貞觀政要公平(公平第十六)

即位当初:秦王府旧臣の不満に応える

  • 房玄齢が「秦王府の旧臣で官を得ていない者が、隠太子・斉王府の旧臣が先に処遇されたことに不満を持っている」と奏すると、太宗は「至公とは平恕にして私なきことだ。堯舜も不肖の子丹朱・商均を廃し、周公も謀反した弟管叔・蔡叔を誅した。諸葛亮ほどの小国の相でさえ『我が心は秤の如く人のために軽重をつけられない』と言った、まして大国を治める朕においてをやだ。人を用いるにはただ堪えうるかだけを問い、新旧で差別すべきではない」と答えた。

貞観元年:秦府旧兵の優遇を退ける

  • 秦王府の旧兵を優先して武職・宿衛に取り立てるべきとの上封事に対し、太宗は「朕は天下を家とし一物にも私しない。才行のみを任とし新旧の差はない。兵は火のようなもので抑えねば自らを焼く」と退けた。

編者按(戈直)

  • 太宗が即位当初から「至公無私」を掲げ、秦府の旧臣・旧兵をも特別扱いしなかったことを、天は民の視聴をもって視聴するという『尚書』の理に適うと評す。

貞観元年:長孫無忌の帯刀事件と戴冑の執法

  • 長孫無忌が誤って佩刀を帯びたまま宮門に入った件で、封徳彜は「見逃した監門校尉は死罪、無忌は徒二年・罰銅二十斤」と裁定したが、大理少卿戴冑は「校尉と無忌はともに過失であり、罪の軽重に差をつけるのは不当だ」と反駁した。太宗は「法は朕一人の法ではなく天下の法だ、無忌が親戚だからと法を曲げてはならない」とし、戴冑の再度の抗論を容れて校尉の死罪を免じた。
  • 別件では、詐偽で階資を得た者を自首すれば赦す詔を出しながら、自首しなかった者が発覚した際、戴冑が法に従い流罪と裁定したところ、太宗は「不信を天下に示すことになる」と怒ったが、戴冑は「法は国家が天下に大信を布くもの、陛下の言葉は一時の喜怒に発したにすぎない。小忿を忍んで大信を存すべきだ」と諫め、太宗はこれを容れ「朕の法の誤りを卿が正してくれるなら何も憂うことはない」と述べた。

  • (張九成・唐仲友の評より)戴冑の執法の公平さを称え、太宗が法を曲げず改めた点を評価する。

編者按(戈直)

  • 封徳彜が隋の佞臣であったことに触れ、戴冑の執法の公平と太宗の速やかな改めがなければ、無実の校尉が死罪となっていたと惜しむ。

貞観二年:高熲・諸葛亮を宰相の模範とする

  • 太宗は房玄齢らに「隋の高熲は公平正直で治体を識る賢相であったのに、忠諫を謗訕とされ誅殺された。諸葛亮も『讎であっても功あれば必ず賞し、親であっても罪あれば必ず罰す』という公平な政を行った。卿らも前代の賢相を慕ってほしい」と語り、房玄齢は「『尚書』の無偏無党、『論語』の挙直錯枉に通じる」と応じた。

編者按(戈直)

  • 高熲・諸葛亮を賢相の模範として臣下に示した太宗の姿勢を評価しつつ、二帝三王の宰相(皋陶・伊尹・周公ら)には及ばずとも、諸葛亮のような相にあやかることを勧めた太宗の識見を評価する。

貞観六年:長楽公主の嫁資を巡る魏徴の諫め

  • 長楽公主(文徳皇后所生)の降嫁に際し、太宗が通例の永嘉長公主(高祖の娘)の倍の嫁資を命じたことに、魏徴は「漢の明帝も自らの子を先帝の子と同列にはしなかった。公主と長公主では尊卑の別があり、嫁資が長公主を上回るのは理に合わない」と諫めた。太宗はこれを容れ、皇后にも伝えると、皇后は「陛下が義をもって人を制することができるとは、真の社稷の臣だ」と感嘆し、絹五百匹を魏徴の家に届けさせた。

編者按(戈直)

  • 『易』の「帝乙帰妹」の故事(正后は容飾に頼らず、娣媵が容飾を事とする)を引き、太宗が愛情に流されて礼制を越えかけたことを指摘し、魏徴の諫めと皇后の褒賞が相俟って美事となったと評す。

張亮謀反事件と李道裕の公正な議

  • 刑部尚書張亮が謀反の疑いで処刑された際、多くの官が誅殺に賛同する中、殿中少監李道裕だけは「反形いまだ具わらず」と無罪を主張した。太宗は激怒しつつも張亮を処刑したが、後年、刑部侍郎の欠員に際し「かつて李道裕の議は公平であった」と回顧し、道裕を刑部侍郎に任じた。

編者按(戈直)

  • 太宗が過ちを認め時を経て李道裕を登用したことに、悔過の心と人を選ぶ術の両方を見て取れると評す。

挙賢は親疎を避けず

  • 太宗は「人材を求めるにあたり、推挙された者が皆宰臣の縁故だと非難されることがあるが、公らは形跡を避けず、真に才ある者は子弟や仇であっても挙げるべきだ」と語った。

編者按(戈直)

  • 春秋の祁奚が我が子を避けずに賢を挙げた故事に通じるとしつつ、後に魏徴が親戚への阿党を讒言された際、太宗が「今後は形跡を存せよ」と伝えた一件を挙げ、この言葉とやや矛盾すると指摘する。

貞観十一年:宦官の外使起用を禁じ、公平の理を説く

  • 宦官が外使として派遣され妄りに奏事し太宗を怒らせたことに、魏徴は「宦官は微賤でも近侍ゆえに讒言の害は大きい、子孫のためにもその源を絶つべきだ」と諫め、太宗はこれを容れ以後宦官の外使を停止した。
  • 魏徴はさらに長大な上疏を奉り、善を善とし悪を悪とすることの重要性、君子の小さな過ちと小人の小さな善を混同してはならないこと(衛の史魚が死してなお屍諫した故事、卞和が璞玉の真偽を見抜いた故事)、告訐(密告)を誠直と誤認し朋党を疑って君子の道を塞いではならないこと、刑罰よりも仁義・道徳による教化を根本とすべきこと(潜夫論・淮南子・体論などを引用)、法は権衡・準縄のようなもので愛憎によって軽重を変えてはならないこと、告訴・糾弾を奨励しすぎれば君臣が互いに疑心暗鬼になり忠を尽くしにくくなること、貞観の治世の初めは公道を存したが近年は猜疑・苛察に流れつつあることなどを、様々な故事・典籍を引きながら詳細に説いた。太宗はこれに深く感謝する手詔を返し、絹三百匹を賜った。

編者按(戈直)

  • 魏徴が宦官の禍を早くから見抜いていたことを、後の唐中葉以降の宦官による乱と滅亡を思えば周公・季札にも劣らぬ先見と評し、この時ただ外使を停止するにとどまらず制度として後世に定めておくべきだったのではないかと惜しみつつ、太宗と魏徴の長大な問答(魏徴の諫疏中最も詳細なものの一つ)に見る君臣の厚い関係を称える。