貞觀政要太子・諸王の分限(太子諸王定分第九)
貞観七年:呉王恪を藩屏に出す
- 太宗は呉王李恪を斉州都督に任じ、「父子の情は常に相見えたいものだが、家国の事情は異なる。早く分をわきまえさせ、覬覦の心を絶ち、朕の没後に兄弟が危亡の患いを免れるようにする」と語った。(後年、太宗は晋王を太子に立てた後に恪を立てようとも考えたが、長孫無忌が固く争い「晋王は仁厚な守文の主。棋を決めかねれば敗れる、まして儲位においてをや」と諫め、太宗は思いとどまった。)
編者按(戈直)
- 漢の高祖の太子廃立の企てと太宗の高宗擁立・恪擁立の逡巡とを対比し、太宗の判断は高祖よりなお正しかったとしつつ、長孫無忌が表向き正論を述べながら内心は外戚としての私心を抱き、後に無実の恪を死に追いやったことを厳しく非難し、恪の英才が生かされていれば唐室の乱(則天武后の禍)を防げたかもしれないと惜しむ。
貞観十一年:馬周、諸王の待遇の定めを説く
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侍御史馬周は上疏し、「漢晋以来、諸王の処遇に定分がなかったため滅亡を招いた例が多い。今、諸王への恩寵が過度になれば驕矜を生む」と説き、魏の曹操が陳思王(曹植)を寵愛しすぎた結果、文帝即位後に植が苦しめられた例を引き、長久の法を制定すべきだと述べた。太宗はこれを嘉し物百段を賜った。
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(唐仲友の評より)太宗が嫡庶の分をわきまえず私欲に流されたことが、後に賢才を巻き込む禍を招いたと惜しむ。
編者按(戈直)
- 隋の文帝が五子を同母だからと平等に処遇し、結局互いに争って誰も善終しなかった例を引き、太宗も承乾を太子としながら諸王への寵遇に差をつけず、馬周の忠告を嘉賞しつつも改めなかったことを、太宗の溺愛による盲目と評す。
貞観十三年:褚遂良、魏王泰への過度な優遇を諫める
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諫議大夫褚遂良は、魏王泰への日々の供給物が皇太子を上回っていることを上疏で諫め、「儲君(太子)は嫡、庶子は卑。定分を明らかにしなければ佞巧の徒が付け入り私恩が公を害する」とし、漢の竇太后・景帝が梁孝王を驕らせた例、宣帝が淮陽王を驕らせかけた例を引いた。太宗はこれを深く納れた。
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(陳惇修の評より)太宗が魏王泰を承乾以上に優遇したことが泰の野心を招いた張本であり、後に泰を抑制したのは「入れておいて門を閉じる」ような矛盾だと批判する。
編者按(戈直)
- 太宗ほどの明君でも太子と魏王の分を定めきれず、私愛に打ち勝てなかったことが両者ともに廃される結末を招いたと総括する。
貞観十六年:当今の急務は何か
- 太宗が侍臣に「当今最も急務は何か」と問うと、高士廉は「百姓を養うこと」、劉洎は「四夷を撫すこと」、岑文本は「徳と礼で導くこと」と答えたが、褚遂良は「太子・諸王の定分を明らかにすることこそ当今の急務」と答え、太宗もこれに同意し「自ら五十に近づき衰えを覚える。庶子含め四十人近い子がいるが、嫡庶に良でない例は古来家国を傾けてきた。公らは儲君・諸王を輔ける賢徳を探してほしい。王府の官には四考(在任評価)を超えさせないように」と語った。
編者按(戈直)
- 高士廉・劉洎・岑文本の言もすべて急務だが、当時すでに承乾の悪行、魏王泰の野心、漢王元昌の同悪の兆しが露見していたことから、褚遂良の言こそが最も切実であったとし、太宗が定分を正すより人材登用に答えを求めたことを本末転倒と評し、この翌年に東宮の変(承乾の廃立)が起きたことを指摘する。