十国春秋十國春秋自序 古作史有二體曰編年曰紀傳而紀傳實創始於司馬 呉任臣による自序・凡例・四庫提要・目録

自序(康熙8年=1669年)

  • 史書の体裁には編年と紀伝の二つがあり、紀伝体は司馬遷が実質的な創始者である。史記から前漢書・後漢書を経て遼史・金史・元史に至るまで二十一部が内府に収蔵され、学官や都邑にも行き渡っていて、盛んというべき状況である。
  • しかし従来の史書は正統王朝についてはとりわけ詳しいが、地方に割拠した政権(偏霸)の人物や事跡は例外なく簡略で備わっていない。晉書は劉氏・石氏・慕容氏らをわずかに載記に列するだけで、北魏の崔鴻(字は彦鸞)が十六國春秋を撰してこれを補った。その書は今は欠落があって完本ではないものの、晉書に比べればいくらか詳しい。
  • 欧陽修の五代史(新五代史)は十国世家を巻末に置き、その叙事は簡潔で品格があるが、遺漏がかなり多い。立伝されているのは孫晟・劉仁贍ら数人にすぎない。
  • また十国の事実関係にも未検証の箇所がある。閩世家では閩主昶の弟である継恭を昶の子としており、楚世家では彭師暠が衡山王を奉じた事は載せるのに廖偃には触れず、吳越世家では銭鏐の代から常に民から重く取り立てて奢侈に充てたという類のことを言う。史書を読む者としては物足りない。
  • 任臣(著者)は浅学の身ながら十国の人物と事跡を明らかにしようと考え、典籍を網羅して一書に編み、十國春秋と名づけた。本紀二十、世家二十二、列伝千二百八十二人を収め、国ごとに分けて事柄を類別し、さらに紀元・世系・地理・藩鎮・百官の五表を作った。総計百十四巻である。
  • 時代が遠く人も埋もれ、書冊による考証は難しいが、諸国を見渡しておおよそ論ずれば次のようになる。南唐は文事に力を注いで江左に興り、吳越は恭順に努めて国祚が永く保たれ、楚は奢侈で家を失い、閩は淫虐で国を傾け、楊氏(吳)は脆弱なまま国を失い、高氏(荊南)は無頼でありながら生き残った。前蜀と後蜀は険阻な地形を恃んで備えを怠った点で跡を同じくし、南漢と北漢は先に滅びるか後まで残るかで勢いを異にする。これを知れば十国の君臣の得失、政治の盛衰、伝世の長短、国勢の順逆はおおむね見通せ、要領を得られる。
  • 李茂貞が岐に拠って父子二代続いたのだから諸国と比べれば荊南に匹敵する、として岐を入れるべきだという意見もある。それでも南平を採り岐を退けるのは、史書は先行の文に従うものであり、五代史の十国世家の旧例をそのまま踏襲したまでのことである。
  • 書名に「春秋」を用いたのは、墨子に「吾は百国の春秋を見る」とあるように、春秋が古い史書の呼び名だからである。以前にも楚漢春秋・魏氏春秋があり、今は崔彦鸞の書に倣って春秋と名づけた。孔子が魯の春秋を修めたことに擬えるつもりはなく、愚かな身で聖人の筆削になぞらえて僭越の罪を犯そうとは思わない。
  • 書き上がったので、編纂の大意をこのように記しておく。康熙八年己酉(1669年)孟夏、仁和の呉任臣撰。

凡例

  • 宋初の路振は九國志を編んだが南平を入れなかった。江陵一帯だけの勢力なので国とは認めなかったのである。のちに路振の孫の路綸が荊南志を作ってこれを続け、十國志と呼ばれることもある。神宗のとき劉恕がさらに十國紀年を著したが、これは五代史の例に倣ったものである。本書も十国の範囲は欧陽修の五代史で確定し、ただし南平の呼称は荊南に改めた。これは司馬温公(司馬光)の資治通鑑の呼び方に従ったものである。
  • 帝を本紀、王を世家とするのは古来の史家の体裁である。後世、天子でない者をいきなり本紀に列するのは誤りである。本書では帝と称した者は本紀とし、王は世家に下げた。ただし子孫が即位して祖先を追尊した場合、たとえば吳の太祖・烈祖・高祖、閩の太祖、南漢の烈宗のように、尊諡は後日のものに従いつつ、叙事の枠組みは世家のままとする。実態を記すためである。
  • 本編の本紀・世家では、その国自身については帝・王と称する。呼称は当事者に従うからである。他国については某主・某王と称する。内を重んじ外を略す立場による。ただし唐の昭帝・昭宣帝、宋の藝祖(太祖)・太宗だけは帝と称して区別する。これも春秋の尊王・大居正の趣旨に沿う。
  • 帝と后には「殂」、王と妃・夫人、太子・世子、諸王には「薨」を用いる。帝后に「崩」を用いないのは、資治通鑑が曹魏の諸君主を記す方法に倣ったものである。
  • 馬令の南唐書では、烈祖本紀は初めに名を書き、次に王と書き、次に帝と称し、元宗本紀の末年には国主と称し、後主本紀では国主と称している。後世の人が前代の史を述べる場合と、臣下として筆を執る場合とでは書き方が異なるのである。その趣旨を取って本紀・世家の書法とした。
  • 改元や称号の変更は古くから伝聞に食い違いがある。本書が記す年号はすべて碑文によって正した。吳越の天寶・寶大・寶正は墓碑や寶幢に散見し、北漢の天會という紀年は李惲の千佛樓銘によって裏づけた。金石の遺文はしばしば前史の誤りを正す材料になるので、本書では廟碑や塔の銘文を注に多く収録し、史書の欠落を補って考証が根拠のないものにならないようにした。
  • 崔鴻の十六國春秋、陸游の南唐書は毎年必ず年号を冠している。正朔を明示して混乱を防ぐためである。本書もこの方法に従い、記すべき事がない年でも「某年」と書く。そうすれば綱目が整い、筋道が乱れない。
  • 十国の本紀・世家の中で「我が師」「我が某官」とあるのは、いずれもその国自身について言ったものである。史記の田齊世家に「魯我を伐ちて陽關に入る」「晉我を伐ちて博陵に至る」とあり、趙世家に「秦我が榆次を抜く」とあり、南史の宋高祖伝には鞏縣の宗曜が自分の田で一茎九穂の嘉禾を得たので帝がこれを晉帝に献じたところ「我に帰す」とされ、帝が謙譲して取りやめた、とある。蘇轍の古史の楚世家にも「嬰齊鄭を伐ち、欒書鄭を救い、繞角に遇う、我が師還る」とある。古人の書法にもともとこの例があるのだから、後代の者が前代を「我」と称することへの疑念はこれで解ける。
  • 十国の列伝は、まず后妃、次に太子・世子、次に諸王・公主、次に諸臣を置き、方外(僧道など)で篇を終える。人は国によって分け、それぞれ経緯をなす。おおむね陳承祚(陳寿)の三国志、崔彦鸞の十六国春秋の配列とほぼ同じにした。
  • 劉道原(劉恕)は紀年を作った上、さらに十国の藩鎮・百官の諸志を作ろうとしたが、ついに完成させずに終わり、今日まで欠けたままである。そこで本書では巻末に五表を作った。諸国の年号や地理の不揃い、宗室の系統や官秩の大要は、これでおおよそ見通せるようになった。
  • 五代から今日まで六七百年、時代が遠く正史ももともと散逸が多い上に、欧陽修の五代史は十国の事跡がとりわけ簡略である。本書が採録した古今の書籍は優に数百種を超える。すなわち冊府元龜、太平御覽、資治通鑑、通鑑考異、文獻通考、續文獻通考、玉海、說郛、朝野雜記、津逮秘書、史纂左編、新唐書・旧唐書、唐會要、薛氏の旧五代史、欧陽修の五代史、王溥の五代會要、陶岳の五代史補、尹洙の五代春秋、五代史闕文、五代通史、梁編遺録、九國志、五國故事、十國紀年、宋史、東都事略、李燾の續資治通鑑長編、吳録、稽神録、江淮異人録、妖亂志、淝上英雄錄、范成大の吳郡考、馬令の南唐書、陸游の南唐書、陳彭年の江南别錄、龍衮の江南野史、鄭文寳の南唐近事、唐餘紀傳、江表志、釣磯立談、史外小錄、耿先生傳、南唐拾遺記、蜀檮杌、錦里耆舊傳、李昊の蜀書、蜀國春秋、全蜀藝文志、成都見聞錄、何光遠の鑑戒録、北夢瑣言、三楚新録、湖湘故事、楚紀、吳越備史、順存録、錢氏家乘、葆光録、吳越改元辨、兩朝貢奉録、家王故事、吳興藝文志、兩浙名賢録、武林舊事、楓牕小牘、閩王事蹟、何氏の閩書、林諝の閩中記、晉安逸志、閩海叢書、榕隂新簡、陳鳴鶴の閩中考、章仔鈞族譜、金鳳外傳、嶺南文獻、吳萊の南海古蹟記、江陵志餘、晉陽見聞録、遼史、郡縣釋名、欧陽忞の輿地廣記、樂史の太平寰宇記、祝穆の方輿勝覽、茅山志、洞霄宫志、兩廣名勝志、金陵志、一統志、廣輿記、湖廣通志、八閩通誌、梁克寛の三山志、廣東通志、浙江通志、杭州府志、西湖志餘、紹興府志、嚴州府志、淳安縣志、肇慶府志、海鹽圖經、中都志、武林梵志、名山記、合璧事類、海録碎事、七修類藁、職官分紀、鄭氏書目、國史經籍志、日渉編、天下碑記、王象之の碑目、五燈會元、高僧傳、列仙通鑑、劒俠傳、圖繪寶鑑、宣和畫譜、譚子化書、彭曉の參同契註、東國通鑑、馭交記、輟耕録、實賔録、容齋三錄、太平廣記、青箱雜記、二老堂雜志、玉壺清話、太平清話、廣博物志、清異録、洪遵の泉志、文苑英華、宋文鑑、宋文選、計敏夫の唐詩紀事、金荃集、花間集、詞品、花蕊夫人宫詞、徐散騎集、徐寅集、黄滔集、羅昭諫集、韋莊集、杜光庭集、貫休集、齊已集、方蛟峰集、曾子固集、王荆公集、宋潛溪集、升菴外集などである。これらを集成して一部の書としたので、根拠のない臆説や杜撰は敢えてしていない。
  • 十国の典故は散逸していて拾い集めるのが難しく、巻中にたまたま得た些細な事柄や短い語も捨て去るに忍びず、そのつど載せて見聞の資とした。李延壽の煩雑さを譏られたのと同じ非難は免れないと承知しているが、広く搜して片鱗をも惜しむのが心づもりである。後に同志があればこの意を汲んでほしい。吳任臣識す。

四庫全書 提要(乾隆46年=1781年十月 恭校上)

  • 十國春秋百十四巻。本朝(清)の呉任臣の撰。任臣は字を志伊といい、仁和の人。康熙己未(1679年)に博学鴻詞科の召試を受け、翰林院検討を授けられた。
  • 任臣は、欧陽修が五代史を作った際に十国を晉書の載記の例に倣って扱い、いつも簡略で詳しくないと考えた。そこで諸家の霸史・雑史から小説家の言に至るまで採録し、正史と突き合わせて本書を編んだ。
  • 構成は、吳十四巻、南唐二十巻、前蜀十三巻、後蜀十巻、南漢九巻、楚十巻、吳越十三巻、閩十巻、荊南四巻、北漢五巻、十国紀元表・世系表が各一巻、地理志二巻、藩鎮表一巻、百官表一巻である。
  • 諸伝の本文の下に自ら注を付し、別系統の史書のうち残すべきものを載せている。これは蕭大圜の淮海亂離志、楊衒之の洛陽伽藍記、宋孝王の關東風俗傳、王邵の齊紀の例に倣ったもので、劉知幾の史通・補注篇にいう、自ら史臣となって手ずから刪削するにあたり、煩を除けば惜しむ気持ちがあり、すべて載せれば本文の妨げになるので、それらの雑多な材料を子注に列する、というやり方である。
  • 旧説の虚偽については弁証した箇所が多い。田頵が孫儒を捕らえた年月は吳録に従って薛居正の旧五代史に従わず、呂師周が湖南へ逃れた年月は資治通鑑に従って九國志に従わず、南唐烈祖の家系は劉恕の十國紀年と欧陽修の五代史に従って江南野史・吳越備史に従わない。いずれも確かな見識に基づく。同種の例は非常に多く、五表の考訂はとりわけ精密で、博通というにふさわしい。
  • ただ、伝の立たない人物について名前だけを記して巻末に列挙している点は難がある。陳寿の蜀志が伝の無い者を附載した例に倣ったものだが、陳寿の場合は楊戯に季漢輔臣賛があったので楊戯伝の末尾に繋げたのであって、自分で名前を並べて空しく標目だけを残したわけではない。これは形が同じで趣旨が異なり、独断で先例を作った譏りを免れない。
  • 乾隆四十六年(1781年)十月に恭しく校上。総纂官は紀昀・陸錫熊・孫士毅、総校官は陸費墀。

目録(全百十四巻の構成)

  • 四庫全書 史部九・載記類に分類される。以下は各国ごとの巻立てである。
  • 吳(巻一〜十四) 巻一・吳一に太祖世家、巻二・吳二に烈祖世家と高祖世家、巻三・吳三に睿帝本紀を置く。巻四以下はすべて列伝で、巻四には太祖太妃史氏・夫人朱氏・太后王氏・睿帝讓皇后王氏ら后妃と、太祖の子の臨川王濛・新安王潯・德化王澈、高祖の子の南陽王玢、睿帝の子の太子璉・江夏王璘・宜春王璆・従子の建安王珙・宜陽王璪、太子妃李氏、睿帝の女の上饒公主を収める。巻五から巻十一までは袁襲・高朂・戴友規・李神福・張訓・陶雅・劉威・臺濛・李遇・李簡(巻五)、柴再用・秦裴・劉全(子の仁規を附す)・李友・李厚・劉存(陳知新を附す)・呂珂・賈令威・瞿章・賈公鐸・李濤・袁禎・丁袗・周隠(巻六)、劉信・呂師造・王綰・王茂章・米志誠・苗璘・周本・李德誠・王安・王輿(巻七)、馮弘鐸・朱瑾・李承嗣(子の禪を附す)・彭彦章・李儼・趙匡凝・鍾匡時・雷彦恭・譚全播(巻八)、王稔・骨言以下二十人(巻九)、尚公廼・嚴可求・駱知祥ら十七人(巻十)、杜荀鶴・殷文圭ら文人を中心とした十六人(巻十一)といった諸臣を配する。巻十二は糝潭漁者・張軍師・柳翁・黃冠道人・虔州少年・申漸高・朱延壽妻王氏・張訓妻某氏ら市井と女性、巻十三は田頵と安仁義・朱延壽・張顥・徐温(子の知訓・知詢・知誨・知諫を附す)ら叛臣・権臣、巻十四は僧祖肩・石頭大師・僧令遵・王居巖・吳法通・聶師道ら方外の人を収める。
  • 南唐(巻十五〜三十四) 巻十五に烈祖本紀、巻十六に元宗本紀、巻十七に後主本紀。巻十八は后妃列伝で烈祖順妃王氏・元敬皇后宋氏・夫人种氏・元宗光穆皇后鍾氏・吳國太夫人凌氏・後主昭惠國后周氏と繼國后周氏・保儀黄氏・宮人流珠・喬氏(秋水・窅娘)。巻十九は烈祖の子の楚定王景遷・晉文成王景遂・齊昭孝王景達・江昭順王景逷ら、元宗の子の文獻太子弘冀・慶王弘茂・南楚國公從善以下、後主の子の清源郡公仲㝢・岐懷獻王仲宣ら宗室と公主。巻二十以下は諸臣で、徐知證・徐知諤・徐遊・宋齊丘(巻二十)、周宗・李建勲・徐玠ら(巻二十一)、王崇文・何敬洙・柴克宏・邊鎬・劉彦貞ら武将(巻二十二)、嚴續・常夢錫ら(巻二十三)、李金全・盧文進・林仁肇・皇甫暉・朱元ら(巻二十四)、張易・蕭儼・江文蔚ら諫臣(巻二十五)、陳覺・李徵古・魏岑・馮延已・馮延魯・査文徽・鍾謨・李德明ら(巻二十六)、潘佑・孫晟・劉仁贍・張彦卿ら節義の士(巻二十七)、韓熙載・徐鉉・徐鍇ら文人(巻二十八)、魯崇範・毛炳・沈彬・史虚白・陳陶ら隠逸と吳媛・聶氏・龔氏二女ら(巻二十九)、郭廷謂・盧絳・張洎・鄭彦華ら降亡期の臣(巻三十)、孫魴・伍喬・吳淑・陳彭年ら文人と顧閎中・周文矩・董源・徐熙ら画家(巻三十一)、裴長史・吳廷紹・李廷珪・李家明ら技芸の徒(巻三十二)、僧休復以下の僧(巻三十三)、王栖霞・譚峭・耿先生ら道士(巻三十四)を収める。
  • 前蜀(巻三十五〜四十七) 巻三十五・三十六に高祖本紀上下、巻三十七に後主本紀。巻三十八は后妃(高祖順德皇后周氏・順聖皇太后徐氏・翊聖皇太妃徐氏ら)と宗室(衞王宗仁・庶人元膺ら)。巻三十九は王宗佶・王宗侃以下、王氏の養子・一族の武将四十余人。巻四十は馮涓・周庠・韋莊・晉暉ら、巻四十一は鄭頊・張格・許寂・毛文錫ら、巻四十二は王萬弘・劉知俊・張道古ら、巻四十三は張武・蕭懷武・蒲禹卿ら、巻四十四は盧延讓・王仁裕・李珣・牛嶠・牛希濟ら文人と滕昌祐・房從真ら画家、巻四十五は胡秀林・趙温珪・韓伸・李夫人ら、巻四十六は唐道襲・韓昭・徐延瓊・宋光嗣・王承休ら佞幸、巻四十七は僧貫休・杜光庭・爾朱先生ら方外を収める。
  • 後蜀(巻四十八〜五十七) 巻四十八に高祖本紀、巻四十九に後主本紀。巻五十は后妃(高祖皇后李氏・太后李氏・後主妃張氏・慧妃徐氏)と宗室(雅王仁贄・太子玄喆ら)と公主。巻五十一は趙季良・趙廷隱・李仁罕・張業ら建国の功臣、巻五十二は王處囘・母昭裔・李昊ら、巻五十三は欧陽彬・母守素・孫漢韶・侯益ら、巻五十四は幸寅遜・王環・高彦儔ら、巻五十五は趙崇韜・李廷珪・全師雄ら、巻五十六は韋縠・欧陽烱・顧夐・句中正ら文人と黃筌父子ら画家、巻五十七は周仲明・王昭遠・趙彦韜と僧曉微ら僧・彭曉ら道士を収める。
  • 南漢(巻五十八〜六十六) 巻五十八に烈宗世家と高祖本紀、巻五十九に殤帝本紀と中宗本紀、巻六十に後主本紀。巻六十一は后妃(武皇后韋氏・高祖皇后馬氏・盧瓊仙・波斯女ら)と高祖以下の諸子(雍王耀樞・越王洪昌ら二十余人)。巻六十二は趙光裔・楊洞潜・李殷衡ら、巻六十三は蘇章・梁克貞・梁嵩ら、巻六十四は陳偓・吳懷恩・簡文會・鍾允章ら、巻六十五は暨彦贇・邵廷琄・潘崇徹ら武将と陳志女・譚氏二女ら、巻六十六は林延遇・龔澄樞・許彦真・陳延壽・李托ら宦官と張遇賢・陳道庠、僧如敏・僧文偃ら方外を収める。
  • 楚(巻六十七〜七十六) 巻六十七に武穆王世家、巻六十八に衡陽王世家と文昭王世家、巻六十九に廢王世家と恭孝王世家(弟の希崇を附す)。巻七十は劉言・王逵・周行逢(子の保權を附す)ら後継勢力。巻七十一は后妃と宗室、巻七十二は張佶・姚彦章・許德勲・高郁ら、巻七十三は彭玕・徐仲雅・廖匡圖ら、巻七十四は李弘臯・彭師暠・廖偃ら、巻七十五は李令・孟賔于・翁宏ら、巻七十六は符彦通・張文表ら武人と僧居遁・僧虚中・伊用昌ら方外を収める。
  • 吳越(巻七十七〜八十九) 巻七十七・七十八に武肅王世家上下、巻七十九に文穆王世家、巻八十に忠獻王世家と忠遜王世家、巻八十一・八十二に忠懿王世家上下。巻八十三は趙國太玄太夫人水邱氏以下の后妃・夫人と武肅王の弟・子、文穆王・忠獻王・忠遜王・忠懿王の諸子。巻八十四は羅隱・顧全武・杜稜・杜建徽ら、巻八十五は高彦・黃晟ら三十人余、巻八十六は沈崧・皮光業・林鼎ら、巻八十七は元德昭・吳程・崔仁冀ら、巻八十八は吳仁璧・喻皓・徐綰・胡進思ら、巻八十九は僧文喜・僧德韶・僧延壽・僧賛寧ら多数の僧と錢朗・閭丘方遠ら道士を収める。
  • 閩(巻九十〜九十九) 巻九十に司空世家と太祖世家、巻九十一に嗣王世家・惠宗本紀・康宗本紀、巻九十二に景宗本紀と天德帝本紀。巻九十三は留從效と陳洪進(子の文顯・文顥・文顗・文頊のほか陳應功・陳齊鶻・陳仁璧・劉昌言・徐熙・徐昌嗣を附す)。巻九十四は后妃と宗室、巻九十五は韓偓・崔道融・黃滔・徐寅・翁承賛ら、巻九十六は黃諷・潘承祐・林仁翰ら、巻九十七は王仁繢・詹敦仁・江為ら文人と石氏二女・練嶲ら、巻九十八は陳峴・薛文傑・王延禀・朱文進・李仁達・卓巖明ら、巻九十九は僧義存・僧神晏ら僧と陳守元・譚紫霄ら道士、林願女を収める。
  • 荊南(巻百〜百三) 巻百に武信王世家、巻百一に文獻王世家・貞懿王世家・侍中保朂世家・侍中繼冲世家。巻百二は武信王夫人張氏と歴代の子弟、および王保義・司空薰・倪可福・鮑唐・梁震・孫光憲。巻百三は李載仁・王貞範・李景威・梁延嗣ら諸臣と僧齊已・荊南仙女ら方外を収める。
  • 北漢(巻百四〜百八) 巻百四に世祖本紀、巻百五に睿宗本紀・少主本紀・英武帝本紀。巻百六は睿宗后郭氏・郭姫・英武帝后段氏と世祖の子(鎬・錡・鍚・鍇・銑)、世祖の孫(彭城郡王繼文・繼欽・定王繼顒・劉繼業・劉繼忠)。巻百七は李驤・鄭珙・張元徽ら、巻百八は馬忠恕・李惲・郭無為・侯覇榮・李筠らを収める。
  • 五表(巻百九〜百十四) 巻百九に十國紀元表、巻百十に十國世系表、巻百十一・百十二に十國地理表上下、巻百十三に十國藩鎮表、巻百十四に十國百官表を置く。