貞觀政要終わりを慎む(慎終第四十)

貞観五年 安きにも危うきを忘れず

  • 貞観五年、太宗は侍臣に、周辺諸国が服し五穀豊穣で盗賊も起こらず内外が安定しているのは自分一人の力ではなく群臣の輔弼によるものだとした上で、安きにあっても危うきを忘れず、事の始めから終わりまで同じ心構えを保つことこそ貴いと述べた。魏徴は、古来より君主と臣下が共に優れることは稀であり、今陛下が聖明であるからこそ治まっているのであって、なお居安思危を怠らないよう願うと答えた。

  • (編者按)舜が臣下の働きを喜ぶ歌を作り、皐陶がこれに和して君明ければ臣良しと戒めの歌を返した故事のように、太宗が「治は自分一人の力ではない」と語り、魏徴が「陛下が聖明だからこそ治まる、なお居安思危を」と応じたやり取りは、まさに虞舜・皐陶の遺風であり、貞観の盛治が三代以下では稀に見るものとされる所以である。

貞観六年 漢高祖の故事に見る油断の戒め

  • 貞観六年、太宗は、漢高祖が創業の英主でありながら、晩年は寵姫の子を立てようとして嫡子恵帝の廃立を図り、蕭何を投獄し、韓信を濫りに誅し、黥布ら功臣を反逆に追い込んだことを挙げ、君臣父子の間でさえこのように道を誤ることがあるとし、自らは天下の安定に慢心せず、常に危亡を思って戒めていると述べた。

  • (編者按)太宗は漢高祖が嫡子を廃し功臣を濫りに誅したことを非難し、自らは功臣を保全して漢高祖に勝るとするが、皇太子承乾の悪を正せず、諸子の分を定める上で愛に引かれて自制できなかった点は、他人を知る明があっても自らを知る蔽いがあったと言うべきである。

貞観九年 撥乱の三勝と善始慎終

  • 貞観九年、太宗は公卿に、天下が服しているのは自分一人の力ではなく群臣の力によるとした上で、善始令終を心がけ子々孫々に功業を伝え、後世が周・漢の故事だけでなく貞観の治を称えるようにしたいと述べた。房玄齢は、これは陛下の謙譲の志であり、なお終わりまで初めのようにと願った。
  • 太宗はさらに、古の撥乱の主が皆四十歳を過ぎていたのに自分は十八歳で挙兵し二十四歳で天下を定め二十九歳で即位したことを「武」において古に勝るとし、戎旅の中で学問の暇がなかったが即位後は手から書を離さず風化の本・政理の源を知り子孝臣忠の風を成したことを「文」において古に勝るとし、戎狄が臣妾となったことを「懐遠」において古に勝るとして、この三つの功業に見合うだけ善始慎終せねばならないと語った。

  • (編者按)太宗が功業を誇り「隆周・炎漢だけでなく」と語った志は高いが、実際には文王の文・武王の武・文武の懐遠に照らせば、太宗の「文」「武」「懐遠」がそれらに勝るとは到底言えない。房玄齢はこの点で太宗の到達したところを讃えるのみで、至らぬところを勉めさせることができなかった。

貞観十二年 三五の代に及ばぬ理由

  • 貞観十二年、太宗は、前代の善事を力行しているのに治績が三皇五帝の代に及ばないのはなぜかと問うた。魏徴は、古来の帝王も即位当初は堯舜を目指すが安楽になると驕奢放逸に流れて終わりを全うできず、臣下も任用された当初は忠節を尽くそうとするが富貴を得ると保身に走ることを指摘し、君臣ともに常に懈怠せず終わりを保てば、天下は治まらないことを憂う必要はないと答えた。太宗はこれに同意した。

  • (編者按)魏徴の答えは人君の放逸・人臣の懐禄の弊を尽くしており、君臣双方への箴言といえる。ただ貞観の名臣の多くも、後年には格非の道(君の非を正す道)にあまり聞こえるところがなかったのではないか。

貞観十三年 魏徴、十漸不克終の疏を上る

  • 貞観十三年、魏徴は太宗が近年やや奢侈に流れ、儉約を終わりまで貫けなくなることを恐れ、上疏して諫めた。帝王は受命の初めは淳朴を尊び浮華を抑え、忠良を貴び邪佞を退け、奢靡を絶ち儉約を崇ぶが、安定すると多くはこれに反して俗を敗ると指摘し、「知ることは難しくないが行うことが難しく、行うことも終えることが最も難しい」との古語を引いた。
  • 貞観の初めと近年とを対比し、次の十の「漸く克く終えざる」点を挙げた。
  • 一、漢文帝・晋武帝の質朴に及ばず、遠国の珍奇・駿馬を求めるようになったこと。
  • 二、民の安逸を疑い、あえて労役を課そうとする発想が生じたこと。
  • 三、諫めを聞いても内心では自分の欲を優先するようになったこと。
  • 四、君子を敬して遠ざけ、小人を軽んじて近づけるようになったこと。
  • 五、遠国の珍奇・難得の貨を求めるようになり、上が奢れば下も敦朴でなくなること。
  • 六、人物の進退が一時の毀誉によって左右され、行いの積み重ねが顧みられなくなったこと。
  • 七、遊猟に耽り、朝早く出て夜遅く帰るようになったこと。
  • 八、使者や地方官への応対が疎かになり、君臣の情が通じにくくなったこと。
  • 九、驕り・欲・楽・志がそれぞれ長じ、功業の大きさに矜り前王を蔑む心が生じたこと。
  • 十、徭役が重なり関中の民が疲弊し、不慮の凶作があれば民心が動揺しかねないこと。
  • 最後に、禍福に門なく人の招くところであるとし、陛下が今の炎旱の災異を機に十条を採用し、九仞の功を一簣に虧くことのないよう願うと結んだ。太宗はこれを深く納れ、屏障に列し史官に録させた。

  • (唐氏仲友曰)人君の善し悪しの分かれ目は初めわずかな差だが、後には千里の隔たりとなる。貞観初年の太宗は三代の名君たり得たが、この「漸く克く終えざる」十条に至れば、乱に至った三代の暴君の萌芽と選ぶところがない。魏徴の憂憤と忠言があってこそ、太宗は貞観の隆盛を保ち得た。

  • (葉氏適曰)太宗は十漸の戒めを史官に録させ後世に君臣の義を知らしめようとしたが、魏徴が生前の諫諍の語を史官に録した際には太宗は喜ばなかった。史官の記録が魏徴にあれば天下は魏徴の諫めの巧みさのみを知るが、太宗自身にあれば太宗が諫めを聴く度量をも知ることになる。これは太宗が名を好んだ一端である。

  • (編者按)この上疏は貞観の中頃のもので、貞観初年の善さと近年の未熟さの落差が著しい。太宗一代のうちにこれほどの違いが生じたのは、初めの善は天資の優れによるもので、終わりの未熟は学力が続かなかったためであろう。周の成王も即位の初めは管叔・蔡叔の言に惑わされたが、周公の輔導によって終わりを全うした。太宗にはそのような輔導がなく、魏徴の格君の道もなお至らぬところがあった。

貞観十四年 守成の難しさ

  • 貞観十四年、太宗は、天下平定はできても守り方を誤れば功業も保ち難いとし、秦始皇が六国を平定しながら末年に守り切れなかった例を挙げて戒めとした。魏徴は「戦に勝つは易く、勝を守るは難し」と答え、陛下が安きにあっても危うきを忘れず深謀遠慮を続ければ、宗廟社稷は傾かないと述べた。

  • (范氏祖禹曰)『書経』に「君はその君たることを難しとし、臣はその臣たることを難しとする」とあり、孔子も「君たるは難し」と言った。難きを知ってこそ事を成せる。太宗が守成の難しさを知っていたからこそ、終わりを全うできたのである。

  • (編者按)魏徴は太宗に守天下の難しさを繰り返し告げ、居安思危の言を終始変えなかった。

貞観十六年 嗜欲喜怒を自制する

  • 貞観十六年、太宗は魏徴に、近古の帝王には位を十代伝えた者もあれば一代二代で終えた者、自ら得て自ら失った者もあると述べ、民を養うことや驕逸に流れることを常に懼れているとし、心構えを問うた。魏徴は、嗜欲喜怒の情は賢愚を問わず同じだが、賢者はこれを節し愚者は度を過ごすとし、陛下が常に自制して克く終えることを保てば万代の頼みとなると答えた。

  • (編者按)太宗が運祚の長短を問い、魏徴が自制・克終の美をもって答えたのは的を射た議論である。太宗は禍乱を除いて升平をもたらし、己を屈して諫めを納れ賢才を任用し儉約寛仁であった点で三代以下では稀な君主だが、君臣父子兄弟夫婦の間には慚づべき点があり、正身の道になお不足があった。晩年には碑を仆す過ち、君羨の誅、高麗・西域への出兵、離宮造営などがあり、克終の道にもなお不足があった。正身に不足があったゆえに克終できなかったとすれば、この書が初めに正身の本を説き終わりにその効を説いた意図もそこにあると見るべきである。