こり、兵も民も苦しんでいるのに自分だけ楽しむことはできないとして、侍妓をことごとく解放し、楽器を取って焼いた。
- 冬十一月、信州刺史の蔣延徽が独断で兵を率い、呉光と合して建州を攻めた。
- この年、徐知誥を東海王に進封した。東嶽三郎を雄武将軍に封じ、金陵に廟を建てた。
太和六年(934年)遷都論と禅譲の動き
- 春正月、徐知誥は金陵に私邸を営み、乙未、そこへ移り住んで、府舎は空けて帝の行幸を待った。
- 同月、蔣延徽が浦城で閩兵を撃って破り、進んで建州を囲んだ。ところが知誥が延徽を召還したうえ、延徽は福州および呉越の兵が来ると聞いて兵を引き返した。閩人が追撃して我が師は大敗し、死者は数知れず。都虞侯の張重進に罪を着せて斬った。知誥は延徽を右威衛将軍に降格し、使者を遣わして閩と修好を求めた。
- 閏月、唐の安州の王任全らが安遠節度使の苻彦超を殺して我が方に降ろうと謀ったが、事が露見して副使の李端に殺された。
- 二月、都押牙の周宗は遷都は不都合だと考え、知誥に「主上が西へ遷れば公はまた東へ行かねばならない。労費が大きいだけでなく、衆心にも背きます」と言った。当時、国人には遷都を望まぬ者が多かった。丙子、帝は宋斉丘を金陵へ遣わして知誥に遷都の議を取りやめるよう伝えた。
- 同月、周宗が帝に諷して位を知誥に禅らせようとした。宋斉丘は周宗を斬って謝罪すべきだと請い、帝は宗を池州団練副使に降格するよう命じた。まもなく鎮海節度副使の李建勲と行軍司馬の徐玠が、知誥の功業からして早く民望に従うべきだと述べた。知誥は周宗を召し返して押牙とし、斉丘はこれによって知誥の意に逆らう者となった。
- 己卯、詔して知誥を府舎に戻り住まわせた。
- 甲申、金陵に大火があり、乙酉にも火が出た。知誥は変事を疑って兵を配して自衛した。
- 夏四月甲戌、唐の潞王が皇帝を称した。乙酉、清泰と改元した。
- 五月、鎮南節度使・守中書令・東海王の徐知詢が卒した。この時、江西館駅巡官の黄極の嫁が、頭一つ胴二つが背中合わせ、手足それぞれ四本という男児を産んだ。連昌県の民家では、足一本ごとにもう一本足の付いた牛が生まれ、江に投げ込むと翌日水面に浮かんだ。南昌の新義里では地面が陥没し、長さ数十歩、広いところは数丈、狭いところは七、八尺であった。人々はこれらが知詢の死に応じたものだと考えた。
- 六月丙子、昭武節度使兼中書令・臨川王の楊濛を歴陽公に降封した。徐知誥は控鶴軍使の王宏に兵二百を率いさせ、和州に幽閉させた。
- 秋七月、知誥は宋斉丘を金陵に召し返して諸道都統判官とし、司空を加えて南園を住まいに与えたが、国事には与らせなかった。
- 冬十月、知誥に大丞相・尚父・嗣斉王・九錫を加えたが、辞退して受けなかった。
- 十一月、知誥はその子で司徒・同平章事の景通を金陵に召し返し、鎮海寧国節度副大使・諸道都統・判中外諸軍事とし、次子で牙内馬歩都指揮使・海州団練使の景遷を左右軍都軍使・左僕射・参政事として江都に留めて輔政させた。同月、王令謀に司徒を加えた。
- この年、故東海王徐温の孫の景運が金陵に報先院を建てた。
天祚元年(935年)斉王への進封
- 春三月、徐景遷に太保・同平章事・知左右軍事を加え、徐知誥は尚書郎の陳覚に補佐させた。
- 夏六月、徳勝節度使兼中書令の柴再用が卒した。
- 秋八月、潤州団練使の徐知諤が放埒で節度を失い、徐知誥が怒った。ある者が「忠武王(徐温)は知諤を最も愛しながら、後事は公に託されたのです。仮に知諤に有能の名があったとして、公に何の得がありましょう」と言うと、知誥はいっそう手厚く遇した。
- 九月、帝は尊号を睿聖文明光孝応天弘道広徳皇帝と加えた。丙申、大赦し、太和七年を天祚元年と改めた。
- 冬十月、中書令の徐知誥に尚父・太師・大丞相・天下兵馬大元帥を加え、斉王に進封して殊礼を備え、昇・潤・宣・池・歙・常・江・饒・信・海の十州を斉国とした。知誥は尚父・丞相・殊礼を辞退して受けなかった。
天祚二年(936年)大元帥府の開設
- 春正月、徐知誥は初めて大元帥府を建て、幕職に吏・戸・礼・兵・刑・工の六部と塩鉄を分掌させた。
- 三月、知誥は子の景通を太尉・副元帥とし、宋斉丘と徐玠を元帥府の左右司馬とした。
- 夏四月、荊南の高従誨が牋を奉じて知誥に帝位に即くよう勧めた。
- 六月辛酉、太保・同平章事の徐景遷が病で職を辞し、弟の景遂に代わって門下侍郎・参政事とするよう命じた。
- 冬十一月癸巳、詔して斉王知誥に百官を置かせ、金陵府を西都とした。
- 丁酉、契丹が石敬瑭を柳林で天子に立て、国号を晋、改元して天福とした。
- 十二月辛丑、唐の安遠節度使盧文進が鎮を捨てて亡命してきた。
- 同月、徐知誥は鎮南節度使・太尉兼中書令の李徳誠、徳勝節度使兼中書令の周本が位望隆重であることから、二人に衆を率いて推戴させようとした。周本は「私は先王の大恩を受けた。楊氏の危急を救えぬのが恨みだ。どうしてこんなことができようか」と言ったが、末子の弘祚が強いたのでやむを得ず、李徳誠とともに諸将を率いて江都に入り、知誥の功徳を述べ、さらに金陵へ赴いて勧進した。宋斉丘は徳誠の子の建勲に「尊公は太祖の元勲だったのに、今日で面目は地に落ちた」と言った。
- この頃、江都の宮中に怪異が多く、帝は「呉の祚も終わるのか」と言った。左右は「これは天意であって人事ではありません」と答えた。
- この年、金陵城の西に韓将軍の祠を立てた。功に報いるためである。高麗が新羅・百済と戦ってこれを大敗させた。
天祚三年(937年)禅譲
- 春正月乙卯、日食があり、出た時は三分の欠け、卯の刻に復した。
- 太子の楊璉が斉王知誥の娘を妃に迎えた。
- 同月、閩と呉越がいずれも使者を遣わして知誥に勧進した。知誥は初めて斉国を建て、宗廟・社稷を立て、金陵を江寧府と改め、牙城を宮城、庁堂を殿と称した。左右司馬の宋斉丘・徐玠を左右丞相、馬歩判官の周宗を内枢判官、周廷玉を内枢使とし、その他の百官もすべて天子の制に倣い、騎兵八軍・歩兵九軍を置いた。
- 二月、盧文進を宣武軍節度使兼侍中とした。
- 戊子、帝は宜陽王楊璪を西都へ遣わして斉王知誥を冊命した。知誥は冊を受けて境内に大赦し、王妃を王后に冊立した。
- 三月、斉王知誥は子の景通を王太子に立てたが、景通は固辞して受けなかった。父の忠武王徐温を太祖武王、母の明徳太妃李氏を王太后と尊んだ。壬申、名を誥と改めた。
- 夏五月、斉王誥は中原を取ろうとし、使者を海路で契丹に遣わして修好し、美女と珍玩で結んだ。契丹主も使者を遣わして返礼してきた。
- 六月、諸道副都統の徐景遷が卒した。
- 秋七月、晋の右衛大将軍尹暉が叛を謀って露見し、我が方へ亡命しようとして人に殺された。晋の安州威和指揮使王暉が本州を大いに掠奪して亡命してきたが、部将の胡進が途中で殺した。
- 同月、同平章事の王令謀が金陵へ行き、斉王誥に禅譲を受けるよう勧めたが、誥は譲って受けなかった。
- 八月甲子、歴陽公楊濛が守衛軍使の王宏を殺して逃亡し、廬州の周本を頼ったが、周本の子の弘祚が捕らえて江都に送った。斉王誥は使者を遣わして采石で迎え殺し、詔と称して悖逆庶人に落とし、属籍から除いた。侍衛軍使の郭悰が楊濛の妻子を和州で殺すと、誥は罪を郭悰に押しつけ、池州へ貶した。
- 同月、帝は詔を下して位を斉に禅った。李徳誠が再び金陵へ赴いて勧進したが、宋斉丘は表に署名しなかった。
- 九月癸丑、王令謀が卒した。丙寅、江夏王楊璘に命じて璽綬を斉に奉らせた。
- 冬十月乙酉、斉主は右丞相の徐玠に冊を奉じさせて帝のもとに遣わし、「受禅老臣誥、謹んで拝稽首す」と称して、帝に高尚思玄弘古譲皇帝の尊号を奉った。宮室・乗輿・服御はすべて従来どおりとし、宗廟・正朔・徽章・服色もことごとく呉の制に従わせた。
- 己丑、斉主が表を上げて江都の宮殿の名をすべて仙経から取って改めるよう請うた。帝はつねに羽衣を着て辟穀の術を習っていた。丙申、帝は斉主が表を上げてくることに対し、書を送って辞退した。斉主は謝したが改めなかった。
昇元二年(938年)丹楊宮への移居と崩御
- 帝はしきりに宮を移すことを請うた。
- 五月、斉主は潤州の牙城を丹楊宮と改め、李建勲を迎奉譲皇使として帝を丹楊宮に移し、馬思謙を丹楊宮使として厳重に兵で守衛させた。
- 冬十月辛丑、帝が殂した。享年二十八。この日、移居の使命を帯びた使者が来た。帝はちょうど楼上で仏書を誦しており、使者が進み出ると香炉を投げつけ、まもなく崩御の報が伝わった。
- 斉主は二十七日間朝を廃し、睿皇帝と追諡して平陵に葬った。
- 昇元六年、唐(南唐)はその宗族を泰州に移し、永寧宮と号して刺史の褚仁規に厳重に警護させ、外部との交通を一切絶った。
- 顕徳三年、周の世宗が淮南を征伐し、詔を下して楊氏の子孫を撫安した。唐の元宗(李璟)はこれを聞き、園苑使の尹廷範を遣わして京口へ迎え移させた。ときに道路はすでに乱れており、廷範は変事を恐れて楊氏の二人の弟をはじめ六十余人を捕らえて殺し、その婦女だけを渡江させた。元宗は大いに怒って廷範を腰斬に処し、「小人めが、不義の名を我が楊氏に負わせた」と罵り、こうして楊氏は絶えた。周の先鋒都部署の劉重進が楊氏の玉硯・瑪瑙の椀・翡翠の瓶を得て献じた。
- 太祖(楊行密)は唐の景福元年に再び揚州に入り、天祚三年に南唐に簒われるまで、すなわち晋の天福二年まで、四主を歴て通算四十六年であった。
史論
- 論に曰く。楊氏は紀祥らの乱以来、祭祀こそ弘農王(隆演)が行ったが、政治は東海王(徐温)から出て、大権は久しく他人に盗まれていた。平陵(睿帝溥)に至っては順序を越えて立てられ、共主と号したものの余計な瘤のようなもので、改元して尊号を称しても空しい器を抱えるだけであった。ついには禅譲の名を借りて国の鼎祚を移す実を許した。その由来をたどれば一日にしてなったことではなく、勢いがそうさせたのである。どうして睿帝一人の罪であろうか。