貞觀政要太子への諫言(規諌太子第十二)
貞観五年:李百薬の「賛道賦」
- 太子右庶子李百薬は、皇太子承乾が典籍を好みつつも閑暇には度を超えて遊興に耽ることを憂い、「賛道賦」を作って諷した。賦は、歴代の儲君(皇太子)の得失の事例を長大な韻文で連ねたもので、周の武王・成王、秦の扶蘇、漢の恵帝・景帝・武帝(戻太子)・元帝・成帝、魏の文帝・明帝、晋の武帝(愍懐太子)などを引き合いに、賢明な太子(良い師傅を得て徳を修めた例)と、驕奢・讒言・酒色・遊猟によって身を滅ぼした太子とを対比し、学問・敬愛・忠孝・刑罰の慎重・営繕の倹約・酒色や遊猟の戒めなどを説いて、太子に善を選び悪を改めるよう勧める内容であった。太宗はこれを読み、李百薬を「輔弼にふさわしい」と称え、廐馬一匹と綵物三百段を賜った。
編者按(戈直)
- 承乾が当初は典籍を好みながら後に嬉戯無度に陥ったことを、賈誼の「少成は天性の若し」の言に照らして惜しみ、李百薬の賦が歴代儲君の善悪・任賢去邪・刑罰慎重・営繕の倹約・酒色遊猟の戒めを網羅した典訓であると評価する。
貞観中:于志寧・孔穎達の諫め
- 太子左庶子于志寧は『諫苑』二十巻を著して承乾の禮度を失う行いを諷した。太子右庶子孔穎達もたびたび面折して忠言し、承乾の乳母遂安夫人に「太子はもう成人しているのに面と向かって咎めるべきでない」と諫められても、「国恩に報いるため死をも恨まない」と答え、諫言をさらに厳しくした。承乾に命じられて『孝経義疏』を撰した際も、文に託して諫めの意を広げた。太宗はこれらを嘉納し、両名に絹・黄金を賜った。
編者按(戈直)
- 于志寧・孔穎達の諫めと太宗の褒賞は君父師友の責を尽くしたものだが、承乾がなお文史・規誨に強く逆らわなかった時期のこととし、後の破綻は「知ることの難しさ」ではなく「行うことの難しさ」にあったのではないかと評す。
貞観十三~十七年:張玄素の度重なる諫めと迫害
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太子右庶子張玄素は、承乾が遊猟に耽り学問を廃していることを繰り返し上疏で諫めた。湯王が四方の網を一面に減らした故事、傅説の「学は古を師とする」の言を引き、孔穎達らに侍講させ日々学ばせるべきだと説いたが、承乾は納れなかった。玄素は重ねて、心が万事の主であり節度を失えば乱れると諫め、承乾はますます怒った。承乾が宮中で太鼓を打ち鳴らしていたことを玄素が面と向かって諫めると、承乾は逆にその太鼓を壊し、玄素を家奴に襲わせ、馬の鞭で打たせてほとんど死に至らしめた。さらに承乾が営造・奢侈に耽り出費が七万に及んだことを玄素が諫めても改まらず、ついに刺客を放って玄素を殺そうとしたが、間もなく承乾は廃された。
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(胡寅の評より)太宗の詔で太子の用物を制限しなかったことが驕奢の因であり、朝臣の誰も異を唱えず張玄素一人が危険を冒して諫めたことに、君臣の交わりの失敗を見る。
- (唐仲友の評より)張玄素が度重なる諫めの末に迫害されながら、最終的に除名され地方に出されたままとなり、于志寧と処遇が異なったことを太宗の不明と批判する。
編者按(戈直)
- 隋の太子勇と唐の承乾がともに廃立された背景に、文帝・太宗がともに他の皇子(隋の楊広、唐の魏王泰)を寵愛しすぎたという共通の失策があったと指摘し、太宗が太子・諸王の分をあらかじめ定めていれば承乾もここまで乱れなかったのではないかと惜しむ。
貞観十四~十五年:于志寧の重ねての諫めと刺客
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太子詹事于志寧は、承乾が宮室の造営に奢り声楽に耽ることを、上古の質朴・夏書の戒めを引いて諫め、また農繁期に駕士らを休ませず酷使したこと、突厥の者を私的に宮中に引き入れたことも諫めた。承乾は激怒し、刺客張師政・紇干承基を放って志寧を殺させようとしたが、二人は志寧が母の喪に服し苫廬に寝ている姿を見て忍びず、殺害を思いとどまった。承乾廃立後、太宗はこの経緯を知り志寧を深く労った。
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(胡寅の評より)于志寧が服喪中に起復されたこと自体が本来不適切であったとし、太宗が喪を奪ったことを批判しつつ、刺客二人が孝の心から手を下せなかった点に、承乾の無道さがかえって際立つと評す。
編者按(戈直)
- 春秋の趙盾を暗殺しようとした鉏麑が、趙盾の恭敬な姿を見て手を下せず自害した故事と対比し、于志寧を襲った二人の刺客もまた同様に「人の心」を失っていなかったと評しつつ、太宗・志寧ともに輔導の責を全うできなかったと総括する。