十国春秋十國春秋卷一 吳一 太祖世家(楊行密 字は化源)
廬州合肥の農家に生まれた楊行密(字は化源、初名は行愍、852年頃–905年)。唐末の江淮の動乱のなかで盗賊から州兵となり、軍吏を斬って挙兵して廬州を握った。畢師鐸・秦彦の乱、孫儒との死闘を勝ち抜いて揚州と宣州を得、清口で汴の大軍を破って淮南を確保した。唐から呉王に封ぜられ、十国の一つ呉の基礎を築いた太祖である。
年表(23件)
- 中和三年883年軍吏を斬って挙兵し、諸営を併せて八営都知兵馬使を自称
- 光啓二年886年壽州の来襲を褚城で破り、高駢の命で名を行密と改める
- 光啓三年887年畢師鐸の乱に乗じて廬州の兵を挙げ、揚州救援に向かう
- 光啓三年887年広陵を陥れて入城し、淮南留後を自称
- 文德元年888年孫儒に揚州を奪われて脱出し、廬州へ退く
- 龍紀元年889年宣州を落として入城し、唐から宣歙観察使に任ぜられる
- 大順元年890年唐が宣歙の軍号を寧国と定め、行密を節度使とする
- 景福元年892年孫儒を陣中で捕らえて斬り、淮南節度使・同平章事となる
- 景福二年893年廬州を落として蔡儔を斬り、歙州・舒州を取る
- 乾寧元年894年交易の茶を朱全忠に奪われ、汴との不和が始まる
- 乾寧二年895年濠州・壽州を落とし、検校太傅・同中書門下平章事を加えられ弘農郡王に封ぜられる
- 乾寧三年896年蘇州・蘄州・光州を取り、淮南の地を完全に領有するに至る
- 乾寧四年897年清口で龐師古の汴軍を大破し、渒水で葛從周も撃破
- 乾寧五年898年顧全武に蘇州を奪われ、崑山を守った秦裴も降る
- 光化二年899年朱瑾と徐州を攻めるが朱全忠の来援を聞いて引き揚げる
- 光化三年900年唐から兼侍中を加えられる
- 光化四年901年李神福が杭州を攻めて顧全武を生け捕り、臨安に進む
- 天復二年902年唐から東面行営都統・中書令に任ぜられ、爵を進めて呉王となる
- 天復二年902年馮弘鐸を曷山に破って昇州を取り、弘鐸を淮南節度副使とする
- 天復三年903年田頵・安仁義が叛き、朱延壽を誅して田頵を討ち滅ぼす
- 天復四年904年娘を錢傳璙に嫁がせて錢氏と婚を結び、両国境が和らぐ
- 天祐二年905年潤州を落として安仁義を斬り、鄂州を取って杜洪を処刑
- 天祐二年905年子の楊渥を淮南留後としたのち薨じる。享年五十四、廟号は太祖
四庫全書所収。検討(翰林院検討)呉任臣の撰。
出自と若年時代(852年頃〜883年)
- 吳の太祖は姓を楊、名を行密、字を化源といい、廬州合肥の人である。父の名は怤、代々の農家であった。
- 行密は初めの名を行愍といった。体格が大きく力があり、両手で百斤を持ち上げ、一日に三百里を歩いた。ふだん一人でいると必ず黒衣の人が傍らに侍っているのが見え、内心で不思議に思っていた。
- 唐の乾符年間(874年〜879年)、江淮に群盗が起こり、行愍も盗賊となって捕らえられた。廬州刺史の鄭綮はその風貌に驚き、「お前はいずれ富貴になる身だ、なぜ賊などするのか」と言って縄を解き放免した。
- のちに募兵に応じて州兵となり、朔方の防衛に出て隊長に昇った。年季が明けて帰還したが、軍吏に憎まれて再び出征させられた。
- 出発に際して軍吏の宿舎に立ち寄ったところ、軍吏は上辺だけ親切に何が入用かと尋ねた。行愍は「ただ貴殿の首が足りぬだけだ」と言い放ってその首を斬り、携えて出て挙兵した。諸営を併せて自ら八営都知兵馬使と称した。中和三年(883年)三月のことである。
廬州の掌握と淮南への進出(883年〜887年)
- 刺史の郎幼復は抑えきれず、淮南節度使の高駢に行愍を推薦して自分の代わりにしてほしいと請うた。高駢は行愍を淮南押牙・知廬州事とした。唐朝はそのまま行愍を廬州刺史に任じた。
- このころ高駢は方士の呂用之に惑わされていた。呂用之は軍使の俞公楚・姚歸禮と折り合いが悪く、二人が廬州に討伐を企てていると偽って行愍に告げた。行愍がただちに兵を出して襲い二将を殲滅すると、呂用之は公楚らが謀反したと高駢に報告し、行愍への恩賞は加増された。
- 翌年、高駢は従子の高澞に舒州を管掌させた。群盗の陳儒が舒州を攻め、澞が廬州に救援を求めると、行愍は牙将の李神福に諮った。神福は刃を用いずに追い払うと言い、舒州の兵に廬州の旗幟を多く立てさせて大軍が布陣したように見せかけたので、賊は恐れて夜逃げした。
- しばらくして群盗の吳迥・李本がまた舒州を攻め、澞は城を捨てて逃げ、高駢に殺された。行愍は陶雅・張訓らを遣わして迥と本を捕らえて斬り、陶雅に舒州刺史を代行させた。
- 黄巣の一党である秦宗権が弟に兵を与えて廬州に侵入させ舒城を占拠すると、行愍は田頵に命じて撃退させた。
- 光啓二年(886年)冬十二月、壽州刺史の張翺が部将の魏虔に一万の兵を与えて廬州に来襲した。行愍は田頵・李神福・張訓に防がせ、褚城で虔を破った。同月、滁州刺史の許勍が舒州を襲い、陶雅は廬州へ逃げ帰った。高駢は行愍に名を改めさせ、以後「行密」となる。
- 光啓三年(887年)、淮南左廂都知兵馬使の畢師鐸が行営使を自称し、軍使の鄭漢章、高郵鎮遏使の張神劒とともに呂用之討伐の兵を挙げて揚州を陥れた。呂用之は逃亡し、師鐸は高駢を捕らえて幽閉した。
- このとき呂用之は高駢の文書を偽造して行密を行軍司馬に任じ、援軍を呼んだ。廬江の人袁襲は「これは天が淮南を明公に授けるものだ」と説き、行密は廬州の兵を挙げ、和州刺史の孫端からも兵を借りて数千人で救援に向かった。
- 五月、行密が天長に至ると呂用之が兵を率いて帰属した。張神劒が畢師鐸に財貨を求めて拒まれたため、神劒も軍勢ごと属した。まもなく海陵鎮遏使の高霸、曲溪の劉金、盱眙の賈令威がそれぞれ配下を挙げて帰属し、行密の兵は一万七千に達した。張神劒は高郵の糧を運んで補給した。
揚州入城と孫儒の来襲(887年〜888年)
- 先立って畢師鐸は属官の孫約と自分の子を宣州へ遣わし、観察使の秦彦に援兵を乞い、城を落とした暁には迎えて帥に立てると約束していた。秦彦は心を動かし、牙将の秦稠に三千の兵を与えて揚子まで進ませた。師鐸がさらに渡江を促すと、同月甲午、秦彦は宣歙の兵三万余を率い竹の筏で長江を下った。趙暉が上元で迎え撃ち、殺され溺れた者が半ばに及んだ。
- 丙申、秦彦は広陵に入り権知淮南節度事を自称し、師鐸を行軍司馬とし、池州刺史の趙鍠を宣歙観察使に補した。戊戌、行密は広陵に到着したが入城できず、蜀岡に駐屯して城下に八つの砦を築いて包囲した。秦彦は城を閉ざして守った。
- 六月戊午、秦彦は師鐸と秦稠に八千の兵を与えて城西から出撃させたが、稠は敗死し、士卒の八割が死んだ。城中は食糧が尽き、薪を採る道も絶え、宣州の軍からは人を食う者が出はじめた。
- このころ前蘇州刺史の張雄の軍が諸軍の中では比較的強盛だった。秋八月、秦彦は僕射の告身を張雄に、尚書の告身三通を裨将の馮弘鐸らに与えた。広陵の人々は競って金玉や珠・絹を張雄の陣に持ち込んで食糧と交換し、通犀の帯一本で米五升、錦の夜具一枚で糠五升という有様だった。張雄の軍は富んだ結果もはや戦おうとせず、やがてひそかに行密方を助けるようになった。
- 丁卯、秦彦は全軍一万二千を挙げ、師鐸と一党の鄭漢章に城西数里にわたって布陣させた。行密は帳中に安臥し、賊が近づいたら知らせよと言い、金帛と麦・米を一つの砦に積んで弱兵に守らせ、その傍らに精兵を三重に伏せて待った。交戦するや行密は自ら千人で敵陣に突入し、わざと負けて陣営を捨てて逃げた。飢えた秦彦の兵が勝ちに乗じて営に殺到し物資を奪おうとしたところで伏兵が起こり、行密が反転して攻撃、ほぼ全員を斬り捕らえ、死骸は十余里に積み重なった。師鐸と漢章は大敗して単騎で城に逃げ帰った。
- 九月甲戌、秦彦は将の劉匡時に命じて高駢とその子弟・甥姪を老幼の別なく殺し、同じ穴に埋めた。乙亥、行密は高駢の死を聞いて全軍に喪服を着せ、城に向かって三日間哭した。
- 冬十月、秦彦は鄭漢章に張神劒・高霸の砦を攻め破らせ、神劒は高郵へ、霸は海陵へ逃げた。
- 行密の広陵包囲は半年に及び、秦彦・師鐸との大小の戦は数十度に達した。城内は食糧が尽き、米一斗が銭五十緡、草の根も木の実も食い尽くされ、菫泥を餅にして食い、餓死者が半数を超えた。宣州の兵は人をさらって市で売り、夫婦や父子が自ら連れ立って屠殺場で身を売り、屠者は羊や豚と同じように解体した。
- 包囲は日に日に厳しく、秦彦と師鐸は打つ手を失った。行密の方も長く落とせないので引き揚げようとしていた。己巳の夜、大風雨に乗じて呂用之の部将張審威が配下三百を率いて西の壕に伏し、明け方に守備の交代を待って城に登り門を開いて味方を入れた。守兵は気づかぬまま潰えた。秦彦と師鐸はかねて妖尼の王奉仙を信じて戦の日取りを決めていたが、このときも諮ると「逃げるのが上策」と答えたので、開化門から東塘へ逃走した。
- 行密は諸軍一万五千を率いて揚州に入り、淮南留後を自称した。高駢の従孫の高愈に副使を代行させ、高駢とその一族を改葬し、高氏に節を尽くさなかった旧将を責め、梁纉を戟門の外で殺し、韓問は井戸に身を投げて死んだ。このとき生き残った住民はわずか数百家で、飢えて痩せ衰え人の姿をとどめていなかった。
- 行密は守りきれずに退去しようとしたが、そこへ蔡州の秦宗権が弟の秦宗衡に淮南を侵略させ、揚州をめぐって争うことになった。孫儒がその副将で、張佶・劉建鋒・馬殷・秦彦暉が従っていた。十一月辛未、宗衡は広陵の城西に至って行密の旧砦に拠り、まだ城内に入れていなかった輜重はすべて蔡州軍のものとなった。秦彦と師鐸も東塘から戻って宗衡に合流した。行密は城を閉ざして出なかった。
- やがて秦宗権が呉興郡王朱全忠に対抗するため宗衡を蔡州へ呼び戻したが、孫儒は病と称して動かず、宗衡が繰り返し促したので激怒し、甲戌、酒席で自ら宗衡を斬り、首を汴に送った。宗衡の将安仁義が行密に降ると、行密は騎兵をすべて委ね、田頵より上席に列した。
- 孫儒は兵を分けて隣州を掠め、秦彦・師鐸とともに軽装の兵で高郵を襲った。辛巳、高郵鎮遏使の張神劒は配下を率いて揚州へ逃れた。丙戌、孫儒は高郵を屠り、戊子、生き残った高郵の兵七百が包囲を破って逃げ込んできた。行密は変事を恐れ、その夜のうちに諸将に分属させて全員を穴埋めにし、翌日には神劒を邸で殺した。
- 壬寅、海陵鎮遏使の高霸に兵民を率いて広陵に入るよう命じ、違反すれば一族を誅すと通告した。戊戌、高霸は弟の高暀、部将の余繞山、前常州刺史の丁從實とともに揚州に到着し、行密は郊外まで出迎え、高霸・高暀と兄弟の契りを結び、その将卒を法雲寺に置いた。しかしまもなく袁襲の献策を容れ、閏月己酉、軍を犒う場に甲兵を伏せて高霸・繞山・從實を捕らえて殺し、あわせてその一党を寺で殺した。死者は数千、その日は大雪で寺の外の数里が赤く染まった。高暀は逃げたが翌朝に騎兵に捕らえられ殺された。
- 呂用之は天長にいたとき、白銀五万錠を住居に埋めてあり、城を落とした暁には麾下に一献差し上げたいと行密を欺いていた。行密は大閲兵の場で「僕射(呂用之)はこの者たちに銀を約束したのに、なぜ食言するのか」と言って引き据えさせ、田頵に取り調べさせた。呂用之は叩頭して罪を認め、鄭杞・董瑾と謀り中元の夜に高駢を邸に招いて黄籙斎を営み絞殺したこと、莫邪都に諸軍を率いさせ自分を節度使に推させようとしたことを自白した。庚戌、市で腰斬に処し、怨みを持つ者が屍を切り裂いて跡形もなくし、一族と一党も誅された。
- 数日後、袁襲は広陵が飢えて荒廃し守れないとして、兵を移して蔡州軍を避けるよう勧めた。甲寅、行密は和州の将延陵宗に二千を与えて和州に帰し、乙卯、指揮使の蔡儔に千の兵と数千両の輜重を与えて廬州に帰した。
- このころ唐朝は淮南の長期の混乱を受け、呉興郡王朱全忠に淮南節度使・東南面招討使を兼ねさせた。全忠は内客将の張廷範を派遣して朝命を伝え、行密を淮南節度副使に除し、あわせて宣武行軍司馬の李璠を淮南留後とし、牙将の郭言に兵を付けて送り込もうとした。行密は初め廷範を厚遇したが、李璠が来ると聞いて怒り、受け入れぬ気配を見せた。廷範は人をやって、大軍で赴任させるべきだと全忠に報告させ、まもなく自らも逃げ帰って「行密はまだ手が出せません」と言った。
- 文德元年(888年)春正月、孫儒は秦彦と畢師鐸を殺してその兵を併せた。同月、行密は張守一を捕らえて誅した。守一はもと呂用之とともに帰属したが、長く諸将のために丹薬を調合し、さらに軍府の政に干渉しようとしたので、行密が怒ったのである。
- 二月、朱全忠は行密を淮南留後とするよう奏請した。夏四月壬午、孫儒が揚州を陥れ、行密は脱出した。孫儒は淮南節度使を自称した。行密は海陵へ走ろうとしたが、袁襲が廬州へ戻って再起を図るよう勧め、廬州へ向かった。
宣州奪取と孫儒との死闘(888年〜891年)
- 秋八月、行密は軽兵で洪州を襲おうとしたが、袁襲は鍾傳は容易に図れない、趙鍠が新たに得た宣州の方が相手として与しやすいと進言した。行密は蔡儔に廬州を守らせ、糝潭を渡って趙鍠を攻め、鍠の将の蘇塘・漆朗を曷山で大破し、宣州を包囲した。鍠の兄の趙乾之が池州から救援に来たが、行密は陶雅を差し向けて九華で迎え撃ち破り、乾之は江西へ逃げた。陶雅を池州制置使とした。
- 龍紀元年(889年)夏六月、宣州城内は食糧が尽きて人が人を食う状態となり、指揮使の周進思が城に拠って趙鍠を追い出した。鍠は広陵へ逃げようとしたが田頵に追われて捕らえられた。まもなく宣州城は進思を捕らえて降伏し、行密が入城した。唐に上表し、行密を宣歙観察使とする詔が下った。東平王朱全忠は趙鍠と旧交があり使者を送って身柄を求めたが、行密は鍠の首を斬って送った。鍠の額にはつねに肉が盛り上がっていて、死後に額を割ると珠が出た。識者は「これは人珠だ、死んでしまえばもう用いられぬ」と言った。
- 孫儒の兵が廬州を攻め、蔡儔は州ごと降った。冬十月、行密は馬歩都虞候の田頵らに常州を攻めさせた。十一月、頵は常州を囲み、宣州の偏将李友に地道を掘らせて城内に入り、夜、制置使の杜稜の寝室に旗と甲兵が現れて稜を捕らえて出た。頵は三万の兵で常州を守備した。十二月戊寅、孫儒が広陵から渡江し、壬午、田頵を追って常州を奪い、劉建鋒に守らせた。孫儒は広陵へ帰り、建鋒はさらに成及を追って潤州を取った。
- 大順元年(890年)春正月、汴将の龐師古らが十万と号して淮水を渡り、救援に来ると称して天長を落とし、壬子には高郵を落とした。二月、師古の兵は淮南に入り孫儒と陵亭で戦って敗れ帰った。同月、行密は馬敬言に五千の兵を与えて隙を突いて潤州を占拠させ、李友は二万で青城に屯して常州を攻めようとした。安仁義・劉威・田頵が劉建鋒を武進で破って常州を回復し、敬言・仁義・威の兵は潤州に駐屯した。
- 三月、唐は宣歙の軍号を寧国と定め、行密を節度使とした。夏六月、孫儒が東平王朱全忠に誼を通じ、全忠は儒を淮南節度使とするよう上表したが、まもなく汴の人が使者を殺し、元通りの仇敵に戻った。
- 秋八月、孫儒が潤州を攻めた。同月、李友が蘇州を攻略し、制置使の沈粲は孫儒のもとへ逃げた。九月、行密は牙将の張行周を常州制置使とした。閏月、孫儒は劉建鋒に常州を攻め落とさせ、行周は戦死した。ついで蘇州を包囲した。冬十二月己巳、孫儒は蘇州を陥れ、行密方の鎮将李友を殺した。安仁義らはこれを聞いて潤州の家屋を焼き夜逃げした。孫儒は沈粲に蘇州を、部将の歸傳道に潤州を守らせた。
- 大順二年(891年)春正月、孫儒は淮蔡の全兵力を挙げて渡江し、癸酉、潤州から転戦しつつ南下した。田頵・安仁義はしばしば敗れ、守備の軍は多く戦わずに潰走した。孫儒の将李從立が突然宣州の東溪に迫ったとき、守備が固まらず人心が動揺した。行密は臺濛に五百の兵を与えて溪の西に駐屯させ、斥候を往復させて大軍が続々到着するかのように触れ回らせたので、從立は疑って引き揚げた。
- 行密はまた都指揮使の李神福に溧水で孫儒の前軍を防がせた。神福はわざと退いて怯えたふりをし、油断した孫儒軍の陣営を夜襲し、千を数える捕虜と斬首を得た。
- 夏四月、行密は劉威・朱延壽に三万の兵で黄池の孫儒を攻めさせたが敗れ、孫儒は黄池の上流に布陣した。五月の大水で諸営が水没し、孫儒は揚州に戻り、部将の康暀に和州、安景思に滁州を守らせた。同月、行密は李神福に和州・滁州を攻めさせて両方とも取り、暀は降を乞い、景思は逃げた。
- 秋七月、東平王朱全忠は共同で孫儒を攻める約束をした。孫儒は兵力の強さを恃み、諸藩鎮に檄を回して行密と全忠の罪を数え、「宣州と汴を平定したら兵を進めて君側の悪を除く」と言い放った。そして揚州の家屋をことごとく焼き、壮丁と婦女を駆り立てて渡江させ、老人と病人を殺して軍糧にした。行密の別将の張訓・李德誠がひそかに揚州に入って残り火を消し止め、穀数十万斛を得て飢民を賑わせた。このとき泗州刺史の張諫が数万斛を貸して軍に供給しており、張訓は行密の命でこれを返礼として贈った。張諫はこれによって行密方に恩義を感じた。
- 乙未、孫儒は蘇州を出て広德に駐屯し、行密が迎え撃った。孫儒が行密の砦を包囲したとき、李簡が百余人を率いて力戦して砦を破り、行密を助け出した。冬十二月、孫儒は蘇州・常州を焼き掠めて宣州に迫り、錢鏐がまた兵を出して蘇州を占拠した。孫儒はしばしば行密方を破り、旌旗は百余里に連なり五十万と号した。行密は錢鏐に救援を求め、鏐は少しずつ兵と食糧を援助した。
孫儒の討滅と淮南の平定(892年〜893年)
- 景福元年(892年)春正月、行密は退いて銅官を保とうとしたが、牙将の戴友規が強く諫めて思いとどまった。
- 二月、孫儒が宣州を包囲した。それ以前に常州を守っていた劉建鋒がこのとき孫儒に従軍していたため、甘露鎮使の陳可言が手薄を突いて部兵千人で常州を占拠した。行密の将張訓が突如城下に至り、慌てて出迎えた可言を自ら斬って常州を取った。同じころ別将が潤州も回復した。
- 三月、徐州の時溥が三万の兵で南侵して楚州に至った。夏四月、張訓・李德誠が徐州兵を壽河で破って三千級を斬獲し、楚州を取ってその刺史劉瓉を捕らえた。
- 五月、行密はしばしば孫儒の兵を破って広德の陣営を落とし、張訓は安吉に駐屯して糧道を断った。孫儒は食糧が尽き、士卒に疫病が大流行し、劉建鋒・馬殷に兵を分けて諸県を掠めさせた。
- 六月、行密は孫儒がマラリアを病んでいると聞き、戊寅、大雨で暗くなったのに乗じて兵を放って攻撃し、孫儒軍は大敗した。安仁義は続けざまに五十余の砦を破り、田頵は陣中で孫儒を捕らえて斬り、首を京師に送った。孫儒の兵の多くが降った。
- 丁酉、行密は軍を率いて揚州に帰る途中、常州を通って左右に「常州は大城だ。張訓が剣一振りで落としたのだから、壮とすべきではないか」と語った。秋七月丙辰、広陵に到着し、田頵に宣州、安仁義に潤州を守らせるよう上表した。八月、唐は行密を淮南節度使・同平章事とし、田頵を知宣州留後、仁義を潤州刺史とした。
- 孫儒の降兵には蔡州の人が多かった。行密はとりわけ勇健な五千人を選び、俸給を厚くし、黒衣に甲を着せて「黒雲都」と号し、常に親衛軍として先陣を切らせた。四方の隣国が恐れた。
- 冬十月、廬州刺史の蔡儔が行密の父祖の墓を暴き、舒州刺史の倪章と結んで印を汴に送って救援を求めた。東平王朱全忠はその反覆を憎み、印は受け取ったが救わず、しかも行密に知らせてきた。行密は礼を述べ、行営都指揮使の李神福に蔡儔討伐を命じた。
- 景福二年(893年)夏四月、神福が廬州を包囲した。甲午、行密自ら廬州に赴き、田頵も宣州から合流した。秋七月丁亥、廬州を落として蔡儔を捕らえ斬った。
- 八月丙辰、田頵に宣州の兵二万で歙州を攻めさせた。歙州刺史の裴樞が籠城して容易に落ちなかったが、長期戦の末に取った。当時、諸将で刺史になった者は多く貪暴だったが、池州団練使の陶雅だけは寛厚で民心を得ていたので、歙州の人が陶雅を刺史に望み、行密はその通りにした。陶雅は礼を尽くして裴樞に会い、朝廷へ送り返した。
- 冬十月、倪章が舒州を捨てて逃げ、行密は舒州を取って李神福を刺史とした。
領域の拡大と汴との対立(894年〜896年)
- 乾寧元年(894年)春三月、黄州刺史の吳討が州を挙げて帰属した。夏五月、武昌節度使の杜洪が黄州を攻め、行密は行営都指揮使の朱延壽を救援に送った。
- 冬十一月、泗州刺史の張諫が州を挙げて降った。十二月、吳討は杜洪の圧迫を恐れて印を返し交代を願い出たので、行密は先鋒指揮使の瞿章に黄州を管掌させた。
- この冬、行密は押牙の唐令囘に一万余斤の茶を持たせて汴・宋で交易させたが、朱全忠は令囘を捕らえて茶をすべて奪った。汴との不和はここに始まる。
- 乾寧二年(895年)春二月、行密は東平王朱全忠の罪悪を唐に上表し、易定・兖鄆・河東の兵と連合して討伐したいと請うた。三月、淮水を舟で下って泗州に至り、防禦使の臺濛が盛大な接待をしたが、行密は不快な様子で立ち去った。ついで濠州を攻め落として刺史の張璲を捕らえ、丁亥、壽州を包囲した。
- 夏四月、壽州を落とせず引き揚げようとしたところ、庚寅、朱延壽が改めて攻めたいと願い出て、一気に落として刺史の江從朂を捕らえた。行密はただちに延壽を知壽州団練使とした。まもなく汴の兵数万が壽州を攻め、州の兵は少なく吏民は動揺した。延壽は黒雲隊長の李厚に防がせ、厚は死力を尽くして戦い、都押牙の柴再用がこれを助け、延壽が全軍で乗じたので汴兵は敗走した。
- 同月、行密はまた将に漣水を襲わせて落とし、張訓に守らせた。錢鏐に使者を送って董昌はすでに改悛したのだから罪を許すべきだと言い、董昌にも使者を送って天子への朝貢を促した。まもなく唐は行密に検校太傅・同中書門下平章事を加え、弘農郡王に封じた。
- このころ滁州の人は荇溪を菱溪と呼び、揚州の人は蜜を蜂糖と呼んだ。行密の名を避けたのである。
- 秋九月、泗州防禦使の臺濛に蘇州を攻めさせて董昌を救い、あわせて董昌が非を認め職貢を修めたいと言っていると朝廷に上表して官爵の回復を請うた。また彭城郡王錢鏐に書を送り、董昌は狂疾で自立したがすでに兵を恐れて諫めを容れ、悪事の同類を捕らえて送ってきたのだから、さらに討つべきではないと述べた。
- 冬十月、寧国節度使の田頵と潤州団練使の安仁義に杭州の鎮戍を攻めさせて董昌を救った。董昌は湖州の将徐淑を行密の偏将魏約と合流させ、共同で嘉興を囲んだ。鎮海の将顧全武が兵を率いて救援し、行密の別将柯厚進は蘇州の水寨を破った。
- 乾寧三年(896年)春正月辛未、安仁義は湖州に至り渡江して董昌を援けようとしたが、顧全武らが西陵を守って阻んだため渡れなかった。二月、唐帝は行密の請いを容れて董昌を赦し官爵を戻したが、彭城郡王錢鏐は従わなかった。
- 夏四月、行密の兵が鎮海の兵と黄天蕩で戦って破り、蘇州を包囲した。このころ錢鏐・鍾傳・杜洪はいずれも行密の圧迫を恐れて東平王朱全忠に救援を乞い、全忠は許州刺史の朱友恭に一万の兵を与えて渡淮させ、臨機の処置を許した。
- 癸未、蘇州常熟鎮使の陸郢らが城を挙げて帰属し、刺史の成及を捕らえた。行密は蘇州を取って成及を行軍司馬に任じた。成及が刀を取って自害しようとしたので、その手を握って止め、府の館舎に住まわせた。邸内には剣や甲・武器が多くあったが、行密はいつも単衣で訪れて共に食事をし、少しも疑わなかった。成及もしばしば行密の内室に出入りした。あるとき行密が起きて洗面するのに出くわしたが、右手で百余両もある沙鑼に水を満たして持ち上げ首を洗っていた。三百斤を持ち上げるという話も嘘ではないと思われた。
- 同月、朱延壽が蘄州を破り、大将の賈公鐸と刺史の馮敬章を降した。行密は敬章を左都押牙、公鐸を監門衛将軍とした。延壽は進んで光州を落とし、刺史の劉存を殺した。
- このとき行密は田頵に宣州、安仁義に潤州を守らせていたが、まもなく昇州刺史の馮弘鐸が帰属した。田頵らを分遣して攻略させ、淮水以南・長江以東の諸州はすべて下り、ここに淮南の地を完全に領有するに至った。
- 冬十一月戊子、湖州刺史の李師悅が没した。それ以前に師悅は唐に旌節を求め、唐は湖州に忠国軍を置いて師悅を節度使とし告身と旌節を賜っていたが、それが領内に届く前に師悅は死んだ。行密は師悅の子の彦徽に州事を管掌させるよう上表した。同月、安仁義に婺州を攻めさせた。
清口の大勝(897年)
- 乾寧四年(897年)春正月、両浙の将杜稜が婺州を救援したので、安仁義は兵を移して睦州を攻めたが落とせず帰った。
- 二月、兖州の朱瑾が亡命してきた。瑾はもと汴の人に攻められ河東に救援を求め、河東の将史儼・李承嗣が数千の精騎で助けたが、瑾は敗れて州民を引き連れて来投した。行密は高郵で迎え、瑾に武寧軍節度使を領させるよう上表した。行密の兵はみな江淮の人で軽装・弱兵で水戦は得意だが騎射に堪えなかったが、河東・兖鄆の兵を得て軍勢の評判が上がった。史儼・李承嗣はもと河東の驍将で、晉王李克用は深く惜しみ、間道から使者を送って返還を請うた。行密はこれを許し、自らも河東に使者を送って誼を修めた。
- 同月、唐は行密を江南諸道行営都統として武昌節度使の杜洪を討たせる詔を下した。
- 夏四月辛亥、両浙の将顧全武らが三千の兵で海路から嘉興を救い、己未に城下に至って行密の兵は大敗した。同月、杜洪は汴に援兵を乞い、汴将の聶金が泗州を掠め、朱友恭が黄州を攻めて行密軍を掣肘した。行密は右黒雲都指揮使の馬珣らを黄州救援に送ったが、黄州刺史の瞿章は友恭到来を聞いて城を捨て、衆を率いて南の武昌寨に拠った。
- 癸亥、顧全武らが行密の十八の陣営を破り、将士の魏約ら三千人を捕らえて去った。当時田頵は驛亭埭に駐屯していたが、両浙の兵が勝ちに乗じて追撃し、甲戌、頵は湖州から宣州へ逃げ帰った。追撃を受けて頵の軍は大敗し、千余人が死んだ。
- 五月辛巳、朱友恭が樊港に浮橋を架けて武昌寨を攻め、壬午に落として刺史の瞿章を捕らえ、黄州を陥れた。馬珣らは敗走した。
- 秋七月庚戌、両浙は顧全武を送って蘇州を取らせ、乙未に松江、戊戌に無錫、辛丑に常熟・華亭を落とした。同月、吉州刺史の周琲が鍾傳に攻められ、衆を率いて来投した。九月、湖州刺史の李彦徽が州ごと帰属しようとしたが部下が従わず、彦徽だけが亡命してきた。
- 同月、東平王朱全忠が大挙して侵攻した。龐師古に徐・宿・宋・滑の兵七万を与えて清口に布陣させ揚州へ向かわせ、葛從周に兖・鄆・曹・濮の兵を与えて安豐に布陣させ壽州へ向かわせ、全忠自身は宿州に駐屯した。淮南の領内は震え上がった。
- 冬十月、行密は朱瑾と三万の兵で楚州に汴軍を防ぎ、別将の張訓も漣水から合流して前鋒とされた。龐師古は清口に陣を置いたが、土地が低湿で長居できないという意見を、大軍を恃み敵を侮って聞き入れず、日ごろ囲碁を楽しんでいた。朱瑾が淮水の上流を堰き止めて水攻めにしようとしているのを知らせに走った者があったが、師古は衆を惑わすとして斬った。
- 十一月癸酉、朱瑾は裨将の侯纉と五千騎でひそかに淮水を渡り、汴の旗を掲げて北から敵の中軍に迫り、張訓が柵を越えて侵入した。士卒が慌てて防戦するところへ淮水が一気に押し寄せ、汴軍は大混乱に陥った。行密自ら大軍で淮水を渡り、瑾らと挟撃して汴軍を大破し、師古以下将士一万余級を斬り、残りは総崩れとなった。
- 当時、葛從周は壽州西北に布陣していたが、壽州団練使の朱延壽に破られて濠州に退き、師古敗死を聞いて逃げ帰った。行密は朱瑾・延壽とともに追撃して渒水で追いつき、從周が半ばまで渡ったところを合撃して、大半を斬り殺し溺れさせた。從周はかろうじて逃げ延び、遏後都指揮使の牛存節が馬を捨てて徒歩で戦ったので諸軍はどうにか渡淮できた。しかし四日間食糧がなく、大雪に遭って汴の兵は道々で餓死し、帰還できた者は千人に満たなかった。
- 東平王朱全忠も敗報を聞いて逃げ帰った。行密は書を送って「龐師古も葛從周もわたしの敵ではない。公が自ら淮上へ来て決戦されよ」と嘲った。
- 勝利のあと行密は酒宴を開いて諸将を集め、行軍副使の李承嗣を顧みて「はじめ私は壽州へ向かおうとしたが、副使が先に清口に向かうべしと言った。師古は敗れ從周は自ら逃げ、まさに副使の計算通りになった」と言い、銭一万緡を賜り、承嗣に鎮海軍節度使を領させるよう上表した。行密はこれ以後、江淮の間を確保し、汴の人はもはや争えなくなった。
両浙・徐州をめぐる攻防(898年〜901年)
- 乾寧五年(898年)春正月、両浙・江西・武昌・淄青がそれぞれ使者を朝廷に送り、東平王朱全忠を都統として行密を討たせるよう請うたが、唐帝は許さなかった。
- 三月、周本が蘇州を救おうとして顧全武に敗れた。秦裴は三千の兵で崑山を落として守備した。
- 秋七月、忠義節度使の趙匡凝は汴軍の清口敗戦を聞いてひそかに行密に通じた。朱全忠は宿州刺史の氏叔琮に討たせた。
- 八月甲子、唐は天下に大赦して光化と改元した。九月、顧全武が蘇州を攻め、城中も援軍も食糧が尽き、刺史の臺濛と李德誠らは城を捨てて逃げ、援軍も逃げ散った。全武は蘇州を陥れ、周本を望亭まで追って破った。ただ秦裴だけは崑山を固守して落ちなかった。全武が降伏を勧告しても聴かず、兵を増して城を攻め水攻めにし、城壁が崩れ食糧も尽きて、裴はようやく痩せ衰えた兵を率いて降った。そのとき兵は百人に満たなかったという。
- 冬十月己亥、汴将の朱友恭が黄州から帰る途中に安州を通り、刺史の武瑜が行密と通謀しているという報に接して攻め殺した。閏月、婺州刺史の王増が命に背いたとして浙軍に討たれた。十一月、衢州刺史の陳岌が降伏を請い、両浙の将顧全武が兵を率いて討った。
- 同月、東平王朱全忠は奉国節度使の崔洪が行密と通じているとして、将の張存敬に攻めさせた。洪は恐れて弟の崔賢を人質として汴に送り、将士が統制に服さないので二千人を麾下に送って従軍させたいと言い、許された。
- 十二月、成及を両浙に返して魏約らと交換し、彭城王錢鏐も承知した。
- 光化二年(899年)、行密は朱瑾と数万の兵で徐州を攻め、呂梁に布陣した。東平王朱全忠は騎将の張歸厚を救援に送った。同月、全忠は崔賢を蔡州に帰し、二千の兵を大梁に送らせた。二月、蔡州の将崔景思らが崔賢を殺し、崔洪を脅して兵民を全部連れて渡淮し行密に投じたが、途中で多くが逃げ帰り、広陵に着いた者は二千に満たなかった。
- 朱全忠が自ら徐州救援に向かうと聞いて行密は引き揚げたが、汴の兵が下邳で追いつき千余人を殺した。全忠は輝州で行密の退却を知って引き返した。
- 三月、婺州が両浙に包囲され、刺史の王壇が寧国節度使の田頵に救援を求めた。夏四月、頵は行営都指揮使の康儒らを送った。五月庚戌、儒らは龍邱で両浙の兵を破り、その将の王球を捕らえて婺州を取った。
- 秋七月、海州の戍将陳漢賔が降伏を請うた。淮海遊奕使の張訓は漢賓の真意が測れないとして、漣水防遏使の王綰とともに二千の兵で海州へ直行した。行密は臺濛を刺史、綰を副使とした。
- 九月、淄青節度使の王師範が沂州・密州の内応がうまくいかず行密に援兵を乞うた。冬十月、行密は海州刺史の臺濛と副使の王綰を送って助け、密州を落として師範に返した。さらに沂州へ進もうとしたとき、偵察を出したところ「城中はみな旗を伏せ太鼓を止めています」との報告があった。王綰は「これは必ず備えがあり、しかも救援が近いのだ。攻めてはならない」と言ったが、諸将は「密州が落ちたのだから沂州など何ほどのこともない」と言い、綰は止められなかった。そこで林中に兵を伏せて待った。案の定、諸将は沂州を攻めきれず、救援到着を聞いて退き、州の兵が追撃してきたので、綰が伏兵を放って敵軍を破った。
- 光化三年(900年)春正月、宣州の将康儒が睦州を攻め、彭城郡王錢鏐は従弟の錢銶に防がせた。秋八月、儒は食糧が尽きて清溪から逃げ帰った。冬十一月、唐の中尉劉季述が天子を少陽院に幽閉して太子裕を立てた。この年、唐は行密に兼侍中を加えた。
- 光化四年(901年)春正月朔、唐の劉季述らが誅され、天子が復位して太子裕は德王に降された。夏四月丁丑、大赦して天復と改元した。
- 秋八月、行密は歩軍都指揮使の李神福らに杭州を攻めさせ、両浙の将顧全武らが八つの砦を並べて防いだ。行密は彭城王錢鏐が盗賊に殺されたという流言を耳にしていた。
- 冬十月、神福は全武と対峙するなか、夜半に撤兵すると偽って杭州の捕虜を解放して帰らせ全武に知らせ、日暮れに先発して行営都尉の呂師造に青山の下に伏兵を置かせた。全武が追撃してくると神福と師造が挟撃して大破し、五十級を斬り全武を生け捕った。神福は進んで臨安を攻め、両浙の将秦昶が三千の兵で降った。
- 十二月、李神福は錢鏐が死んでいないと知り、臨安も急には落とせないと見て帰ろうとしたが、千秋嶺などの険路で浙兵に阻まれるのを恐れ、人をやって錢氏の祖先の墓を守らせ木こりを禁じ、また顧全武に家族との音信を許した。彭城王錢鏐はその心遣いに感じて使者を送って礼を述べた。まもなく神福は空の砦を多く設けて疑兵とし、浙の人は大軍が来たと思って和議を請うた。神福は犒いの贈り物を受けて帰還した。
呉王への進封と昇州の併合(902年)
- 天復二年(902年)春正月、天子は鳳翔にあった。三月、天子は金吾将軍の李儼を江淮宣諭使とし、御衣に詔を書いて行密に賜り、東面行営都統・中書令に任じ、爵を進めて呉王とし、朱全忠を討たせた。あわせて朱瑾に平盧軍節度使、馮弘鐸に武寧軍節度使、朱延壽に奉国軍節度使を領させ、淮南・宣歙および湖南等の諸道で功のあった将士は都統の牒によって承制で任用・昇進させ、後から上表すればよいとした。行密は牙城の南門を天興門と改めた。
- 夏四月、顧全武を杭州に返して秦裴と交換し、彭城王錢鏐は大いに喜んで裴を返した。
- このころ馮弘鐸は昇州が宣州と揚州の間にあって常に不安で、しかも楼船の強さを恃んで両道に服さなかった。寧国節度使の田頵はこれを除こうとして、弘鐸の船大工を集めて戦船を造らせた。工人が「馮公は堅い木材を選ぶので船が長持ちするのです。今はその材がありません」と言うと、頵は「かまわず造れ。一度使えればよい」と答えた。弘鐸の将の馮暉・顔建が先手を打って頵を撃つよう勧め、弘鐸は従い、軍を率いて南上して洪州の鍾傳を攻めると称しつつ実は宣州を襲おうとした。呉王が制止したが聴かなかった。
- 同月辛巳、田頵が水軍で曷山に迎え撃って大破し、行密方が昇州を取った。弘鐸は残兵を集めて海に出ようとしたが、呉王は後患を恐れて使者を送り軍を犒って招いたので、左右はみな慟哭して命に従った。弘鐸が東塘に至ると呉王は自ら小舟で迎え、弘鐸の船に乗り移って手厚く慰め、淮南節度副使に任じて館舎と俸給を格別に与えた。李神福を昇州刺史とした。
- 同月、呉王は汴討伐の兵を出し、副使の李承嗣に淮南軍府の事を代行させた。宿州を攻めたが落とせず、糧の輸送が続かず引き揚げた。それに先立ち軍吏は巨艦で糧を運ぼうとしたが、都知兵馬使の徐温は「輸送路は長く塞がり葦が茂っている。小舟の方が通りやすい」と言った。軍が宿州に至ると長雨で重い船は進まず、兵に飢えの色が出たが、小舟だけが先に着いた。呉王はこれで徐温を非凡と認め、軍府の議に加えるようになった。
- 秋八月、両浙で軍乱が起こった。九月、両浙の叛将徐綰らが宣州に援兵を乞い、田頵が兵を率いて赴いた。同月、顧全武が越王の子の錢傳璙を伴って婚姻を求め、「田頵が思い通りになれば必ず王の患いとなります。王が頵を召し返されるなら、錢王は子の傳璙を人質に出します」と言った。呉王は許し、娘を傳璙に嫁がせた。
- 冬十月、李儼が揚州に到着し、呉王は初めて制勅院を設け、封拝のたびに李儼に告げ、紫極宮の玄宗の像の前で制書を並べて再拝してから下すこととした。
- 十一月、田頵が杭州を急攻し、船を用意して西陵から渡江しようとしたが、越王錢鏐が将の盛造・朱郁に防がせて破った。十二月、呉王が頵に宣州へ戻るよう命じ、庚辰、頵は両浙に軍の犒い金と人質を要求したうえ、徐綰らを連れて帰った。
- この年、昇州で大風が起こり、家屋を吹き飛ばし大木を舞い上げた。
鄂州攻略と田頵・安仁義の反乱(903年)
- 天復三年(903年)春正月、呉王は承制して朱瑾に東面諸道行営副都統・同平章事を加え、昇州刺史の李神福を淮南行軍司馬・鄂岳行営招討使、舒州団練使の劉存を副使として、水軍一万で杜洪を討たせた。杜洪の将駱殷は永興を守っていたが城を捨てて逃げ、県民の方詔が城に拠って降った。神福は大いに喜び「永興は大きな県で兵糧の輸送を頼るところだ。もう鄂州の半分を得たも同然だ」と言った。
- 三月、神福は進んで鄂州を包囲し、洪は城に籠って汴に救援を求めた。
- 夏四月、平盧節度使の王師範が汴兵に攻められて援けを求め、乙未、呉王は王茂章に歩騎七千で救援させ、別に数万で宿州を攻めさせた。梁王朱全忠は康懷貞に宿州を救わせ、呉の兵は引き揚げた。
- 同月、汴将の韓勍が一万で灄口に駐屯して杜洪の後詰めとした。梁王全忠はさらに使者を走らせて荊南節度使の成汭、武安節度使の馬殷、武貞節度使の雷彦威に出兵して洪を救うよう伝えた。成汭は汴の強大さを恐れ、また江淮の地を侵して勢力を広げたいと考え、水軍十万を出して長江を東下した。汭は巨大な楼船を造って設備を整え「和州」と名づけ、そのほかにも「齊山」「截海」「劈浪」など多くの艦名があった。掌書記の李珽は「我が船は緊急時に動かせず、呉の兵は身軽で追い合いになれば厄介です。武陵(雷彦威)も長沙(馬殷)も我らの仇敵ですのに、背後の憂いを考えないでよいでしょうか。驍将を巴陵に駐屯させ、大軍は対岸で堅く守って戦わなければ、一月もせず呉の兵は糧が尽きて逃げ、鄂州の囲みは自ずと解けます」と諫めたが、汭は聴かなかった。公安まで来て占いが不吉と出たので引き返そうとしたが、親吏の楊師厚が「公が全軍を挙げながら途中で帰っては、百姓に何と申し開きなさるか」と言ったので進んだ。
- 五月、成汭がまだ鄂渚に着かないうちに、馬殷が許德勲に一万余の水軍を、雷彦威が歐陽思に三千余の水軍を率いさせて荊江口で合流し、江陵を襲って陥れ、大いに掠奪して去った。成汭の諸将は家族を失って戦意を無くした。李神福は沙橋に布陣して成汭の軍を望み「戦艦は盛んだが首尾が途切れていて御しやすい。今すぐ討つべきだ」と言い、壬子、裨将の秦裴・楊成に数千の兵を与えて君山で迎撃させて破り、船を焼いたので敵は総崩れとなり、成汭は入水して死んだ。戦艦二百艘を捕獲し、韓勍もこれを聞いて逃げ帰った。
- 同月、汴将の朱友寧が博昌を屠り、臨淄を落として青州城下に迫り、別将に登州・萊州を攻めさせた。王茂章は王師範の弟の萊州刺史王師晦とともに密州を攻め落とし、刺史の劉康乂を斬り、淮海都遊奕使の張訓を刺史とした。
- 六月乙亥、汴兵が登州を落とし、師範は登州・萊州の兵で石樓に友寧を防ぎ二つの柵を築いた。丙子の夜、友寧が登州の柵を攻めたが茂章は動じなかった。まもなく登州の柵が破られ、汴兵は萊州の柵へ進んだ。明け方近く、茂章は敵の兵力が消耗したと見て師範と合流して出撃し大破した。友寧が傍らの高地から馬を駆って逃げようとして落馬し、青州の将張士が斬って首を広陵に送った。茂章は両鎮の兵を合わせて米河まで追撃し、捕虜と斬首は万を数え、魏博の兵はほぼ全滅した。
- 秋七月壬子、梁王朱全忠が自ら二十万を率いて臨朐に至り、諸将に青州を攻めさせた。師範は出撃して敗れた。茂章はわざと塁を閉じて出ず、汴兵の気勢が緩んだところを見計らって柵を壊して激しく戦い、これを二度繰り返し、夕方になって汴兵は退いた。茂章は兵力の差を考えてその夜に撤退した。梁王全忠は曹州刺史の楊師厚に追わせて輔厚で追いつき、先鋒指揮使の李虔裕が五百騎で殿軍を務めたが、師厚に捕らえられて死んだ。
- 張訓は茂章の帰還を聞くと、密州城上に旗を立て並べ、府庫を封じて撤退した。まもなく汴の左踏白指揮使の王壇が密州を攻めたが、旗を見て伏兵を疑い進めず、数日たって入城すると府庫も城邑も無傷だったので、そのまま追撃しなかった。訓は全軍を保って帰還した。
- 同月、両浙の睦州刺史陳詢が叛いて蘭溪を攻めた。
- 八月、寧国節度使の田頵と潤州団練使の安仁義が同時に叛いた。仁義は東塘の戦艦をすべて焼いた。頵は二人の使者を商人に偽装させて壽州へ送り、奉国節度使の朱延壽と結ぼうとしたが、途中で尚公廼に怪しまれ、一人が殺されて頵の書状が押収され、呉王に報じられた。呉王は鄂州の李神福を召し返して頵を討たせた。
- 己丑、安仁義が常州を襲ったが刺史の李遇に備えがあったので引き揚げた。壬辰、王茂章を潤州行営招討使として仁義を攻めさせたが落とせなかった。呉王が徐温に兵を与えて合流させると、温は衣服と旗を茂章の兵と同じにしたので、仁義は気づかず兵を増して出撃し、温は奮戦して大破した。
- 奉国節度使の朱延壽はふだんから呉王を侮り恨みを抱き、ひそかに田頵と通じていた。同月、頵は前進士の杜荀鶴を壽州に送って延壽と結び、また大梁へも使者を送って梁王全忠に告げた。全忠は大喜びして宿州に兵を駐屯させ後援とした。
- 九月、呉王は延壽を広陵に召し、寝門で迎えると同時に捕らえて殺した。部兵が騒然としたが徐温が大義を諭したので皆従い、延壽の兄弟を斬り、朱夫人を廃した。
- 田頵は昇州を襲って李神福の妻子を得たが手厚く遇し、その妻子をだしに神福を誘う書状を送った。神福は使者を斬って進軍した。丁未、頵の将王壇・汪建を吉陽磯で破り、戊申にも皖口で戦って壇と建はかろうじて身一つで逃れ、徐綰を捕らえて両浙に送った。頵は壇・建の敗報を聞いて自ら水軍を率いて迎え撃った。神福は呉王に歩兵を出して頵の退路を断つよう請い、呉王は漣水制置使の臺濛に兵を与えて応じさせた。このとき王茂章は潤州攻めが長引いていたので、呉王は兵を移して頵攻めに合流させた。
- 頵は臺濛の到来を聞き、郭行悰と王壇・汪建の水軍を蕪湖に残して神福を防がせ、自らは歩騎を率いて濛と戦った。冬十月戊辰、濛は広德で頵と遭遇し、まず呉王の書状を頵の諸将に配った。頵の将が下馬して拝受したところで、その隙を突いて兵を放って攻め、頵の兵は敗れた。さらに黄池でも戦い、濛がわざと逃げて頵が追うと伏兵が起こり、頵は大敗して宣州に逃げ帰った。濛は兵を進めて包囲した。頵は急ぎ蕪湖の兵を呼び戻したが入城できず、行悰・壇・建および當塗・広德の諸戍はみな配下を率いて降った。呉王は再び茂章に潤州を攻めさせた。このとき呉王は両浙に援兵を乞い、越王錢鏐は方永珍を潤州に、従弟の錢鎰を宣州に駐屯させて援けた。
- 十一月乙亥、田頵が決死の兵数百を率いて出撃した。臺濛はわざと退いて弱く見せ、頵の兵が濠を越えて戦うと急に攻めかかった。頵は敗れて城橋まで退いたところで橋が崩れて落馬し、斬られた。その兵はなお戦っていたが、頵の首を示すと総崩れになった。濛は宣州を陥れ、呉王は濛を宣州観察使とした。
- はじめ呉王は田頵と同郷で若いころ親しく、兄弟の契りを結んでいた。頵の首が広陵に届くと呉王は見て涙を流し、頵の母の殷氏を赦し、自分と子らはみな子孫としての礼で仕えた。
- この年、宣州に雉のような大きな鳥が現れ、尾に散る星のような火光があって戟門に集まり、翌日大火が起きて官庁がすべて焼け、武器だけが残った。呉王は秦裴を昇州刺史とし、廬州に德勝軍を置いた。唐は各地の宦官をすべて死罪にせよと詔したが、呉王は清海監軍の程匡柔を匿い、他の囚人を斬って辻褄を合わせた。
晩年と薨去(904年〜905年)
- 天復四年(904年)春正月、梁王朱全忠が河中に駐屯して天子の遷都を上表した。壬戌、車駕は長安を発し、二月乙亥に陝に至った。三月丁巳、唐帝は密使に絹に書いた詔を託して呉および西川・河東などに危急を告げ、諸藩鎮を糾合して匡復を図るよう命じた。
- 呉王は李神福を鄂岳招討使として再び杜洪を討たせた。梁王全忠が使者を送って鄂岳を放棄し旧交を修めたいと請うと、呉王は「天子が長安に還られたら、そのとき承ろう」と答えた。
- 同月、呉王は娘を錢傳璙・顧全武とともに錢塘へ帰した。それ以前、呉王と錢氏は不仲で、呉では太い縄を銭差しにして「穿錢眼」と呼び、両浙では毎年大斧で柳を伐って「斫楊頭」と呼んでいた。ここに至って両家が婚姻を結び、両国境は次第に和らいだ。
- 夏閏四月乙巳、唐は天祐と改元して大赦した。
- 秋八月、李神福は鄂州を攻めていたが落とせぬうちに発病して広陵に帰り、呉王は舒州団練使の劉存を代わりの招討使とした。神福はまもなく没した。同月、宣州観察使の臺濛が没し、呉王は子で牙内諸軍使の楊渥を後任とした。
- 冬十月、光州が叛いて汴に降ったので呉王は兵を送って包囲した。光州と鄂州はともに梁王全忠に急を告げた。十一月戊辰、梁王全忠は五万の兵で潁水から淮を渡り霍丘に布陣し、兵を分けて鄂州を救った。呉の兵は光州の囲みを解いて広陵に戻り、兵を控えて戦わなかった。全忠は諸将に命じて淮南を大いに掠奪させ、呉軍を疲弊させようとした。
- 冬十二月、両浙の衢州刺史陳璋が羅城使の葉讓を殺して降伏を請うた。同月、呉王は黒雲指揮使の馬賨を長沙に帰した。
- 天祐二年(905年)春正月、梁王全忠が将を送って壽州に迫った。甲辰、彗星が北河に現れて文昌を貫き、長さ三丈余に及んだ。王茂章が地下道を掘って潤州に入り、ついに落とした。安仁義は士心を得ていて一年余り攻めても落ちなかったが、ここで城が陥り捕らえられ、子とともに広陵の市で斬られた。
- 両浙の兵が睦州の陳詢を包囲し、呉王は西南招討使の陶雅に救援させた。両浙の将錢鎰・顧全武・王球が防いだが陶雅に敗れ、鎰と球は捕らえられた。同月、梁王全忠が壽州を包囲したが、州の人が城を閉ざして出ないので、全忠は霍丘から引き揚げた。
- 二月、梁王全忠は将の曹延祚に兵を与え、杜洪とともに鄂州を守らせた。招討使の劉存は城に迫って坑道を掘っていた。杜洪の将駱殷が洪に「淮の兵は深く入り込んで永興に補給を頼っている。奇兵で奪えば、賊は戦わずして潰えます」と献策し、洪は精兵に汴の兵を合わせ、間道から永興の三十里手前まで進んで宿営した。劉存は裨将の方詔・苗璘に当たらせた。汴の脱走兵が苗璘の陣に来て敵の内情を語り「鄆州の軍は弱いから取れます。開道の軍には当たれません」と言った。璘は「強い方を殺せば弱い方は崩れる」と言って自ら開道軍を攻めて破り、汴の兵三百人を捕らえて城下で見せしめにしたので、洪の軍はみな気力を失った。存は弁士を送ってあらゆる言葉で説得したが、洪は汴の強さを恃んで降る気がなかった。援軍を急いで撃てば城は自ずと落ちると勧める者もいたが、存は「撃って賊が城に入れば城は固くなる。逃がしてやれば城は取れる」と言った。やがて汴軍が逃げ、庚子に城が陥り、洪と延祚および汴の兵千余人を捕らえて広陵に送った。呉王は洪を詰問して「お前は逆賊に与して主君を弑し、私と仇敵になった。我が軍が退けばまた賊の後ろ盾になった。今はどうするつもりだ」と言った。洪は「朱公に背くには忍びません」と答え、延祚らとともに市で並べて斬られた。呉王は劉存を鄂岳観察使とした。
- 夏四月、陶雅が衢州・睦州の兵を合わせて婺州を攻め、両浙の将錢鏢が救援に来た。五月乙丑、彗星が天を貫くほど長く現れ、軒轅・大角から天市垣にまで及んだ。
- 秋八月、梁王全忠は襄州の趙匡凝が呉と通じ西川と縁組したことを理由に、乙未、武寧節度使の楊師厚に討たせ、己亥には自ら大軍で続いた。同月、両浙の将方永珍が婺州を救援した。九月甲子、汴兵が襄州を攻め落とし、その夕に趙匡凝は一族を挙げて亡命してきた。
- 陶雅と陳璋が婺州を落として刺史の沈夏を捕らえて帰り、呉王は陶雅を江南都招討使・歙婺衢睦観察使、陳璋を衢婺副招討使とした。璋は暨陽を攻めたが両浙の将方習に敗れ、習は進んで婺州を攻めた。同月、濠州団練使の劉金が没し、その子の劉仁規に濠州を管掌させた。
- 呉王は病に伏し、使者を送って子の楊渥を宣州から召し、潤州団練使の王茂章を宣州観察使とした。冬十月辛卯、梁王全忠は襄州から二十万を率いて光州・壽州へ向かい、壬辰に棗陽に至って大雨に遭い、申州を経て光州に至った。刺史の柴再用が厳重に守りを固め、言葉を低くして詫びたので、全忠は城東に十日留まったが落とせなかった。庚子、楊渥が広陵に到着し、辛丑、呉王は承制して渥を淮南留後とした。戊申、梁王全忠は光州を発って壽州に至ったが、壽州の人は清野戦術で待ち構え、全忠は正陽に退いて駐屯した。十一月丙辰、梁王全忠は淮水を渡って北に帰り、柴再用がその後軍を襲って三千級を斬り、輜重を万を数えるほど獲た。
- 庚辰、呉王が薨じた。享年五十四(生年は852年前後にあたる)。諡は武忠、武義年間に孝武王と改諡され、廟号は太祖。乾貞元年(927年)に武皇帝と追尊され、陵を興陵という。
人物
- 太祖は騎射や武技はいずれも得意ではなかったが、寛大で細事にこだわらず智略があった。将士をよく統御し、苦楽をともにし、真心で人に接して疑うことがなかった。
- あるとき早朝に出かけたところ、従者が馬の尻がいを切って金具を盗んだ。太祖は知っていて咎めず、後日また同じように早く出かけた。人々はその度量に感服した。
- 蔡儔が廬州で叛いて太祖の祖父・父の墳墓をことごとく壊した。儔が敗れたとき、左右は儔の先祖の墓を暴いて報復するよう請うたが、太祖は「儔はそれを悪事としてやったのだ。私がどうして同じことをしよう」と嘆じた。
- 従者の張洪に剣を持たせて侍らせていたが、洪が抜いて斬りかかり、外れて洪は死んだ。その後も親しい陳紹貞に剣を持たせ、疑わなかった。
- 性質は倹約で贅沢をせず、淮南は六年間の戦乱で士民がほとんど流亡していたので、太祖は着任当初、将吏に与える絹は数尺、銭は数百を超えず、公式の宴以外では音楽を奏させなかった。ふだんは昔の継ぎはぎの衣を内に着て、本を忘れぬためだと言った。徭役と租税を軽くし、流民を招き戻したので、数年もたたぬうちにほぼ平時の状態を回復した。
- 太祖は盗賊から身を起こし、その配下もみな驍勇で荒々しかったが、当時の人々が喜んで彼のために働いたのは、こうした人柄によるものである。
史論
- 論に言う。唐末には強大な藩鎮が分立し、天下は乱れ切っていた。太祖は三十六人の英雄とともに草莽から起こり、孫儒を殲滅し、趙鍠を捕らえ、杜洪を破り、田頵を滅ぼし、汴の強大に罪を鳴らし、越の境まで兵を輝かせて、江淮の南北を次々に平定した。まさに非常の傑物、めったに世に出ない人物と言うべきである。五代史は太祖の人となりを寛仁で誠実、士心をよく得たと評しているが、最後に広陵に国を開いて四代の主に伝えたのも、それだけの理由があってのことである。