十国春秋十國春秋卷二 吳二 烈祖楊渥・高祖楊隆演

呉の太祖楊行密の長子・烈祖楊渥(字は承天、?–908年、諡は威)と、その弟で第二子の高祖楊隆演(字は鴻源、初名は瀛、?–920年、諡は宣)の二代を記す。楊渥は驕奢と失政から張顥・徐温の「兵諫」を招いて実権を奪われ、ついに寝室で弑された。続いて厳可求の策で擁立された楊隆演は幼弱で、張顥の誅殺後は徐温父子、のち徐知誥が軍国の政を専らにした。その治世に象牙潭の勝利で江西を平定し、武義元年に呉国王を称して建国したが、隆演自身は鬱々として若く世を去った。

年表(22件)
  • 天祐二年905年徐温の使者を受けて宣州から広陵に入り、淮南留後を拝命
  • 天祐二年905年太祖の薨去により淮南節度使・東道諸道行営都統・弘農郡王を授かる
  • 天祐三年906年秦裴が洪州を抜いて鍾匡時を捕らえ、王は自ら鎮南軍節度使を兼ねる
  • 天祐四年907年張顥・徐温が牙兵を率いて「兵諫」を行い、腹心を撲殺して軍政を握る
  • 天祐四年907年劉存・陳知新が楚に大敗して捕らえられ、岳州を失う
  • 天祐五年908年張顥・徐温の党に寝室で弑される。時に二十三歳、諡は威
  • 天祐五年908年厳可求が太夫人史氏の教を掲げて張顥を挫き、隆演が淮南留後に立つ
  • 天祐五年908年鍾泰章が牙堂で張顥を斬り、徐温が左右牙都指揮使として軍府を総べる
  • 天祐五年908年将吏の請いにより淮南節度使・同平章事・弘農王を授かる
  • 天祐六年909年周本が象牙潭で危全諷を破り、虔州も来属して江西を全領する
  • 天祐七年910年岐王の承制により兼中書令・嗣呉王を加えられ、境内に大赦する
  • 天祐八年911年呉越の湖州刺史錢鏢が都監らを殺して亡命してくる
  • 天祐九年912年徐温が宣州の李遇を攻め殺し、王は太師・呉王を加えられる
  • 天祐十年913年徐温が潘葑・無錫に錢傳瓘の呉越軍を大破する
  • 天祐十一年914年叛いた袁州刺史劉崇景を万勝岡に破り、袁州を回復
  • 天祐十二年915年徐温を斉国公として潤州に鎮させ、子の徐知訓が広陵で政を執る
  • 天祐十三年916年宿衛将の馬謙・李球が乱を起こすが、朱瑾が一喝して潰える
  • 天祐十四年917年徐温が鎮海軍の治所を昇州に移し、徐知誥を潤州団練使に移す
  • 天祐十五年918年朱瑾が徐知訓を殺して自刎し、徐知誥が代わって執政となる
  • 天祐十五年918年劉信が虔州を抜き、雩都で譚全播を捕らえる
  • 武義元年919年徐温に奉じられて呉国王の位に即き、武義と改元して百官を置く
  • 武義二年920年丹陽公楊溥を監国としたのち薨じる。享年二十四、諡は宣

烈祖 楊渥(字は承天)の出自

  • 烈祖の名は渥、字は承天。呉の太祖楊行密の長子である。
  • 初め牙内諸軍使となったが、評判はよくなく、軍府の将士から軽んじられていた。
  • 太祖が病むと、渥は宣州観察使として外に出された。右牙指揮使の徐温はひそかに渥に告げた。「王が病床にあるのに嫡子が藩鎮に出されるのは、奸臣の謀に違いない。後日召還の使いが来ても、私の遣わした者と王の令書でなければ応じてはならない」。渥は涙して謝し、任地へ発った。

天祐二年(905年)嗣立

  • 冬十月、太祖の病が篤くなり、判官の周隠に符を作らせて渥を召させた。隠は渥が幼弱で任に堪えぬと考え、大将の劉威を代わりに軍政を主らせるよう薦めた。太祖はまだ許さなかった。
  • そこへ徐温と厳可求が見舞いに来た。太祖がこの話を伝えると二人は大いに驚き、周隠のもとへ行った。召還の符が机上に置かれたままなのを見て、ただちに取り上げて発送させた。渥は徐温の使者を見てはじめて出立した。
  • 広陵に着いて淮南留後を拝命。太祖が薨じると、将佐はそろって宣諭使の李儼に請い、唐朝の制を承けて渥に淮南節度使・東道諸道行営都統・兼侍中・弘農郡王を授けた。
  • 十二月、河東(晋)が帛書で密約し、汴(梁)を攻めるよう誘ってきた。睦州刺史の陳詢が浙兵に迫られて州を捨てて亡命してくると、招討使の陶雅が入城してこれを取った。湖南の兵が侵入したが牙内指揮使の楊彪が撃退した。王は馬歩都指揮使の李簡らに命じ、宣州の王茂章を襲わせた。

天祐三年(906年)江西進攻

  • 春正月、宣州観察使の王茂章が杭州へ出奔した。李簡の兵が突如城下に迫り、茂章は守り切れぬと見て衆を率いて南へ向かった。親兵の刁彦能は母が老いていることを理由に従わず、城壁に登って衆に「王府は私に諸君を招諭せよと命じられた。大軍がすぐ到着する」と告げ、これで人心が落ち着いた。陶雅は茂章に帰路を断たれるのを恐れ、急ぎ兵を歙州へ引き上げたため、睦州を再び失った。
  • 庚辰、呉越王銭鏐が睦州に至った。陳璋は陶雅がすでに退いたと聞き、婺州から衢州へ退いて守った。両浙の将方永珍らが婺州を奪い、衢州へ攻め込んだ。
  • 同月、先鋒指揮使の陳知新を派遣して湖南を攻めさせた。三月乙丑、知新は岳州を抜き、刺史の許徳勲を追い払った。王は知新を岳州刺史とした。
  • 夏四月癸未朔、日食があった。鎮南節度使・潁川郡王の鍾伝が卒し、軍中はその子の匡時を留後に立てた。鍾伝の養子で江州刺史の延規は立てられなかったことを恨み、使者を送って我が方に降った。王は昇州刺史の秦裴を西南行営都招討使として匡時を討たせた。
  • 秋七月、秦裴は江西の将劉楚を捕らえ、洪州を包囲した。饒州刺史の唐宝は降伏を請うた。
  • 八月、両浙の兵が衢州を囲み、衢州刺史の陳璋が急を告げてきた。王は左廂馬歩都虞侯の周本を遣わして璋の兵を迎え取らせた。帰路、浙人が追撃してきたが、周本は伏兵を置いてこれを大破した。
  • 九月、秦裴は洪州を抜き、三日間大いに掠奪して、匡時と司馬の陳象ら五千人を捕らえて帰った。王は匡時を厳しく責め、匡時が死を請うと憐れんで赦し、陳象は市で斬った。かねて「楊老が嫩鬢を抜く、鐘を打つ搥にできる」という童謡があり、ここに至って的中したとされた。
  • 王は自ら鎮南軍節度使を兼ね、秦裴を洪州制置使とした。

天祐四年(907年)張顥・徐温の専権

  • 春正月、王は江西を得て以来ますます驕り奢り、旧怨から節度判官の周隠を殺した。
  • 同月、黒雲都指揮使の呂師周が上高に駐屯していたが湖南へ出奔した。副指揮使の綦章はその妻子を逃がしてやった。
  • 王は喪中にありながら音楽を奏させ、球打ちのために一囲みもある大蝋燭を十本も燃やし、一本で数万銭を費やした。単騎で遊びに出ては供の者が行方を追えぬこともあった。左牙・右牙指揮使の張顥と徐温が涙して諫めると、王は怒って「私を無能というなら、なぜ私を殺して自分でやらないのか」と言った。二人は恐れ、ひそかに謀反を企てた。
  • もともと牙城の内には親軍数千が駐屯していたが、王はこれをすべて城外へ移し、跡地を射場にした。張顥・徐温はこれで憚るものがなくなった。
  • やがて王は壮士を選んで東院馬軍と号し、腹心を多く将吏に任じた。任じられた者は権勢を恃んで驕り、勲功ある古参をしばしば侮った。さらに王は宣州指揮使の朱思勍・范思従・陳璠を召し、旧来の親兵三千を率いて広陵へ帰らせた。
  • 張顥・徐温は朱思勍らが自分の権を侵すのを憎み、表向きは三将に秦裴に従って江西を攻めさせ、洪州に駐屯させたうえで、謀反を企てたと誣告した。別将の陳祐を遣わして誅させると、祐は間道を六日で洪州に至り、微服して短刀を懐に秦裴の帳中へ直入した。裴が驚くと祐は事情を告げ、思勍らを召して酒を飲ませ、罪を数え上げて捕らえ斬った。
  • 王は三将の死を聞いていよいよ張顥・徐温を憎み、誅そうとした。丙戌、王が朝政に臨むと、顥と温は牙兵二百を率い、抜き身の刃を提げて庭に踏み込んだ。王が「本当に私を殺す気か」と問うと、「そうではありません。王の側近で政を乱す者を除くだけです」と答え、王の腹心十余人を引きずり下ろし、罪を数え上げて鉄の撾で撲殺した。これを「兵諫」と称し、王は止めることができなかった。
  • これ以後、二人に与しない将は次々に法を口実に除かれ、軍政はことごとく二人の手に帰した。
  • 夏四月、梁が唐に代わり開平と改元した。王はなお天祐の年号を用い、蜀王と檄を諸道に回して、兵を合わせて唐を復すると宣言した。
  • 五月、鄂岳観察使の劉存を西南面都招討使、岳州刺史の陳知新を岳州団練使、廬州観察使の劉威を応援使、別将の許玄応を監軍とし、水軍三万で楚を伐たせた。楚王馬殷は在城都指揮使の秦彦暉に水軍三万を率いて長江を下らせ、水軍副指揮使の黄璠に戦艦三百で瀏陽江口に屯させた。
  • 六月、劉存・陳知新は雨に遇って越堤の北へ退いた。秦彦暉が勢いに乗じて追い、劉存は数戦して利あらず。彦暉が川を挟んで陣を布き、やがて鬨をあげて進むと劉存らは敗走した。黄璠は瀏陽から渡河して彦暉と合流し挟撃、我が兵は大敗した。劉存・陳知新は捕らえられ、屈せずに死に、岳州を失った。この戦役で裨将の戦死者百余人、士卒の死者は万を数え、戦艦八百余艘を失った。劉威は残兵を率いて逃げ帰った。
  • 監軍の許玄応は王の腹心でつねに政に与っていたが、張顥・徐温は敗戦を口実に捕らえて斬った。
  • 同月、楚王馬殷は兵を遣わして吉州刺史の彭玕と合し、我が洪州を攻めたが落とせなかった。
  • 秋九月、武貞節度使の雷彦恭が来属した。
  • 冬十月、荊南の将倪可福が楚兵と合して朗州を攻めた。雷彦恭は使者を送って降を乞い、あわせて急を告げた。王は冷業に水師を率いて昌江に、李饒に歩騎を率いて瀏陽に屯させて救援させた。楚将の許徳勲が迎え撃ち、冷業が朗口に進駐すると、徳勲は夜襲をかけて軍中を騒がせ、大軍を続かせた。我が師は敗れ、冷業は鹿角鎮へ逃げて捕らえられた。楚人はさらに瀏陽の砦を破り李饒を捕らえ、二人とも死んだ。
  • 十一月、右都押牙の米志誠らが淮を渡って梁の潁州を襲い、外郭を破ったが、刺史の張実が子城に拠って守り、落とせなかった。
  • 十二月甲子、梁が歩騎五千を発して潁州を救い、志誠らは兵を引いた。丁卯、兵を遣わして信州を攻めると、刺史の危仔倡は呉越に援兵を乞うた。
  • この年、洪州制置使の秦裴を鄂州知州に、廬州観察使の劉威を鎮南軍節度使とした。

天祐五年(908年)弑逆

  • 春正月、呉越の兵が甘露鎮を侵し、信州を救った。
  • 夏四月、兵を遣わして石首を攻め、梁の襄州兵と瀺港で戦って敗れた。また李厚に水軍一万五千を率いて荊南を侵させたが、馬頭で敗れた。
  • 五月乙亥、楚兵が鄂州を侵したが、知州の秦裴が撃破した。
  • 戊寅、張顥と徐温はその党である紀祥・陳暉・黎璠・孫殷らを遣わし、王を寝室で弑した。急死したと偽って公表した。時に二十三歳、諡を威という。
  • 張顥・徐温が軍政を専らにして以来、王は不満を積もらせて二人を除こうとしたが果たせず、二人もいよいよ不安になって弑逆を謀り、領地を分けて梁に臣従する約束をしていた。かつて盗賊が寝所に入ったとき、王は「徐温らを殺してくれれば皆刺史にしてやる」と説き、盗賊は皆承諾したが、紀祥だけは従わなかった。
  • 武義年間の初めに諡を景王と改め、廟号を烈祖とした。乾貞元年に景皇帝と追尊され、陵を紹陵と称した。

高祖 楊隆演(字は鴻源)の出自と擁立

  • 高祖の名は隆演、字は鴻源。太祖の第二子である。初名は瀛、また渭ともいった。
  • 張顥と徐温が烈祖を弑したとき、二人は領地を分けて梁に款を通じる密約をしていた。烈祖が害されると、張顥は自立しようとした。徐温はこれを憂え、客の厳可求に相談した。可求は「顥は剛愎だが事を成すには暗い。たやすいことです」と答えた。

天祐五年(908年)張顥の誅殺と徐温の台頭

  • 夏五月己卯、張顥は将吏を府庭に集め、道の両側に剣戟を並べ、大将の朱瑾以下すべて護衛を置いて入らせた。顥は声を励まして「誰を立てるべきか」と問うたが、諸将は誰も答えない。三度問うて顔色はますます険しくなった。
  • 厳可求が進み出て、およそ次のように密かに述べた。「軍府は大きく、公が主となるほかありません。ただ今は劉威・陶雅・李遇・李簡といった先王と同格の者がいる。公が自立しても、彼らが心を屈して公に仕えるでしょうか。幼主を立てて輔佐するほうが得策です」。顥は答えられなかった。
  • 可求はすかさず退出して一紙を書いてきた。それは太夫人史氏の教(命令書)で、諸将を集めてひざまずいて読み上げた。辞気は慨慷とし、「嗣王は不幸であった。隆演が順序として立つべきである。諸将は楊氏に背かず、よく仕えよ」とあった。聞く者は感動し、顥の気勢は挫けて何もできなくなった。こうして隆演を奉じて淮南留後・東面諸道行営都統と称した。
  • かつて徐温は夜、宮中に入って白龍が殿の柱を巻く夢を見た。翌朝、白衣の隆演が柱に寄りかかって立つのを見て不思議に思った。それゆえ嗣立にあたって可求に指図したのである。
  • 散会後、副都統の朱瑾が可求の家を訪ね、「私は十六、七から戈を横たえ馬を躍らせて大敵に当たり、怯えたことがなかった。今日は顥に対して思わず汗が流れた。公が面と向かって論破されるさまは人を人とも思わぬほどだった。私の匹夫の勇は公に遠く及ばない」と言い、以後兄として仕えた。
  • 張顥はこれ以後徐温と折り合わず、隆演に諷して温を浙西観察使として潤州に出させようとしたが、可求が計略で温を引き留めた。
  • 行軍副使の李承嗣は顥と親しく、可求に徐温方に付く意があるのを察して、顥に説いて盗賊に夜討ちさせようとした。ところが盗賊は財貨を奪って帰り、「捕らえられませんでした」と報告した。顥は怒って「私は可求の首が欲しいのだ。財貨など何になる」と言った。
  • 可求はそこで徐温のもとへ行き、先に顥を殺す計を謀った。ひそかに左監門衛将軍の鍾泰章に壮士三十人を選ばせて謀り、丁亥の朝、牙堂に踏み込んで顥とその側近数人を斬った。そのうえで初めて顥の弑君の罪を暴き、紀祥らを市で車裂きにした。
  • かつて顥と温が逆謀をめぐらしたとき、温は「左右の牙兵を併用すれば心が一つにならない。私の兵だけを用いるほうがよい」と言い、顥が承知しないので「では公の兵だけを用いよう」と言い、顥はこれに従っていた。そこで乱党を徹底追及すると、皆が左牙の者だったため、人々は温は本当に謀を知らなかったのだと思った。
  • 隆演は徐温を左右牙都指揮使とし、軍府の事はすべて温の裁決を仰いだ。厳可求は揚州司馬となった。顥が権を握っていた間は刑獄が苛酷で、親兵が市中を掠奪するに任せていた。温は可求に「大事は定まった。我々は力を尽くして善政を行おう」と言い、法度を立てて強暴を禁じ、政治の大綱を挙げたので、軍民は安んじた。
  • 同月、楚兵が朗州を陥れ、武貞節度使の雷彦恭は小舟で亡命してきた。隆演は彦恭を淮南節度副使とした。
  • 秋七月壬申、将吏が李儼に請い、制を承けて隆演に淮南節度使・東面諸道行営都統・同平章事・弘農王を授けた。
  • 八月、歩軍都指揮使の周本と南面統軍使の呂師造を遣わして呉越を攻めさせ、九月に蘇州を包囲した。
  • 同月、呉越の将張仁保が侵入して常州の東洲を取り、我が兵の死者は一万余に上った。池州団練使の陳璋を水陸行営都招討使として、裨将の柴再用らを率いて救援させ、魚蕩で仁保を大破し、東洲を回復した。
  • 冬十月、梁が呉越の請いを容れ、亳州団練使の寇彦卿を東面行営都指揮使として侵攻させた。
  • 十一月、彦卿は二千を率いて霍邱を襲ったが、土豪の朱景がこれを撃退した。さらに廬州・寿州を攻めたがいずれも落とせず、王が滁州刺史の史儼を遣わして拒ませると、彦卿は引き上げた。
  • この年、軍将の万全感に書を持たせ、間道から晋と岐に赴かせて嗣位を告げた。

天祐六年(909年)象牙潭の大勝と江西平定

  • 春二月丁酉朔、日食があった。
  • 三月、徐温は金陵が要害の地で戦艦の集まる場所であることから、自ら淮南行軍副使のまま昇州刺史を領し、身は広陵に留まって、養子の元従指揮使徐知誥を昇州防遏使兼楼船軍使として治めさせた。
  • 夏四月、周本らが蘇州を攻めたが、呉越の将孫琰に拒まれて落とせなかった。やがて呉越の牙内指揮使銭鏢、行軍副使杜建徽らが援軍に来た。辛亥、蘇州の兵が内外から挟撃し、我が師は大敗した。軍将の何朗ら三十余人が捕らえられ、戦艦二百艘を失った。周本は夜逃れたが追撃を受け、黄天蕩でも敗れた。鍾泰章が精兵二百で殿軍となり、菰や蔣の茂みに旗を多く立てたので、呉越の兵は敢えて追わず引き返した。
  • 同月、初めて選挙(人材登用)の制を置き、駱知祥に掌らせた。
  • 夏六月、撫州刺史の危全諷が鎮南節度使を自称し、撫・信・袁・吉の衆十万と号して洪州を侵した。節度使の劉威は守兵わずか千人だったが、毎日酒宴を開いて敵を疑わせたので、全諷は迫れず象牙潭に屯した。
  • 同月、楚の苑玫らが高安を囲んで全諷に呼応した。王は周本を西南面行営招討応援使として兵七千で高安を救わせた。周本は「全諷が敗れれば援兵は必ず退く」と考え、高安を捨てて象牙潭へ急いだ。洪州を通るとき劉威が軍を犒おうとしたが、周本は留まろうとしなかった。ある者が「敵が強大だから形勢を見てから進むべきだ」と言うと、周本は「賊は我が十倍だ。それを我が軍が聞けば必ず怯む。今の鋭気に乗じて用いるほうがよい」と答えた。
  • 秋七月、全諷の象牙潭の営柵は渓に臨んで数十里に連なっていた。庚辰、周本は渓を隔てて陣を布き、まず弱兵を出して敵を試した。全諷の兵が渓を渡って追ってくると、半ば渡ったところで兵を放って撃ち、全諷軍は大潰して踏み合い、溺死者は数え切れなかった。周本は兵を分けて帰路を断ち、全諷と将士五千人を捕らえた。
  • 勝ちに乗じて袁州を落とし、刺史の彭彦章を捕らえ、吉州へ進撃した。
  • 同月、歙州刺史の陶雅がその子の敬昭と都指揮使の徐章に兵を率いさせ、饒・信二州を襲った。信州刺史の危仔倡は降を請い、饒州刺史の唐宝は城を捨てて逃げた。行営都指揮使の米志誠、都尉の呂師造らは上高で苑玫を破った。吉州刺史の彭玕は衆数千を率いて楚へ奔った。
  • まもなく王は左先鋒指揮使の張景思を信州知州とし、兵を付けて送り込んだ。危仔倡は兵の到来を聞いて呉越へ奔った。
  • 危全諷が広陵に至ると、諸将は「かつて先王が趙鍠を攻めたとき、全諷はしばしば我が軍に糧を供給した」と議し、王は釈放して手厚く資給した。
  • 八月、虔州刺史の盧光稠が州を挙げて来属した。これによって我が方は初めて江西の地をすべて領有した。
  • 九月、王は使者を遣わして福建と修好しようとしたが、閩主の王審知が我が使者の張知遠を殺したため、国交を絶った。
  • 冬十月戊辰、呉越の高澧が湖州を挙げて来属した。
  • この年、鍾泰章を滁州刺史に抜擢した。

天祐七年(910年)

  • 春二月、万全感が岐から帰った。岐王が制を承けて王に兼中書令・嗣呉王を加えた。王は境内に大赦した。
  • 高澧が我が方に援兵を乞い、常州刺史の李簡らが兵を率いて応じたが、湖州の将盛師友・沈行思が城を閉じて入れなかったため、高澧は麾下五千を率いて亡命してきた。
  • 夏五月、徐温の母周氏が卒した。将吏が祭を行い、羅錦を着せた高さ数尺の人形を供えたところ、温は「これは皆民の労力から出たものだ。どうしてこんなものに使って焼くのか。ほどいて貧しい者に着せるべきだ」と言った。
  • 同月、温は官を辞して喪に服したが、まもなく起復して内外馬歩軍都軍使となり潤州観察使を領した。徐知誥を昇州副使とした。
  • 六月、水軍指揮使の敖駢が赤石で彭瑊を囲んだが、楚兵が救援に来て敖駢を捕らえて去った。
  • 冬十二月、虔州刺史の盧光稠が病み、位を譚全播に譲ろうとしたが全播は受けなかった。光稠が卒すると、その子で韶州刺史の延昌が喪に駆けつけ、全播は延昌を立てて仕えた。王は使者を遣わして延昌を虔州刺史に任じ、延昌はこれを受けた。しかし後に楚を通じて梁に「淮南の官を受けたのは彼らの謀を緩めるためで、最後には朝廷のために江西を経略する」と伝えた。丙寅、梁は延昌を鎮南留後とした。延昌が部将の廖爽を韶州刺史に推すと、梁はこれを許した。
  • この冬、淮南節度判官の厳可求が新淦県に制置使を置いて兵を戍らせるよう請い、虔州攻略を図った。交替のたびにひそかに兵を増やしたが、虔州の人は気づかなかった。

天祐八年(911年)

  • 春正月丙戌朔、日食があった。
  • 夏五月甲申朔、梁が乾化と改元した。
  • 冬十月辛亥朔、呉越の湖州刺史銭鏢が都監の潘長と推官の鍾安徳を殺し、我が方へ亡命してきた。
  • 十二月、百勝軍指揮使の黎球が盧延昌を殺して代わった。丙辰、梁は球を虔州防禦使とした。まもなく球が卒し、牙将の李彦図が知州事を代行した。譚全播は重病と称して難を免れた。
  • この時、洪州の越王山の下、昭(欠字)観の前に隕石が落ちた。長さ七、八尺、周囲三丈余。節度使の劉威が観の中へ運び入れさせたところ、七日のうちに数尺ほどに縮み、さらに一尺余に、後には七寸で止まった。識者は「生きている石だ」と言った。

天祐九年(912年)李遇の誅殺と徐知誥の抬頭

  • 春三月、宣州観察使の李遇は、鎮南節度使の劉威、歙州観察使の陶雅、常州刺史の李簡とともに徐温の専権を憤っており、なかでも李遇の不満が強かった。温は怒って淮南節度副使の王壇を宣州制置使に任じ、李遇が入朝しない罪を数え上げ、都指揮使の柴再用に昇・潤・池・歙の兵を率いさせて王壇を宣州へ送り込ませ、昇州副使の徐知誥を副将とした。李遇は交替に応ぜず、柴再用は一か月以上攻めても落とせなかった。
  • 夏五月、温が李遇の末子を城下に引き出して見せ、さらに李遇の知人の何蕘を入城させて説得させた。李遇は戦うに忍びず、門を開いて降を請うた。温は柴再用に諷して、出てきたところを斬らせ、一族を皆殺しにした。
  • 同月、徐知誥は功により昇州刺史に昇進した。洪州の進士宋斉丘を招いて推官とし、判官の王令謀・参軍の王翃とともに専ら謀議に当たらせ、牙吏の馬仁裕・周宗・曹悰を腹心とした。当時、諸州の長吏は多くが武人で、軍事ばかりを事として民政を顧みなかったが、知誥は昇州で独り清廉な官吏を選び、政教を整え、賢才を招き、家財を惜しみなく費やしたので、四方の士大夫が多く帰服した。
  • 六月、梁の郢王朱友珪が主の朱晃(太祖)を弑して自立した。
  • 秋七月、劉威と陶雅が広陵に赴くと、徐温はきわめて恭しく待遇した。威らは心服し、これによって人々は皆温を重んじるようになった。まもなく温は威・雅とともに将吏を率いて李儼に請い、制を承けて王に太師・呉王を加え、温は鎮海軍節度使・同平章事を領し、淮南行軍司馬は元のままとした。威と雅はそれぞれ任地へ帰した。
  • 冬十一月、淮南節度副使の陳璋が楚の岳州を襲って刺史の苑玫を捕らえ、荊南へ進撃した。王は撫州刺史の劉信に江・撫・袁・吉・信の五州の兵を率いさせて吉州に屯し、陳璋の後詰めとした。
  • この年、虔州防禦使の李彦図が卒し、州人は譚全播を奉じて代わらせ、梁に付いた。

天祐十年(913年)

  • 春正月、陳璋は荊南を攻めたが落とせずに引き返した。荊南と楚の兵が江口に集まって迎え撃とうとしたが、璋はこれを聞いて舟二百艘を並べ、夜のうちに荊江を通過したので追いつけなかった。
  • 二月、梁の均王朱友貞が兵を起こして賊を討ち、友珪は誅された。友貞は大梁で自立した。
  • 三月、行営招討使の李濤が二万を率いて千秋嶺を出て呉越の衣錦軍を攻めた。
  • 夏四月、我が軍は銭伝瓘に敗れ、李濤は捕らえられ、士卒三千余も捕虜となった。
  • 五月、宣州副指揮使の花虔を遣わし、広徳鎮遏使の渦信と合して広徳に屯し、衣錦軍を攻めさせた。
  • 六月、銭伝瓘が広徳を陥れ、花虔と渦信も捕らえられた。
  • 秋八月、楚の寧遠節度使姚彦章が鄂州を侵した。王は池州団練使の呂師造を水陸行軍応援使としたが、到着前に楚兵は退いた。
  • 九月、呉越王銭鏐がその子の伝瓘らを遣わして常州を侵し、潘葑に陣した。徐温は「浙人は軽率で臆病だ。破りやすい」と言い、諸将を率いて強行軍で赴いた。無錫に至ると裨将の陳祐が手勢を率いて別道から敵の背後に出ることを請い、祐が去ると温は本隊で挟撃して呉越軍を大破し、斬獲は甚だ多かった。
  • 冬十一月、梁は寧国節度使の王景仁を淮南西北行営招討応援使とし、一万余を率いて廬州・寿州を侵させた。
  • 十二月、徐温は平盧節度の朱瑾とともに諸将を率いて拒ぎ、趙歩で景仁と遭遇した。徴集した兵がまだ集まっておらず、温は四千余で戦って利あらず退いた。景仁がまっすぐ温に迫ったが、左驍衛大将軍の陳紹が撃退した。やがて兵が集まると霍邱で梁兵を大破し、景仁は数騎で殿軍を務めたので、我が師は敢えて迫れなかった。
  • 先に梁人が淮を渡るとき、渡れる浅瀬に目印の表を立てていた。我が霍邱の守将朱景がその表を木に浮かべて深淵へ移し替えておいたため、梁兵は敗走の際に表を見て渡り、溺死者は半ばを超えた。温はその屍を霍邱のほとりに集めさせ、京観(勝利の記念塚)を築いた。

天祐十一年(914年)

  • 夏四月、袁州刺史の劉崇景が叛いて楚に付いた。楚将の許貞が一万を率いて援けに来た。王は都指揮使の柴再用・米志誠らに諸将を率いさせて討たせた。
  • 同月、楚の岳州の将王環が夜、黄州を襲い、我が刺史の馬鄴を捕らえた。
  • 五月、柴再用らが万勝岡で劉崇景・許貞を大破し、二人は城を捨てて逃げ、袁州を回復した。
  • 秋八月、梁は福王朱友璋を武寧軍節度使としたが、前節度使の王殷は交替に応ぜず、徐州を挙げて我が方に付いた。王殷はもと朱友珪が置いた者である。
  • 九月、梁は淮南西北面招討応接使の牛存節と開封尹の劉鄩に命じて王殷を討たせた。
  • 冬十月、平盧節度使の朱瑾らを遣わして徐州を救わせたが、敗れて帰った。

天祐十二年(915年)徐温の潤州移鎮

  • 春二月、梁の牛存節らが彭城を陥れ、王殷は一族もろとも焼身自殺した。
  • 夏四月、徐温はその子の牙内都指揮使徐知訓を淮南行軍副使・内外馬歩諸軍副使とした。
  • 秋八月庚戌、王は鎮海節度使の徐温を管内水陸馬歩諸軍都指揮使・両浙都招討使・守侍中・斉国公とし、潤州に鎮させ、昇・潤・常・宣・歙・池の六州を巡属とした。温は子の知訓を広陵に留めて政を執らせたが、軍国の大事は従来どおり温が遠くから裁決した。
  • 冬十一月乙丑、梁が貞明と改元した。
  • この冬、東塘を浚渫したところ、楊林の江水の中から火が出て、物を燃やすことができた。

天祐十三年(916年)

  • 春二月辛丑の夜、宿衛将の馬謙・李球が乱を起こし、王を脅して楼に登らせ、庫の兵器を出して徐知訓を討とうとした。知訓は逃げようとしたが厳可求が止めた。
  • 壬寅、馬謙らは天興門外に陣した。諸道副都統の朱瑾が潤州から到着してこれを見、「恐れるに足りない」と言い、外の衆を振り返って手を挙げ大声で呼ばわると、乱兵は皆潰えた。馬謙・李球を捕らえて斬った。
  • 秋七月甲子、潤州の牙将周郊が乱を起こして府に入り、大将の秦師権らを殺した。大将の陳祐らが討って斬った。
  • 九月、光州の将王言が刺史の戴肇を殺した。王は楚州団練使の李厚を遣わして討たせたが、廬州観察使の張崇が命を待たずに兵を率いて光州へ向かった。王言は城を捨てて逃げ、李厚に州事を代行させた。
  • 冬十月、晋王李存勗が使者を遣わして、兵を合わせて梁を伐つよう約してきた。
  • 十一月、行軍副使の徐知訓を淮北行営都招討使とし、朱瑾らとともに宋州・亳州へ向かわせ、晋に呼応させた。淮を渡ると檄を州県に回し、進んで潁州を囲んだ。

天祐十四年(917年)

  • 春正月、梁が宣武節度使の袁象先に潁州を救わせ、我が軍は引き返した。
  • 三月、楚の馬存が上高を侵した。
  • 夏四月、昇州刺史の徐知誥は城市や府舎を整備し、たいへん盛んになった。
  • 五月、徐温が巡察して昇州に至り、その繁栄ぶりを気に入った。潤州司馬の陳彦謙が鎮海軍の治所を昇州へ移すよう勧め、温は従った。知誥を潤州団練使に移すと、知誥は宣州を求めたが許されず、たいへん不満だった。宋斉丘はひそかに知誥に「三郎は驕り放題で、失脚は時間の問題です。潤州は広陵と一水を隔てるだけ。これは天の授けたものです」と言い、知誥は喜んで赴任した。
  • 冬十月、南越(南漢)の主劉巌が客省使の劉琯を遣わして来聘し、即位を告げ、あわせて王に帝を称するよう勧めた。
  • この年、王は契丹に猛火油を贈り、「城を攻めるときこの油で火をつけて楼櫓を焼けば、敵が水を注いでも火はいよいよ盛んになる」と伝えた。契丹主は大いに喜んだ。

天祐十五年(918年)徐知訓の誅殺と徐知誥の執政

  • 春正月、右都押牙の王祺を行営都指揮使とし、洪・撫・袁・吉の兵を率いて虔州の譚全播を攻めさせた。厳可求が厚い報酬で贛石の水夫を募ったので、我が兵は突如城下に至り、虔州の人は初めて気づいた。
  • 夏六月、内外馬歩都軍使・昌化節度使・同平章事の徐知訓が、副都統の朱瑾に殺された。
  • もともと徐氏が権を専らにし、王は幼く懦弱で自ら保てず、知訓はとりわけ王を侮り、君臣の礼を欠いた。しばしば王と俳優の真似をし、自分は参軍役、王には従者の蒼鶻役をさせた。濁河に舟を浮かべたときは、王が先に立つと知訓が弾を撃った。禅智寺の花見では、酒に酔って罵り、王を侮辱する言葉を吐き、王は恐れて泣いた。
  • 知訓はかつて徐知誥を酒に召し、知誥が時刻どおり来ないと怒って「乞食が酒でなく剣がほしいのか」と言った。ある日、知誥との宴席で伏兵を置いて誅そうと謀ったが、弟の知諫が知誥の足を踏んで合図し、知誥は逃れた。
  • 朱瑾は知訓と不和で、鬱憤が積もっていた。知訓を殺すと、その首を提げて府門に入った。王は顔を覆って奥へ入り、瑾は府兵に攻められて自刎して死んだ。
  • この日、徐知誥は変を聞いてただちに兵を率いて長江を渡り、軍府を安撫した。
  • 当時、徐温の子はいずれも幼弱だったので、温は知誥を知訓の代わりに執政とした。朱瑾の屍を雷塘に沈め、その一族を滅ぼした。さらに唐の宣諭使李儼と泰寧節度使の米志誠が謀に通じていたと疑い、前後して殺した。
  • 秋七月、温が広陵に入朝し、大々的に誅戮を行おうとしたが、知誥と厳可求が知訓の悪行を詳しく述べたので、温の怒りはやや解けた。知訓の将佐を匡正できなかった罪で処罰し、刁彦能はしばしば諫書を上げていたので賞した。また知訓は僧の修睦と親しくしており、この時偽の讖書数枚が見つかっていずれも修睦の手跡だったので、修睦を捕らえて殺した。朱瑾は雷塘のほとりに葬られた。
  • 先に李徳誠のもとに天文に通じた客がおり、ある日「昨夜の天象は大異で、揚州で無限に血が流れ、朝廷の貴人が多く陥る」と言った。後に日を照らすと、まさに朱瑾が知訓を殺した夜であった。
  • 戊戌、知誥を淮南節度行軍副使・内外馬歩都軍副使・通判府事・兼江州団練使とし、徐知諫に潤州団練事を代行させて知誥の後任とした。温は金陵の鎮へ帰り、軍国の大綱を総べ、その他の庶政はすべて知誥が裁決した。
  • 知誥は知訓のやり方をことごとく改め、王に仕えて恭順を尽くし、士大夫には謙譲、衆には寛大、自身は倹約をもって臨んだ。王の命として天祐十三年以前の未納の税をすべて免除し、残りは豊年を待って納めさせた。賢才を求め、諫言を容れ、奸猾を除き、請託を断ったので、士民は挙って心を寄せ、古参の将や荒くれの武人も心服しない者はなかった。
  • 知誥は宋斉丘を登用しようとしたが、徐温は内心これを嫌い、斉丘を殿直軍判官にとどめた。
  • 同月、虔州を攻める軍中に大疫が起こり、王祺が病んだ。虔州は険固で落とせないので、鎮南節度使の劉信を虔州行営招討使とした。まもなく王祺は卒した。
  • 譚全播が近隣諸国に援兵を乞い、呉越・閩・楚がいずれも出兵した。楚将の張可求は一万を率いて古亭に屯し、閩兵は鄠都に屯した。呉越の銭伝球は二万で信州を囲んだ。信州の兵はわずか数百で、迎え撃って利あらず。刺史の周本は門を開いて宴を張り、矢が雨のように降っても平然と動かなかったので、呉越は伏兵を疑って囲みを解いて去った。
  • 王は前の舒州刺史陳璋を東南面応援招討使として蘇州・湖州を侵させ、呉越の兵を牽制させた。銭伝球は信州から南下して汀州に屯した。
  • 晋王李存勗が密使に帛書を持たせて兵を合わせ梁を伐つよう求めてきたが、王は虔州の戦役を理由に断った。
  • 八月、劉信が部将の張宣に夜襲させ、古亭で張可求と戦って大破した。また梁詮らを遣わして呉越と閩の兵を撃たせると、二国は楚兵の敗北を聞いて引き上げた。
  • 九月、劉信は虔州を攻めたが落とせず、人質を取って帰った。徐温は怒り、兵を増して再度攻めさせた。
  • 冬十一月、劉信が引き返して虔州を攻めると、先鋒が到着しただけで虔州の兵は潰え、ついに虔州を抜き、雩都で譚全播を追捕した。王は全播を右威衛将軍とし、百勝軍節度使を領させた。
  • かつて徐温は自ら権が重いのに位が低いことを気にして、王に「今、大王も諸将もともに節度使です。都統の名があっても統制するには足りません。呉国を建てて帝を称し、治められますよう」と説いたが、王は許さなかった。ここに至って厳可求が金陵へ赴き、温にまず呉国を建てて自らの地位を高めるよう説いた。温は深く納得し、可求を留めて庶政を総べさせ、あわせて礼儀の草案を作らせた。

武義元年(919年)呉国王即位

  • 春三月、呉越の銭伝瓘が東洲から侵入した。王は百勝軍使の彭彦章と裨将の陳汾に拒ませた。徐温は将吏と藩鎮を率いて王に天子の位に即くよう請うたが、許されなかった。
  • 夏四月戊戌朔、温が玉冊・宝綬を奉じて王を尊び呉国王の位に即かせ、天祐十六年を武義元年と改め、境内に大赦した。宗廟・社稷を建て、百官を置き、宮殿の器物はすべて天子の礼を用いた。五行では金をもって土を継ぐとし、臘祭は丑の日とした。
  • 武忠王(楊行密)の諡を孝武王・廟号太祖と改め、威王(楊渥)を景王・廟号烈祖と改めた。母の太夫人史氏を太妃と尊んだ。
  • 徐温を大丞相・都督中外諸軍事・諸道都統・鎮海寧国節度使・守太尉兼中書令・東海郡王とし、徐知誥を左僕射・参政事・兼知内外諸軍事とし、江州団練使は元のままとした。揚府左司馬の王令謀を内枢使、営田副使の厳可求を門下侍郎、塩鉄判官の駱知祥を中書侍郎、前中書舎人の盧択を吏部尚書兼太常卿、掌書記の殷文圭・沈顔を翰林学士、館駅巡官の游恭を知制誥、前駕部員外郎の楊迢を給事中とした。李宗・陳璋を左右雄武統軍、柴再用・銭鏢を左右龍武統軍とした。江西の劉信、鄂州の李簡、撫州の李徳誠、廬州の張崇、海州の王綰の五人を征南・鎮西・平南・安西・鎮東の大将軍とし、文武の官はそれぞれ位を進めた。文散官の諸大夫を大卿、御史大夫を御史大憲と改めたのは、祖の諱を避けたためである。
  • 乙巳、彭彦章が銭伝瓘と狼山江で戦ったが、裨将の陳汾が兵を出して救わず、彦章は敗れて戦死した。
  • 五月、荊南が楚人に攻められて我が方に援けを乞うた。王は鎮南節度使の劉信らに洪・吉・撫・信の歩兵を率いて瀏陽から楚の潭州へ向かわせ、武昌節度使の李簡らに水軍を率いて楚の復州を攻めさせた。劉信らが潭州の東境に至ると、楚兵は荊南から手を引いて帰り、李簡らは復州に入って知州の鮑唐を捕らえた。
  • 六月、我が師が沙山で呉越の兵を破った。
  • 秋七月、呉越の銭伝瓘が常州を侵し、徐温が諸将を率いて拒いだ。右雄武統軍の陳璋は水軍を率いて海門から下り、敵の背後に出た。壬申、無錫で戦った。長く旱が続いて草が枯れていたので、我が兵は風に乗じて火を放ち、呉越軍を大破し、その将何逢・呉建を斬った。伝瓘は逃げ、山南まで追ってまた破った。陳璋は香湾で呉越兵を破り、指揮使の崔彦章は叛将の陳紹を捕らえて帰った。この日、叛将の曹筠も我が軍に復帰した。
  • 徐知誥は歩卒二千に呉越の旗と鎧を着けさせ、敗走兵に紛れて東へ進み蘇州を襲うことを請うたが、温は「策としては優れているが、今は兵を休めたい。お前の言うようにする暇はない」と言った。諸将はまた「呉越が恃むのは舟だが、今は大旱で水路が涸れている。これは天が滅ぼす好機だ。歩騎の勢いを尽くして一挙に滅ぼすべきだ」と言った。温は嘆じて「天下が乱れて久しく、民の困窮は甚だしい。銭公も軽んじてよい相手ではない。戦いが長引けば諸君の憂いとなる。戦勝で懼れさせ、兵を収めて懐かせ、両地の民を安んじ君臣を枕高くさせるほうがよい。多くを殺して何になろう」と言い、軍を引き上げた。
  • 丙戌、王は弟の楊濛を廬江郡公、楊溥を丹陽郡公、楊潯を新安郡公、楊澈を鄱陽郡公とし、子の楊継明を廬陵郡公とした。
  • 同月、大封(後高句麗)の王躬乂が佐良尉の金立奇を遣わして入貢した。躬乂はもと高麗の石窟寺の隻眼の僧で、天祐の初めに開州に拠って王を称し、国号を大封といった。
  • 八月、無錫の捕虜を呉越に返し、客省使の欧陽汀を遣わして修好させた。呉越も使者を遣わして和を請うた。これ以後、三十余州の民は二十余年にわたって生業を楽しんだ。王と徐温はしばしば呉越王に書を送って自ら王を称し、国中で梁朝の命を受けぬよう勧めたが、呉越王は従わなかった。
  • 冬十月、徐温は廬江公の楊濛を楚州団練使として外に出した。
  • 十一月、武寧節度使の張崇が梁の安州を侵した。
  • 十二月、民兵を団結(編成)した。御史台主簿の盧枢の建言による。
  • この時、「東海の鯉魚、飛んで天に上る」という童謡があった。また「江北の楊花は雪となって飛び、江南の李樹は五つの枝に団なる。李花は子を結ぶ、憐れむべし、楊花のごとく終わりなきにあらず」という謡もあった。

武義二年(920年)高祖の死

  • 春正月、張崇は安州を攻めたが落とせずに帰った。
  • 夏四月、王が病に臥した。
  • 五月、大丞相の徐温が昇州から入朝した。嗣子を誰にすべきかが議されたとき、温の意を迎えようとして「蜀の先主が諸葛亮に、嗣子が不才ならば君が自ら取れと言いました」と述べる者がいた。温は色を正して「私に本当に取る意があったなら、張顥を誅した当初にやっている。今になってのことか。楊氏に男子がなく女子だけであっても、私はこれを立てる。妄言する者は斬る」と言った。
  • そこで王の命として丹陽公の楊溥を迎えて監国とした。楊溥の兄の楊濛は舒州団練使に移された。
  • 己丑、王が薨じた。享年二十四、諡は宣。乾貞元年に高祖宣皇帝と尊ばれた。陵を粛陵という。
  • 王は重厚で恭謹であり、徐温父子が政を専らにしても、不平を言葉や顔色に出したことがなかった。温はそのため安心していた。建国して制を称するに及んでは、とりわけそれを喜ばず、いつも鬱々として酒に溺れ、ほとんど食事も進まず、ついに病が篤くなって世を去った。