貞觀政要賢臣の登用(任賢第三)

房玄齢

  • 履歴: 名喬、字は玄齢。斉州臨淄の人。隋末に隰城尉となるも罪により除名。太宗が渭北に進駐した際に軍門に謁し、以後秦王府の記室参軍として腹心となる。隠太子建成に疎まれ一時遠ざけられたが、玄武門の変では太宗に召し返され謀議に参画。貞観元年中書令、三年尚書左僕射兼監修国史、梁国公。十六年司空。太宗の信任篤く、致仕を願うも慰留された。

  • 隋末、父の警告にもかかわらず隋の衰亡を予見していたという逸話、賊寇平定のたび他の将が財宝を求める中、玄齢は人材のみを求めて幕府に集めたこと、房玄齢が度支(財政)を人に委ねず自ら抱え続けたことなどが記される。太宗は王業の艱難を偲び「威鳳賦」を作って功臣(房玄齢または長孫無忌、諸書で異同あり)に賜ったとされ、その賦文も併記される。

  • (朱黼の評より)房玄齢は人の善を己のことのように喜び、財政のような要職を軽々しく他人に委ねなかった点に名相たる所以がある。

  • (呂祖謙の評より)玄齢は他に秀でた一芸はないが、よく人を容れ、自ら材を用いすぎない度量を持っていた。
  • (真徳秀の評より)玄齢は諫争を王珪・魏徴に、征伐を李靖・李勣に委ね、衆善を集めて己は退いて無能であるかのように見せた点は秦漢以来類を見ない。

編者按(戈直)

  • 漢の蕭何が咸陽入城時に律令図書を先に収めた見識に房玄齢の姿勢を重ね、賊寇平定後に財宝でなく人材を求めた玄齢の見識を高く評価する。

杜如晦

  • 履歴: 字は克明。京兆万年の人。武徳初め秦王府兵曹参軍。房玄齢の推薦で太宗の腹心となり天策府従事中郎・文学館学士を歴任。玄武門の変で功第一、太子右庶子、兵部尚書、蔡国公。貞観三年尚書右僕射兼吏部選事、房玄齢と共に朝政を掌り「房杜」と併称された。貞観四年病没、司空を贈られ謚は成。

  • 太宗が房玄齢と謀るたびに「如晦でなければ決められない」と言い、如晦が来ると結局玄齢の策通りになったという逸話が記され、房杜は「善謀(玄齢)・善断(如晦)」の一対と評された。

  • (劉昫の評より)房杜は命世の才を得て太平を致し、蕭何・曹参に比すべきだが、杜の登用は房の推挙による。

  • (宋祁・張九成・呂祖謙・唐仲友の評より)房杜の輔相は跡形なく治を成した点で漢の文景の治に比され、太宗との君臣の契りは深いが、湯の伊尹や武王の尚父のような「畏相」には及ばぬとの評もある。

編者按(戈直)

  • 蘇軾の言う「房杜、載すべき功なし」との評に対し、褚遂良・高祖・長孫皇后の証言から玄齢の功績はなお窺えるが、如晦の「断」は玄齢の「謀」から出たものであり、如晦単独の功は窺いにくいとし、後世の大臣が己の短を恥じて人にその責を求めるのは如晦への誤解であると評す。

魏徴

  • 履歴: 字は玄成。鉅鹿の人。隋末は道士として過ごし、李密・竇建徳に仕えた後、隠太子建成の洗馬となる。玄武門の変後、太宗に「なぜ兄弟を離間したか」と詰問されたが従容と対応し、逆に諫議大夫に抜擢された。太宗に「卿の罪は管仲の中鉤より重いが、卿への任は管仲への桓公の任より篤い」と評され、貞観三年秘書監参預朝政、七年侍中、鄭国公。太子太師を経て貞観十七年病没、司空・謚は文貞。太宗は「銅を鏡とし、古を鏡とし、人を鏡とす」の言葉で魏徴の死を惜しんだ。

  • 太宗が九成宮で王珪・魏徴らを宴した際、かつての讐敵であった二人を用いる度量を語ったこと、皇孫誕生の宴で「貞観以前は房玄齢の功、貞観以後は魏徴の献納が国を安んじた」と称えたこと、承乾・魏王泰の後継争いの中で魏徴を太子太師に任じ天下の疑いを絶とうとしたこと等が記される。

  • (劉昫の評より)魏徴は文皇(太宗)と政術を論じ、身正しく心勁く、時勢に阿らず、前代の争臣中随一である。

  • (宋祁の評より)忠と睿が揃ってもなお没後間もなく讒言が起きたことに君臣の際の難しさを嘆く。
  • (呂祖謙・唐仲友・真徳秀の評より)魏徴の諫は仁義の「用」には篤いが「体」(心を正し身を修める根本)には及ばず、伊尹・傅説・周公・召公には一歩譲るとの評も付される。

編者按(戈直)

  • 魏徴は両漢以来の「三代の遺直」と称するにふさわしいが、孟子の言う「大人は君心の非を格す」の境地には至らず、事後の是正には長じても、心の根本を涵養する説得には及ばなかったと総括する。

王珪

  • 履歴: 字は叔玠。太原祁県の人。隠太子建成に連座して巂州に流されたが、太宗即位後召されて諌議大夫。貞観元年黄門侍郎参預政事、二年侍中。房玄齢・魏徴・李靖・温彦博・戴冑と並んで太宗の宴で自らの得意分野を語り「己を尽くして国に奉ずるは玄齢に及ばず、諫諍で君を堯舜に及ばせる志は魏徴に及ばず、文武兼備は李靖に及ばず、奏対の的確は温彦博に及ばず、繁務処理は戴冑に及ばぬが、清濁を分かち善悪を弁ずる点では数子に一日の長がある」と評した逸話(確論と称された)が記される。十三年没、謚は懿。

  • (劉昫の評より)王珪は履正不回、忠讜比類なし。

  • (陳惇修の評より)太宗が己の知人の能を誇った際、王珪がこれを諫めず追従して人物評をした点を惜しむ。

編者按(戈直)

  • 王珪は魏徴より先に諫官となり、隠太子・斉王の党与を寛大に扱うよう最初に進言した人物である。真徳秀の「正己・正君・謀国・用人」の四事に照らせば、謀国・用人では房杜に、正己・正君では王珪・魏徴に一歩譲るところがあり、四賢が耳目股肱のように相補ったことが貞観の治を成したと評す。

李靖

  • 履歴: 字は薬師。京兆三原の人。隋の馬邑郡丞。太宗に一度斬られかけたが救われ、以後蕭銑・輔公祏の平定に功を立てる。太宗即位後、刑部尚書、貞観三年代州行軍総管として突厥の定襄を破り頡利可汗を降し、太宗をして「渭水の役の恥を雪いだ」と言わしめた。のち吐谷渾を大破し衛国公。二十三年没、司徒・謚は景武。

  • 頡利可汗討伐に際し、詔使が招降の交渉中であったにもかかわらず「兵機を失うべからず」として夜襲を敢行し大勝したこと、晩年に太宗の高麗親征失敗を語る場面で「その事は道宗が知る」とだけ答え多くを語らなかったことなどが記される。

  • (張九成の評より)李靖は忠智に根ざした功名を得ながら、功成りて後は戸を閉じて謝すことができ、韓信より優れて身を全うした。

編者按(戈直)

  • 孫武以来、法度ある師を将いた者は諸葛武侯と李靖のみとし、霍邑の戦いを兵法として論じた逸話などから「知兵の聖」と評し、世に「英衛」と並称される李勣は靖に及ばないとする。

虞世南

  • 履歴: 字は伯施。会稽余姚の人。隋に仕え、宇文化及・竇建徳を経て太宗の秦府参軍となる。文学館学士となり房玄齢と文翰を分掌、貞観七年秘書監。高祖の喪に太宗が哀毀するのを諫めてよく諫言し、太宗に「徳行・忠直・博学・詞藻・書翰」の五絶と称された。没後、太宗は「石渠東観の中にもはや人なし」と嘆き、「鍾子期死して伯牙琴を鼓せず」の故事を引いて悼み、凌煙閣二十四功臣の一人に列せられた。

  • (張九成の評より)世南は文翰で名を馳せながら忠言・規諷にも篤く、君臣相得の情の厚さがうかがえる。

編者按(戈直)

  • 世南は徳行・忠直・文章の士として終身正しく君に事えたが、深く大用されるには至らなかったことを惜しむ。

李勣

  • 履歴: 本名徐世勣、字は茂功(後に太宗の諱を避け勣と単名)。曹州離狐の人。李密・王世充を経て唐に帰順、李姓を賜る。竇建徳に捕らわれるも脱して帰唐。貞観元年并州都督として突厥を鎮め、太宗に「隋の長城造営より李勣一人の方が突厥を畏れさせた」と称された。太子詹事を経て晩年、太宗は臨終に際し太子(高宗)に「勣を試しに疊州都督へ左遷し、即座に赴任すれば用いよ、躊躇すれば殺せ」と命じ、勣は即日赴任した。高宗朝で僕射、後に武昭儀(則天武后)の立后に際し「これは陛下の家事、外人に問う必要はない」と答え、立后を後押しした。総章二年没。

  • (范祖禹の評より)太宗が勣を忠と信じながらも試すように黜陟したのは堯舜の親賢の道に悖り、後に武后立后に一言で加担した勣の行動を厳しく批判する。

  • (胡寅・呂祖謙・葉適の評より)勣は約束を違えぬ点で信を得たが、朝廷の大事を託すには不足していたと評す。

編者按(戈直)

  • 李密・竇建徳・単雄信への去就における勣の変わり身の速さを挙げ、勣の内には術数が潜んでいたとし、太宗が術数をもって勣を待ったため、勣も術数をもって報い、唐室の後継争いに一言で加担した禍を招いたと厳しく総括する。

馬周

  • 履歴: 字は賓王。博州茌平の人。貧しく不遇であったが、貞観五年、中郎将常何の代作で二十余事の建言を行い太宗の目に留まり抜擢された。監察御史、中書舎人を経て貞観十八年中書令兼太子左庶子。太宗に「馬周を暫くも見なければ思う」と言われるほど信任され、人物評にも定評があった。晩年、自ら上奏した文書をすべて焼き捨て「管仲・晏嬰のように君の過ちを暴いて死後の名を取ることはしない」と語った。貞観二十二年没。

  • (宋祁・唐仲友の評より)馬周は一介の布衣から抜擢され、太宗の待遇は房杜・王魏にも劣らなかったが、功業はそれらに及ばなかったと惜しむ。

  • (林之奇の評より)漢の魏無知が陳平を挙げ、常何が馬周を挙げたことで、無知・常何の名も後世に伝わったと評す。

編者按(戈直)

  • 太宗が常何の上奏の内実を見抜き、布衣の馬周を新豊の旅宿から抜擢し実際に功を上げさせたことは、太宗の知人の明が古の先哲王の遺風を備えていた証だと評す。