貞觀政要農事に努める(務農第三十)

貞観二年:国は民を本とし、農時を失わぬことこそ肝要

  • 太宗は「凡そ事は務めて本を大切にすべきである。国は民を本とし、民は衣食を本とし、衣食を営むには時を失わぬことを本とする。時を失わぬためには、人君が簡静であることが要る。もし兵戈がしばしば動き土木の役が絶えなければ、農時を奪わずに済むはずがない」と述べた。王珪は「昔、秦の始皇・漢の武帝は外に兵戈を窮め、内に宮室を崇侈し、民力が尽きて禍難が興った。彼らも安民を望まなかったわけではなく、安民の道を失ったのだ。亡隋の轍も遠くない。陛下は既にこれを承知だが、初めは易く終わりを全うするのは実に難しい。願わくは終わりを始めのように慎まれたい」と諫めた。太宗は「公の言は正しい。人を安んじ国を寧んずるのはひとえに君にある。君に無為なれば人は楽しみ、君に多欲なれば人は苦しむ。朕が情を抑え欲を損ない己に克って励むのはそのためだ」と答えた。

編者按(戈直)

  • 舜・禹・湯・文王らの古の聖王がいずれも簡静寡欲を本としたこと、逆に亡国の君はみな淫侈多欲であったことを挙げ、太宗のこの言を「本を知る者」と評す。ただし、言うは易く行うは難しいとも指摘する。太宗は隋の宮室崇侈を鑑としながらも自らも飛仙・翠微などの造営を行い、隋の窮兵黷武を鑑としながらも高麗・西域への征討を行った。魏徴の「善く始める者は多いが、克く終える者は少ない」、王珪の「初めは易く終わりを全うするのは実に難しい」との言があってこそ、太宗が始終を踏み守れたのだと結ぶ。

貞観二年:蝗害に際し、太宗が蝗を呑んで民に代わることを願う

  • 京師で旱・蝗害が大きく起こり、太宗が苑に入って稲を見、蝗数枚を捕らえて呪って言った。「人は穀を命とするのに、お前たちはそれを食う。これは百姓を害することだ。百姓に過ちがあれば、その責めは私一人にある。お前に霊があるなら、私の心を蝕むだけにして百姓を害するな」。呑み込もうとすると、左右の者が「病になるかもしれません、なりません」と諫めたが、太宗は「災いが我が身に移ることこそ望むところだ。何の病を避けようか」と言って呑んだ。以来、蝗害は起こらなくなった。

  • (林之奇の評より)天災はただ至誠によって感格しうるものであり、人力で打ち勝てるものではない。太宗が蝗を掇って呑み、民が災いを受けるのを忍びないとした結果、その害は自然に息んだ。後世、明皇(玄宗)が使者を遣わして蝗を捕らえさせたのは人力で天に勝とうとしたものだが、その災いはかえって甚だしくなった。天人の関係はここに甚だ明らかである。

編者按(戈直)

  • 昔、成湯が桑林に旱を祷り、六事をもって自ら責め、身を犠牲に代えたという故事を引く。千金の子でさえ我が身を惜しむものだが、人君は九五の尊位にある身を、万民の身と同じものと知ってこそ、赤子の痛み苦しみを我が身のことのように感じられる。太宗が蝗の民を害することを念じ、これを取って呑み「寧ろ我が肺腸を食え」と言ったのは、成湯が身を犠牲に代えたのと同じく、我が身を私しない心である。天心を感格させたのも当然であるとし、漢の王嘉の「天に応ずるには実をもってし、文をもってせず」との語で結ぶ。

貞観五年:太子冠礼の期日を、農繁期を避けて改める

  • 有司が「皇太子の冠礼は二月を吉とすべきで、追って兵を備え儀注を整えたい」と上奏した。太宗は「今は東作(春の農事)が盛んに始まる時期であり、農事を妨げる恐れがある」として十月に改めさせた。太子少保の蕭瑀が「陰陽家の説では二月が勝る」と奏したが、太宗は「陰陽の拘忌は朕の行わぬところだ。もし動静をことごとく陰陽に依り理義を顧みずして福祐を求めても、得られるはずがない。行いがみな正道に従えば自然と吉に適う。吉凶は人にあるのであって、陰陽の拘忌によるものではない。農時は甚だ大事で、しばらくも失ってはならない」と答えた。

編者按(戈直)

  • 孔子の「民を使うに時をもってす」との語を引き、農閑の時でなければ民を使ってはならないとする。宮廷内での儲君(皇太子)の首服の礼は本来民を使い時を奪うほどのことではないが、それでも兵を追い儀を備えることが農を妨げるとして中止させた。太宗の心が一念として民にあり、少しも弛まなかったことを示すもので、この心を天下に及ぼせば天下に本を務めぬ者はいなくなるはずだと評す。

貞観十六年:粟価の低廉を喜び、民を富ませ礼譲を敦くする志を語る

  • 太宗は天下の粟価(斗当たり概ね五銭、最も安い所は三銭)を踏まえ、侍臣に語った。「国は民を本とし、民は食を命とする。もし禾黍が実らなければ、兆民は国家の有ではなくなる。既に豊作を得ているのはこの通りだ。朕は億兆の人の父母として、ひとえに躬ら倹約を務め、決して奢侈を為さぬようにしたい。朕は常に天下の人をみな富貴にしたいと思う。徭役・賦税を省き農時を奪わなければ、比屋の人々は思うままに耕作でき、これが富である。礼譲を敦く行い、郷閭の間で年少者が年長者を敬い、妻が夫を敬うようになれば、これが貴である。ただ天下がみなそうなれば、朕は管弦を聴かず畋猎に従わずとも、楽しみはその中にある」。

編者按(戈直)

  • 『論語』の「既に庶(おお)ければまた何を加えんか、曰く富ませよ」「既に富めばまた何を加えんか、曰く教えよ」との説き、また孟子が梁の恵王に説いた仁政(刑罰を省き税斂を薄くし、耕耨に励ませ、暇日には孝悌忠信を修めさせる)の説とを引き、太宗のこの言が孔孟の意に一致すると評す。ただし、貞観の世は庶にして富んだと言えるものの、教化の面では名儒を召し生員を増やしたにもかかわらず、朱子はなお「教える所以を知らなかった」と評したことを紹介し、三代の教えは天子・公卿が自ら上に行い、言行・政事のすべてが手本となるものだったが、太宗が果たしてそこまで至れたかは疑問だとする。孟子の「仁言は仁声の人に深く入るに如かず、善政は善教の民を得るに如かず」との語を引き、太宗がこれを知って力行していれば、その楽しみは一層のものであったろうと結ぶ。