貞觀政要政治の要諦(政體第二)

貞観初:弓工の言に己の未熟を悟る

  • 太宗は自ら弓術に自信があったが、弓工に見せた良弓十数張を「木心が正しくないので剛勁でも矢がまっすぐ飛ばない」と評され、天下を治める理も弓と同様に未だ及ばぬと悟った。以後、五品以上の京官を交代で中書内省に召し、外事や百姓の利害・政教の得失を尋ねるようになった。

  • (范祖禹の評より)国が興る時、君子は自らを不足と見るもので、太宗が弓の未熟を知って治世の理も未だしと悟り、衆議を求めて自らに頼らなかったことが興隆の因である。

  • (胡寅の評より)弓工が木心の不正から弓の善し悪しを見抜いたように、君心が正しくなければ言行も邪となる。太宗ほどの英才でも工人の言に諭され、京官を召して民の疾苦・政事の得失を問うたのは為君の道である。

編者按(戈直)

  • 工人が芸をもって諫めるのは古来のことで、孟子の「一たび君を正せば国定まる」、董仲舒の「君心を正して朝廷・百官・万民を正す」に通ずる。太宗がこの言から経伝の理に触れ得たかは定かでないと評す。

貞観元年:中書・門下の相互チェックを説く

  • 太宗は王珪に、中書省の出す詔勅について中書・門下・尚書の三省が互いに意見を異にすることは公事のためであるはずが、己の過ちを覆い隠すために是非を曲げて衝突を避ける弊が隋にはあったと語り、それが亡国の政であったとした。私を滅し公に従い、直道を守って互いに啓沃すべきだと戒めた。

  • (胡寅の評より)古は宰相一人にとどめず、周公・召公の並立以来、唐に至り左右僕射・侍中・中書令などが分担し、中書が令を出し門下が審駁し尚書が受成する制度は集材並用の効を上げた。太宗のような君と諸葛武侯のような臣が公心をもって治を望んだことが後世の法となる。

編者按(戈直)

  • 古来「一相のみ」であったわけではなく、虞の百揆・后稷・皋陶等の分掌や殷の伊尹・虢の並立など先例は多い。唐制の中書出令・門下審駁・尚書受成は衆善を集め一己の私を防ぐ意図で、太宗が王珪に護短避隙の私と隋朝依違の禍を戒めた言は法度の外にまで及ぶ深い戒めであると評す。

貞観二年:近代の君臣が古に劣る理由

  • 太宗が王珪に「近代の君臣の治は古に劣るのはなぜか」と問うと、王珪は、古の帝王は清静を尚び民心を己の心としたが、近代は民を損なって己の欲を満たし、任用する大臣も経術に通じず法律を重んじて儒風が廃れたためと答えた。太宗はこれに深く同意し、以後、学業に優れ政体を識る官吏の昇進を進めた。

  • (胡寅の評より)泛問には泛答しか返らない。太宗が具体的にどの時代を指すか問い直せば、王珪も両漢の得失を挙げてより実のある議論になったはずだと評す。

編者按(戈直)

  • 王珪の言う「近代は武を重んじ儒を軽んず」が具体的に何を指すか不明であり、古の皋陶・稷・契・伊尹・周公・召公こそ真の儒であって、漢の経術程度にとどまらないと評す。

貞観三年:詔勅の不備には必ず異論を述べよ

  • 太宗は、中書門下が阿諛迎合して詔勅の不備を指摘しないことを戒め、以後、詔勅に不穏当な点があれば必ず執言せよと命じた(『通鑑』はこの年四月、房玄齢らが頓首謝したと記す。五花判事の旧制もこの時申明された)。

  • (范祖禹の評より)朝廷が官を分けるのは互いに補い合うためで、太宗が勅責して言わしめたのは理にかなう。

  • (呂氏(名欠)の評より)武王は諤諤として殷紂は唯唯として滅んだように、諤諤の風が興れば国は昌え、唯唯の風が興れば国は亡ぶ。秦・隋は唯唯で亡び、漢・唐は諤諤で昌えた。

編者按(戈直)

  • 舜が龍に命じた「納言」の職は後世の中書門下に通じ、下情を上に通じさせる「允」の心を欠けば、阿諛迎合して唯唯と免れようとする者に真の允は得られないと評す。

貞観四年:隋文帝は明主か

  • 太宗が蕭瑀に隋文帝の人物を問うと、蕭瑀は「克己復礼、勤労して政を思う」勵精の主と答えたが、太宗は、文帝は「至察にして心明ならず」、周の幼主から簒奪した負い目から群臣を信任できず万機を独断したため、群臣も直言できず、理に適わぬことが多かったと反論。天下の広さは百司に委ね宰相が籌画すべきで、独断は誤りだと述べ、詔勅に不穏当があれば執奏せよと重ねて命じた。

  • (范祖禹の評より)君は知人を、臣は任職を本分とすべきで、隋文帝は一身で百官の事を代行しようとして労多く功少なく、太宗は逸にして成す、その道の違いが治乱を分けた。

編者按(戈直)

  • 堯舜の勵精は賢を求めることにあり、自ら群臣の事を代行することではない。隋文帝の「克己復礼」を蕭瑀は称えたが、それは顔子の行いにも及ばぬ程遠いものであり、太宗はこの非を悟って百司に委ね臣下の言を尽くさせたことが貞観の治を開皇と隔てたと評す。

貞観五年:治国は病を養うが如し

  • 太宗は「治国と養病は異ならない。病が癒えかけの時こそ慎むべきで、天下も安んじつつ日々慎まねばならぬ」と述べ、君臣は一体であるから隠さず直言せよと語った(『通鑑』は康国の内附を機とした発言とする)。魏徴は「内外治安を喜ばず、陛下が安を居りて危を思うことを喜ぶ」と応じた。

  • (呂祖謙の評より)魏徴は太宗の美点を将順しつつ悪を救う諫言を常とし、この一言もその典型である。

編者按(戈直)

  • 天下を一身に喩えれば、君は元首、大臣は心腹、その他は股肱・耳目・爪牙。唐虞三代は康強の時、春秋戦国は病困の時、隋唐交替は病の新起の時にあたり、起居・飲食を慎めば癒えるが、一たび触犯すれば再発する。仁者が天地万物を一体と見る境地に太宗が至れば、貞観の治にとどまらなかったと評す。

貞観六年:君は民を畏れよ

  • 太宗は「古の帝王に興亡があるのは、耳目を蔽われ時政の得失を知らなかったからだ。朕は九重の奥にあり天下の事を尽くし見られぬゆえ、卿らを朕の耳目とする。天下無事だからと油断してはならぬ。書に『君は畏るべきものではないが民は畏るべし』とある」と述べた。魏徴は「古来、国を失う主は皆安を居て危を忘れた。舟は君、水は民、水は舟を載せまた覆す」と応じた。

編者按(戈直)

  • 舜が四門を開き四目・四聡を通じたのも壅蔽を防ぐためであり、太宗が廷臣を耳目としたのはこれに通じる。魏徴の「水は舟を載せ覆す」も民惟邦本の理に通じると評す。

貞観六年:小事も大事の萌芽である

  • 太宗は「桀は関龍逄を殺し、漢は鼂錯を誅した」故事を読むたび嘆息し、卿らは直諌して政教を補うべきで、朕も小事の乖法を見過ごさぬようにする、大事は皆小事から起こると述べ、隋の滅亡を鑑として君臣ともに身を全うすべきだと語った。

  • (林之奇の評より)夏桀は関龍逄を殺してついに亡び、虞世基は煬帝に媚びてついに禍を受けた。君の納諌と臣の進諌は互いに謀り合うことで初めて互いに保たれると評す。

編者按(戈直)

  • 君臣一心なら上下交泰、二心なら上下不交。太宗が臣のために鼂錯の誅を思い、臣が君のために隋の滅亡を思うことは、君臣互いに相手の心を己の心とすることであり、貞観の治の由縁であると評す。

貞観七年:乱後の民は教化しやすいか(魏徴と封徳彜の論争)

  • 秘書監魏徴と侍臣の論で、魏徴は「乱後の民は死を憂えるゆえに理を思いやすく、聖哲が化を施せば三年を待たず功を成す」と説いたが、封徳彜らは「三代以後は人心が澆薄になり、秦漢は法律・覇道に頼らざるを得なかった」と反論した。
  • 太宗は魏徴の説に従い、黄帝の蚩尤討伐後の太平、湯武の桀紂討伐後の太平などの故事を引いた魏徴の弁に理があるとし、数年で天下は安寧に帰し突厥も服したことを挙げ、「これは皆魏徴の力である」と称え、「玉も良工に遇わねば瓦礫と変わらぬ、公は朕の良工である」と語った。
  • (末尾に按じて)帝は魏徴の言を疑わず、蛮夷も衣冠に帰し戸を閉ざさぬ太平を実現したという(史伝の記)。

  • (孫甫の評より)帝王の治道は時を観て為すにあり、封徳彜の刑罰論を退け魏徴の仁義論を用いた太宗の判断を「明」と評す。

  • (范祖禹の評より)魏徴の仁義説は民の安を欲する性に順い、封徳彜の刑罰説はこれに咈う。太宗が魏徴に従い数年で太平を致した速効を評す。
  • (胡寅の評より)ただし封徳彜の「人心澆薄」の説を全否定し「澆薄なら鬼魅になる」とした魏徴の反論はやや行き過ぎで、治乱盛衰は天地の大数であり、人の本心は古今変わらぬというべきだと評す。

編者按(戈直)

  • 仁義は心の徳・理の宜しきものであり、聖人はこれを終始一貫して身に体した。太宗は封徳彜を退け魏徴の請を用いて斗米三銭・戸を閉ざさぬ治を致したが、仁義を慕うも実には至らず、名を求めて本に至らなかった。晩年に碑を仆す失や宮女還付の名に反する内実があったのはそのためであり、聖人の道には及ばなかったと評す。

貞観八年:民の財は誰の賜か(晋文公と漁者の故事)

  • 太宗が「隋の百姓は財があっても保てなかったが、朕は撫養に努め、民の営む財は皆朕の賜である」と語ると、魏徴は「堯舜の代、民は『帝に何の力があろう』と歌ったが、これは日用して知らざるなり」と応じ、あわせて晋文公が沢で漁者に「君は天を尊び地に事え社稷を敬い万民を慈しんでこそ君であり、然らざれば厚賜も保てぬ」と諭された故事を引いた。太宗はこれを「是なり」とした。

編者按(戈直)

  • 恵王の移民移粟を孟子は認めず、子産の済人を孟子は政を知らずと譏った。太宗の「民が営むのは朕の賜」という言は、賦役を科さぬことこそ為政の本であると知る言であると評す。

貞観九年:清静こそ治の本

  • 太宗は隋の宮中の奢侈・徴求・窮兵黷武がついに滅亡を招いたことを目にしてきたとし、以後は清静を旨として徭役を興さず、豊作と民の安楽を得た。木の栽培に喩え、根本が揺るがねば枝葉は茂ると語った。

編者按(戈直)

  • 孟子の「人多欲なれば存する者寡し」を引き、宮室・飲食・刑罰・征伐における多欲がすべて亡国の因であったとし、太宗の寡欲は湯武には及ばぬ勉強によるものだが、なお盛治を数百年に及ぼしたと評す。

貞観十六年:君乱れて臣治まる例

  • 太宗と魏徴の問答で、魏徴は「君心が理まれば非を照見し賞罰が行き渡るが、君が昏暗であれば忠諌も用いられず、虞の百里奚・呉の伍子胥のように賢臣がいても亡国を救えない」と説いた。太宗が「では斉の文宣帝の昏暴を楊遵彦が正道で扶けた例はどうか」と問うと、魏徴は「それは彌縫にすぎず、危苦を免れただけで、明君の下で直言が用いられる場合とは同列に語れない」と答えた。

  • (林之奇の評より)君は臣の綱であり、綱が正しくなければ目も正せない。斉文宣の例は君乱れて臣治まるというより、亡びを免れたにすぎない。

編者按(戈直)

  • 書に「后其の后たること艱しとすれば、臣其の臣たること艱しとし、政すなわち乂まる」とあるように、君臣は相須って初めて至治に至る。太甲が敗徳しても伊尹の匡救で賢君となったような例と違い、魏徴の言う「彌縫にすぎぬ」がまさに実情だと評す。

貞観十九年:驕矜を戒める

  • 太宗は、晋の武帝が呉平定後、隋文帝が陳平定後にそれぞれ驕矜に流れ政道が乱れた例を挙げ、自らも突厥・高麗を平定し声教が広まったことで驕矜が生じることを恐れ、日暮れまで政務に励み、臣下の直言を師友のように待つと語った。

編者按(戈直)

  • この頃すでに魏徴は没し諫臣は減っていたが、それでも太宗が日暮れまで政務に努め臣下の直言を待つ姿勢を保ったことが、晋の武帝・隋の文帝の禍を免れた所以であると評す。

総括:貞観の治業を振り返る

  • 太宗は即位当初、霜旱の災・突厥の侵擾・饑饉に見舞われながらも憂民に努め、節倹を尚び、貞観三年には関中も豊作となり民は離散せず、諫を聞き入れ儒術を好み、建成・元吉の党与も咎めず近侍とし、官吏の貪濁を厳しく罰した結果、盗賊絶え、米価下落し、旅人が糧を持たずとも往来できるほどの太平を致した。

  • (欧陽脩の評より)太宗の功業は湯武・成康に比すべきだが、多愛に流れ仏教を興し兵を遠征に用いた点は中材の主にも通じる欠点であると評す。

  • (曾鞏の評より)租庸調・府衛の制など制度の整備によって民に余財があり、刑を措く域に近づいたが、先王の礼楽・田制・教化には及ばなかったと評す。
  • (司馬光の評より)太宗の文武の才は前古に抜きん出て、盗賊を君子に、呻吟を謳歌に変えた治績は三代以来の盛事であると評す。
  • (范祖禹の評より)太宗は武で乱を撥ね仁で残を勝ったが、規模は漢高に及ばず恭倹は文帝に及ばぬものの功烈はこれに勝ると評す。
  • (程祁の評より)太宗は仇讐・降虜・疎遠の者まで才に応じて用い、諌言・謀計を悉く容れたことが三百年の基を築いたと評す。

編者按(戈直)

  • 太宗の徳は謙虚納諌・知人善任・恭倹愛民の三点にあり、制度・人材ともに盛んであったが、二帝三王の学問(尭・舜・成王のような聖学)には及ばなかったため、二帝三王の盛治には至らなかったと総括する。