貞觀政要官吏の選任(擇官第七)

貞観元年:官は員数でなく人材で選ぶ

  • 太宗は房玄齢らに「治の本は才を量り職を授けることにあり、官員は省くべきだ。良い人材なら少なくとも足り、不善な者は多くとも無用だ」と述べ、『尚書』『論語』を引いて「官は必ずしも備えず、その人を得ればよい」とし、文武あわせて官員を六百四十員に整理させた。あわせて「楽工など芸に秀でた者には銭帛で報いるべきで、朝廷の君子と同列の官爵を与えるべきではない」とも命じた。

  • (朱黼の評より)古は事に応じて職を置いたが、後世は人に応じて官を増やした。貞観の省官の制は美事だが、員外官の萌芽もこの時に既に見えると指摘する。

編者按(戈直)

  • 唐虞・周の建官の歴史を振り返り、太宗の省官(六百四十員)を極めて優れた措置と評しつつ、房玄齢が僕射で度支を兼ね、魏徴が侍中で東宮官を兼ねたように一人が二職を兼ねる例もあったとし、貞観の善政の要は「省官」にあり、その根本は「奔競を息め、嬖幸を裁つ」ことにあると総括する。

貞観二年:宰相は細務に関わらず賢を求めよ

  • 太宗は房玄齢・杜如晦に「僕射は朕の憂労を助け賢哲を求めるべきなのに、日々数百件の訴訟を聴いていては賢を求める暇がないだろう」と命じ、以後、細務は左右丞に委ね、大事のみ僕射に関わらせる制とした。

  • (范祖禹の評より)宰相は簿書に埋没せず賢才登用に努めるべきだと評す。

  • (胡寅の評より)房杜ほどの賢でも訴訟を親裁したのは、経済の略に欠けたためではなく、太宗が明察であったため権を専らにするのを憚ったなど五つの理由を挙げる。

編者按(戈直)

  • 陳平が銭穀・獄訟を答えなかった故事を引きつつも、宰相が国計・民命に関わる事柄に無関心であってはならないとし、太宗の措置は「有司の細務を直接処理させない」ことに主眼があったと評す。

貞観二年:刺史・都督の選任を重んじる

  • 太宗は「毎夜、百姓のことを思い夜半まで眠れないこともある。都督・刺史が民を養えるかどうかが気にかかり、屏風にその姓名と善行を記して見ている」と語った。

編者按(戈直)

  • 漢の宣帝が「我と共に治める者は良二千石のみ」と語った故事と対比し、太宗の刺史重視の言を「本を知る者の言」と評す。

貞観二年:封徳彜、賢才推挙を怠る

  • 太宗が封徳彜に賢才の推挙を求めても一向に進言がないことを咎めると、徳彜は「奇才異能の者を見出せない」と答えた。太宗は「前代の明王は当時の人材を用いた。傅説・呂尚を待つようなことをせずとも、いつの世にも賢はいる、ただ見出せていないだけだ」と諭し、徳彜は恥じ入った。

  • (孫甫の評より)賢を推挙しない大臣の心理には、地位を守るための保身、自派の党与形成、識見不足の三つの姦心があると分析し、封徳彜がまさにこれに当たると批判する。

  • (胡寅の評より)太宗が封徳彜のような姦人に人材推挙を任せていたこと自体、知人の難しさを示すと評す。

編者按(戈直)

  • 封徳彜が隋代に虞世基に阿附し朝政を乱した人物であったことを指摘し、太宗が徳彜の言に惑わされなかったことを評価する。

貞観三年:吏部の人選の基準

  • 太宗が杜如晦に「近ごろの吏部の人選は言葉や文才のみを見て素行を調べず、数年後に悪行が露見しても手遅れだ」と問うと、如晦は「両漢は郷閭の評判を経て推挙されたが、今は毎年数千人の選集があり、実情を知りきれない」と答えた。

編者按(戈直)

  • 古の郷挙里選の制(四段階の選抜)を紹介し、両漢の辟召の制もこれに及ばないとしつつ、如晦の答えがやや浅いと評す。

貞観六年:才と行いをどちらも兼ねよ

  • 太宗が「人を用いるには才行を審らかにすべきだ」と魏徴に問うと、魏徴は「乱世は才のみを求めればよいが、太平の世は才行ともに兼ね備えた者を任用すべきだ」と答えた。

  • (范祖禹の評より)魏徴の言う「才」が徳行を伴わない才であるなら、それは真の才ではないと批判的に評す。

編者按(戈直)

  • 「才は徳を兼ねる」(春秋伝)と「才は徳に勝るものは小人」(司馬光)という二つの見方を挙げ、事理を考えれば程子の「才は気に禀け、気には清濁がある」との説がより精密だと評す。

貞観十一年:馬周、刺史・県令の選任を重視すべしと説く

  • 侍御史馬周は上疏し、「天下を治める本は人にあり、百姓の安楽は刺史・県令にかかる。朝廷が内官を重んじ外官の刺史・県令を軽んじれば人選が疎かになる」と説き、太宗は「刺史は朕自ら選び、京官五品以上には県令を一人ずつ推挙させる」よう命じた。

  • (孫洙の評より)民は国の本、守令は民の本であり、守令を軽んじることは民を軽んじることだと説く。

  • (胡寅の評より)京官五品以上が皆、県令の器を見抜けるとは限らないと注記する。

編者按(戈直)

  • 唐虞の内外均衡の政と対比し、唐が内職を重んじ県令を軽んじた風潮を批判し、馬周の言を「体要を知る者」と評す。

貞観十一年:劉洎、尚書省左右丞の人選精選を求める

  • 治書侍御史劉洎は、尚書省の詔勅が滞る現状を憂い、左右丞・郎中の人選を精選すべきこと、功臣・懿戚を職務よりも礼遇として処遇し実務に妨げが出ないようにすべきことを上疏した。太宗はこれを容れ劉洎を尚書左丞に任じた。

編者按(戈直)

  • 唐の三省制における尚書省の要職の重要性を説き、劉洎自身がその剛直な人柄で任に堪えたことを評価する。

貞観十三年:自薦を退ける

  • 太宗が「人材を得る道として、自ら推挙させるのはどうか」と問うと、魏徴は「人を知るのも自らを知るのも難しい。愚昧な者ほど己を誇るので、自薦を許せば澆薄な競争の風潮を助長する」と反対した。

編者按(戈直)

  • 三代の郷挙里選の制と対比し、自薦の制はその実、売名にすぎないと評す。

貞観十四年:魏徴、知人の道を上疏す

  • 魏徴は「君は臣を知り、父は子を知るべきだ」とし、堯舜文武が知人の明を持ったからこそ賢才が集まったと説き、劉向の六正六邪の説を再度引きつつ、才を用いる際は徳行を確かめ、賞罰は公平に、疎遠を退けず親貴を阿らないことを求めた。太宗はこれを深く納れた。

編者按(戈直)

  • 大禹・皋陶の「知人則哲」の言を引き、九徳を全て備えずとも君子か小人かの見極めが要であると評す。

貞観二十一年:房玄齢の一言で人事を改める

  • 太宗が翠微宮にあった際、京師から来た者に「房玄齢は李緯の尚書任命をどう言っていたか」と問うと、「李緯は立派な髭の持ち主だと言うだけで他に何も」と答えられ、太宗は李緯を洛州刺史に転任させた。

編者按(戈直)

  • 房玄齢が直接諫めたわけではなく、私的な一言を太宗が汲み取って改めたことを、蘇軾の「太宗の従諫は聖に近い」との評とともに紹介する。