貞觀政要刑法(刑法第三十一)
貞観元年:死刑判定を慎み、大辟は高官の合議に付す
- 太宗は「死者は再び生き返らせられない。法を用いるには寛簡を旨とすべきだ。古人は『棺を売る者は年ごとの疫病を願う』というが、それは人に害があるのではなく棺が売れることを利とするからだ。今、法司が獄を覈理するのに必ず深刻を求め、それを己の考課に成そうとしている。どうすれば公平を得られるか」と問うた。諫議大夫の王珪は「公直良善の人を選び、判決の当を得た者には秩を増し金を賜えば、姦偽は自ら息みます」と答え、太宗はこれに従った。太宗はさらに「古は断獄に必ず三槐九棘の官(三公・九卿)に諮ったが、今も同様にせよ」として、以後、大辟の罪は中書門下四品以上および尚書九卿に議させることとした。これにより貞観四年までに天下の死刑判決はわずか二十九人となり、ほとんど刑措(刑罰を用いずに済む)に至った。
編者按(戈直)
- 舜が「五刑に明らかにして五教を弼(たす)けよ」「刑は刑無きを期す」と命じたこと、また「明克にして允(まこと)」との語を引き、帝王の治は教えを先とし刑はやむを得ず用いるものであり、審克(詳審)を尽くすべきことを説く。王珪の建言と太宗が宰相・尚書九卿に合議させた措置により刑措の盛に至ったことを、唐虞・成周の理想に通じるものとし、漢の文帝・景帝、唐の太宗はいずれも史臣に「幾んど刑措に至る」と称えられた仁君だと評す。
貞観二年:奴が主を告発することを禁ずる
- 太宗は「近頃、奴が主の謀反を告げることがあるが、これは甚だしい弊法だ。特に禁断すべきである。仮に謀反する者がいても、必ず独りで成すことはなく、必ず他人と謀るのだから、その他人が告げればよく、奴の告発に頼る必要はない。今後、奴が主を告げても受理せず、ことごとく斬に処せ」と詔した。
編者按(戈直)
- 臣が君に謀反するのは下が上に叛くことであり、奴が主を告げるのもまた下が上に叛くことである。上への叛きを憎みながら、叛く者にその志を遂げさせるのは、乱をもって乱に易えるに等しいとし、太宗のこの詔が天下に叛上の事をなくす効を持ったと評す。
貞観五年:張蘊古の誤殺と、その反省による五覆奏の制定
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大理丞の張蘊古は、風疾(持病)による妄言で罪に問われた相州の李好徳について「病による発言であり法により坐すべきでない」と奏し、太宗も寛宥を許した。ところが張蘊古が密かにその意向を李好徳に漏らし、彼と博戯までしたことを治書侍御史の権万紀が弾劾すると、太宗は激怒して東市で斬らせた。その後、太宗は悔い、房玄齢らに「法官が囚人と博戯し朕の言を漏らしたのは重罪だが、常律に照らせば極刑には至らない。朕が盛怒に任せて即座に処断させ、公らも一言も諫めず、司も覆奏しなかったのは道理に反する」と述べ、以後、死刑は必ず即決であっても五覆奏を経ることを定めた(五覆奏の始まり)。また「情状に憫れむべき点があれば門下省が録して奏聞せよ」とも命じた。なお、張蘊古は貞観二年、幽州総管府記室から中書省に転じた際、人君を戒める韻文「大宝箴」(人君は位に驕らず、奢侈・声色・遊猟を慎み、諫を容れ賢を敬い、始終を慎むべきことなどを説いたもの)を上呈しており、太宗はこれを嘉して帛三百段を賜り大理寺丞に任じていた。
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(唐仲友の評より)張蘊古は文章鯁直の士であり、太宗が一時の誤った判断で濫りに誅したことを惜しみ、「大宝箴」が太宗に「民は畏れても心服していない」ことを諷したのは帝の病に切中していたと評す。
- (朱黼の評より)権万紀が房玄齢を考選不公と誣告し、張蘊古を按事不実と劾したことなど、権万紀が姦謀をもって太宗の名臣を陥れた経緯を指摘し、『詩経』の「讒人罔極、交々四国を乱る」を引いて権万紀を批判する。
編者按(戈直)
- 太宗は徳を尚び刑を尚ばなかったからこそ封徳彝の法律論を退けることができ、義を尚び利を尚ばなかったからこそ権万紀の採銀の奏を斥けることができたとし、その天資は帝王の道に最も適うものだったとする。しかし、その言の非を知りながら封徳彝・権万紀のような人物を廃逐しなかったことを問題視し、両者がそれぞれ無忌・戴胄、好徳・張蘊古の件で深刻な誣告を行った点を同一の類型として並べ、太宗が「前では明らかで後では暗く、彼では得ても此では失う」結果になったと批判する。戴胄は免れ得たが張蘊古は極刑に処されたことを惜しみ、蘊古自身が箴で説いた「衆に棄てられて後に刑を加える」との言に照らして、その死を哀れむ。
貞観五年:三日中五覆奏の制と、法に合致しても情状酌量を認める詔
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太宗は「在京の諸司は死囚の判決を五覆奏としているが、一日のうちに五度奏上しても審思の暇がなく、後悔しても及ばない」として、以後、在京の諸司は三日のうちに五覆奏、天下の諸州は三覆奏とするよう詔した。また「有司は律文に依って断獄するあまり、情状に憫れむべき点があっても法を曲げられずにいる。今後、門下省が法に照らして合死であっても情において酌量すべき点があれば、その状を録して奏聞せよ」とも詔した。
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(范祖禹の評より)『易』中孚の象「君子以て獄を議し死を緩くす」との語を引き、獄を議し死を緩くするのは至誠から出るものであり、古の大司寇・三公・王が獄の成るごとに三たび宥した慎重な手続きにも通じるとし、太宗の恤刑が至誠にして古に近く、刑措にほとんど至ったのも当然だと評す。
編者按(戈直)
- 『易』の五つの獄訟に関わる象辞のうち「議獄緩死」が中孚の卦に見えることを、君子が事物に対しその誠を尽くす様の最たるものとし、獄は已むを得ず設けるもの、死は取り返しがつかないものであるとして、『書』の呂刑「獄成って孚(まこと)あれば」との語も引き、太宗の恤刑の詔が誠実の心から出たものであり、周官の五聴三訊の遺意にも近いと評す。
貞観九年:高甄生の誣告事件と、旧功臣への例外を認めない姿勢
- 塩沢道行軍総管の高甄生は、李靖の節度に違反した上、李靖の謀反を誣告した罪で死刑を減じ辺境へ流された。ある者が「甄生は秦王府以来の旧功臣なので過ちを寛恕されたい」と上言したが、太宗は「藩邸以来の功労は忘れがたいが、国を治め法を守るには一律であるべきだ。もし赦せば僥倖の道を開くことになる。国家建義以来の元従・征戦の功臣は多く、甄生が免れれば功臣たちが皆こぞって法を犯すことを覬覦するだろう。だからこそ赦さないのだ」と答えた。
編者按(戈直)
- 諸葛亮が蜀を治めるにあたり、忠を尽くし利益を図る者は讐であっても必ず賞し、法を犯し怠慢な者は親しくても必ず罰した故事を引き、太宗が王珪・魏徴を用い薛万徹を将としたのは「讐でも必ず賞す」に、旧臣の高甄生を躊躇なく退けたのは「親でも必ず罰す」に通じるとし、太宗の公道が諸葛亮の治に近いものと評す。
貞観十一年:魏徴、刑賞の一貫性と隋の滅亡を鑑とすることを説く
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特進の魏徴は上疏し、『書』『礼』などを引きながら「刑賞の本は善を勧め悪を懲らすことにあり、貴賎親疎によって軽重を変えるべきではないのに、近頃は好悪や喜怒によって刑賞が左右され、法の内外で恣意的に増減されている。刻薄の風が広がれば人は時流に諂うようになり、憲章は乱れる」と論じ、楚の州犂が獄を上下にした故事、漢の張湯が上意を伺って刑を軽重にした故事を挙げて誡めとした。そのうえで「隋の滅亡は今日の鑑である。隋の府蔵・甲兵・戸口は今と比べて劣らなかったのに、富強でありながら喪敗したのは動いたためであり、我らが貧窮でありながら安寧なのは静であるためだ。安きに居て危うきを思わず、治にありて乱を念わず、存にありて亡を慮らないことが災いの元だ」として、隋を殷鑒とし、嗜欲を節し遊畋を省き靡麗の作を罷め、偏聴の怒りを慎み忠厚を近づけ便佞を遠ざけるべきことを説いた。この疏に対し、太宗は深く嘉して用いたという(併せて、洛陽行幸の折に譴責が多かったことを魏徴が「隋は供養が足らぬだけで亡んだのに、陛下がそれに倣うのは何故か」と諫めた逸話も伝わる)。
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(唐仲友の評より)魏徴の言う「刑賞の本は勧善懲悪にあり」との説を、『書』の「作好・作悪なきも、辟のみ福を作し威を作す」との両説と重ね、道理としての公平(作好悪なし)と権としての賞罰(作威福)とは矛盾せず、太宗の刑賞も一人の私的な喜怒によるものではないと擁護する。
編者按(戈直)
- 漢代の賢良の策「上古は爵賞を貴ばずして民は善に勧み、刑罰を重んぜずして民は犯さなかったのは、上が正しく民に信あればこそ」との言、孔子の「其の身正しければ令せずして行われる」との語を引き、太宗の世にも刑賞の失があったとする魏徴の言を踏まえ、太宗が正身・信民の道を尽くせていたか疑問を呈しつつ、魏徴が繰り返し隋を戒めに引いたのは、賈山が漢代に秦を借りて誡めた故事に通じる憂国の情によるものだと評す。
貞観十四年:十悪の罪を犯した者があっても刺史を連座させない
- 戴州刺史の賈崇は、管内に十悪の罪を犯した者が出たことを自ら弾劾した。太宗は「陶唐(堯)や柳下恵のような聖賢の子弟にすら丹朱・盗跖のような不肖の者がいた。父子兄弟の親でさえ善に導けないのに、刺史の教化だけで管内すべてを善道に帰させることなどできようか。もしこれで刺史を貶降すれば、かえって互いに隠蔽しあい、罪人を取り逃すことになる。今後、諸州で十悪を犯す者があっても刺史を連座させず、ただ糾訪を厳しくして罪を明らかにせよ」と述べた。
編者按(戈直)
- 孔子の「これを道びくに政をもってし、これを斉うるに刑をもってすれば民は免れて恥なし。これを道びくに徳をもってし、これを斉うるに礼をもってすれば恥ありて格る」との語を引き、徳礼を先とせぬ政刑は民に恥を知らせられないとしつつ、十悪の罪にまで及んでは徳礼のみでは律しきれないとし、太宗が刺史を連座させず糾察を命じたことを、徳礼と政刑それぞれの本末・先後をわきまえた措置と評す。
貞観十六年:獄吏が私利のために厳刑を求める弊を戒める
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太宗は大理卿の孫伏伽に「甲を作る者は堅固を欲し、箭を作る者は鋭利を欲するのは、それぞれの職掌ゆえだ。朕は常々法官に刑罰の軽重を尋ねるが、みな『法網は往代より寛い』と答える。しかし獄を掌る司が刑殺を利として名を売り、危険な事案を自ら手掛けて評判を上げようとする風潮が心配だ。寛平を務めるよう厳に禁ぜよ」と述べた。
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(唐仲友の評より)太宗が獄訟に留意し天下の刑がほとんど措かれるまでになったことを、封徳彝の伯道の説を退け魏徴の仁義の言に従った成果と評し、道徳・斉礼の面では三代に及ばぬものの欽恤の意はここに現れているとする。
編者按(戈直)
- 漢の景帝の詔「獄を理める者はまず寛を先とせよ」「死者は生き返らせられないのに、吏が法を枉げ苛察をもって明とすることがある」との言を引き、太宗が獄を掌る司の私利による厳刑を戒め寛平を務めさせたことを、景帝の詔と同じ仁心によるものと評し、寛平こそが明刑の要であると結ぶ。