貞觀政要讒言・邪説を防ぐ(杜讒邪第二十三)

貞観初:讒邪を防ぐ心構え

  • 太宗は「讒佞の徒は国の蟊賊(害虫)だ。北斉の斛律明月が周に讒言で誅殺され周が斉を滅ぼす端緒となった例、隋の高熲が独孤后の讒言で退けられ隋の政が乱れた例、隋の楊素が太子勇を讒言で廃させ煬帝の逆乱を招いた例を思うと、乱世には讒言が勝る。朕は微を防ぎ漸を杜つもりだが、心力の及ばぬ所を懼れる」と語り、魏徴は「戒慎不睹、恐懼不聞」(中庸)、「讒言を信ずるなかれ」(詩経)、「利口の邦家を覆すを悪む」(孔子)を引いて深く慎むよう勧めた。

編者按(戈直)

  • 太宗が讒邪を防ぐ意識を持ちながらも、後に魏徴への阿党の讒言(温彦博に調べさせた一件)や、魏徴没後の杜正倫の黜任を機に再び疑いを抱き、婚約破棄・墓碑仆すの措置に至った経緯を挙げ、知人の難しさを改めて指摘する。

貞観七年:趙元楷の媚びへつらいを戒める

  • 蒲州刺史趙元楷が父老に黄紗の単衣を着させて出迎えさせ、官舎を華美に飾り、羊・魚を集めて貴戚に贈ろうとしたことに、太宗は「巡幸には官物で十分だ、飼育・装飾で媚びるのは亡隋の悪習だ」と厳しく戒めた。趙元楷は恥じ入り数日食を断って没した。

編者按(戈直)

  • 元楷が隋代から邪佞な人物であったことを指摘し、太宗が戒めたのは正しいが、官を退け罪を明らかにして天下に示せばさらに良かったのではないかと評す。

貞観十年:近習の影響を戒める

  • 太宗は「太子の師傅選びは難しい。周の成王は召公・周公を得て聖主となったが、秦の胡亥は趙高に刑法を教えられ暴政の末に滅んだ。朕も若い頃の交友は柴紹・竇誕ら三益の友(直・諒・多聞)とは言い難かったが、それでも桀紂ほどの暴には至っていない」と語ると、魏徴は「中人は善にも悪にも染まりうるが、上智の人は自ずと染まらない。陛下は天命を受けた明君だ。ただ『鄭声を放ち佞人を遠ざける』(論語)は近習において特に慎むべきだ」と答えた。

編者按(戈直)

  • 堯が共驩と同処しても染まらず、周公が管蔡と同処しても染まらなかった例を挙げつつ、太宗が若年の交友に恵まれなかったことが、後年に封徳彜・宇文士及のような佞臣が周囲に紛れ込む一因になったのではないかと評す。

讒言による離間を退ける

  • 監察御史陳師合が「一人で複数の職を兼ねるべきでない」との論を上げたことに、房玄齢・杜如晦がこれを自分たちへの誹謗と受け止め、太宗は「至公をもって天下を治める朕が房玄齢・杜如晦を用いるのは勲旧だからではなく才行があるからだ。蜀の後主・斉の文宣帝が治まったのは諸葛亮・楊遵彦を疑わなかったからだ」と述べ、陳師合を嶺外に流した。

  • (孫甫の評より)太宗の専任の判断力を評価しつつ、房杜ほどの賢と太宗ほどの明があってこその専任であり、一般化すべき法ではないと注記する。

讒言・告訐を罪とする

  • 太宗は房玄齢・杜如晦に「直言の路を開いてきたが、上封事の多くが他人の小悪を告発するだけで採るべきものがない。今後は他人の小悪を訐(あば)く上書は讒人の罪として罰する」と述べた。魏徴が謀反を讒言された際も、太宗は「魏徴は昔の讐だが忠を尽くしたので用いた」として取り合わず、讒言者を斬らせた。

  • (范祖禹の評より)直言を求めつつ告訐を憎み罪する太宗の姿勢を至明と評す。

編者按(戈直)

  • 上封事の告訐者・魏徴への讒言者を罰した二件は明であったが、陳師合の「一人数職の弊」という至当な論まで讒言と決めつけて流したことは冤罪に近く、三件を通観すれば太宗は「二つを得て一つを失った」と総括する。

貞観十六年:史官への言葉と自負の兆し

  • 太宗が起居を記録する褚遂良に「近ごろの朕の行いの善悪をどう記しているか」と問うと、遂良は「君の一挙一動は必ず記す、善は必ず記し悪も隠さない」と答えた。太宗は「朕は三つのこと(前代の成敗を鑑とする、善人を進める、讒言を斥ける)を努め、悪を記されぬようにしたい」と述べた。

  • (唐仲友の評より)太宗のこの言葉には「悪を記されたくない」という護過の気配があり、後の遼東遠征の窮兵や宇文士及の佞への対応にその矛盾が表れたと指摘する。

編者按(戈直)

  • 善悪を直書するのが史官の職分であり、君主自身は行いを正すことに専念すべきであって、起居注の記述を意識して善を誇るような言葉は、たとえ君道として正しい内容であっても、やや矜りの気配を帯びていると評す。