貞觀政要災異と瑞祥(災祥第三十九)

貞観六年 祥瑞を賀す議論への反論

  • 貞観六年、太宗は侍臣に、群臣が祥瑞を美事として頻りに賀表を奉るが、自分の本心は天下太平・民が豊かであれば祥瑞がなくても堯舜に比すべきであり、逆に民が不足し夷狄が内侵するなら芝草や鳳凰が現れても桀紂と変わらないと述べた。石勒の時代、郡吏が連理木を燃やして白雉を煮て食べたことを例に、それでは明主とは言えないとした。
  • また隋文帝が祥瑞を深く愛し、王劭に『皇隋感瑞経』『皇隋霊感志』を撰ばせて各州に読ませ、歌謡や図讖・仏経の文字を曲げて誣飾したことを笑うべき事例として挙げた。
  • 太宗は、堯舜のように百姓に敬愛され、発する号令が皆に喜ばれることこそ大祥瑞であるとし、以後諸州からの祥瑞の奏上を用いないこととした。白鵲が寝殿の槐に巣を作った際も、瑞は賢を得ることにあるとして巣を野外に移させた。

  • (編者按)『春秋』は祥瑞を書かず災異のみを書く。太宗が祥瑞を祥瑞とせず堯舜の政化こそ大祥瑞とした言葉は、朱子の『通鑑綱目』でも貞観の代を通じて祥瑞の記載がほとんど見えないこと(貞観四年の大有年のみ)と符合し、この言葉は口先だけのものではなかった。

貞観八年 山崩・大蛇・大水と虞世南の対応

  • 貞観八年、隴右で山崩れが起き大蛇がしばしば現れ、山東・江淮では大水が続いた。太宗が問うと、虞世南は『春秋』の梁山崩れの故事(晋侯が徳を修めて事なきを得た例)や漢文帝元年の山崩れの故事を引き、山や大水そのものは深山大沢に龍蛇があるのと同様に必ずしも怪異ではないとしつつ、山東の長雨には冤獄がある恐れがあるので繋囚を調べるべきだと進言した。太宗はこれに従い、使者を遣わして被災者を賑恤し冤罪を解いた。
  • 同年、南方に彗星が現れ百余日で消えた。太宗が自らの不徳を憂うと、虞世南は斉景公が晏子に彗星の意味を問い、政治の弛みを戒められて徳を修めた故事を引き、朝政に欠けがなく百姓が安楽であれば災変があっても徳を損なうことはないと述べた。太宗は自らの若き功業(十八歳での挙兵、二十四歳での天下平定、二十九歳での即位)を振り返り、自らを誇る心があったのではと反省した。魏徴も、災変があっても徳を修めれば災いとならないと述べた。

  • (唐氏仲友曰)虞世南が山崩れ・大蛇・大水を冤獄の兆しとしたことは、天変への応答としてなお十分ではない。『詩経』に「維虺維蛇は女子の祥」とあり、唐の女禍(則天武后)の兆しがここに現れていたとも見られるが、世南はそこまで指摘できなかった。

  • (唐氏仲友曰)世南が彗星について驕矜を戒めたことは、太宗の弱点を最もよく突いたものである。

  • (編者按)劉向の五行伝のような災異への機械的な対応付けは牽強付会の面もあるが、妖は人によって起こり天は人君を通じて事を映すものであるから、恐懼修省してこれに応じるべきである。蛇の怪、彗星の怪はいずれも貞観八年という盛時に現れており、天が仁愛から早くに戒めを示していたと見ることもできる。

貞観十一年 洛水の氾濫と岑文本の上奏

  • 貞観十一年、大雨で穀水が溢れ洛陽の宮城に浸入し、宮寺十九か所を毀し七百余家を流失させた。太宗は自らの不徳を憂い、食事を粗食に改め、百官に極言得失を求めた。
  • 中書侍郎の岑文本は上封事し、乱を治めた業は難しいがそれを守り続けることも容易ではないとし、戸口の減少・田疇の荒廃など民の疲弊がなお癒えていないことを指摘した。舜の「愛すべきは君、畏るべきは民」の言葉や孔子の「君は舟、民は水」の言葉を引き、選挙を明らかにし賞罰を慎み、遊猟の娯を省き奢を去って倹に従うことなどを願った。太宗はこの言を深く納れた。

  • (編者按)舜が洪水を天の戒めとして畏れ自省し、湯王が六事をもって自らを責めたのと同様に、太宗のこの言葉も舜湯の遺意に近いものがある。ただ岑文本が「陰陽は恒理であり聖心にかかわるものではない」と述べたのは、天の戒めをやや軽んじる言い方であり、君臣が互いに戒め合う道としては物足りない。