貞觀政要君主のあり方(君道第一)

編者按(戈直)

  • 「貞觀」とは太宗の年号で、『易』にいう「天地の道は貞観なり」に由来する。「政要」とは、唐の史官呉兢が貞観年間の君臣の善言・善行・良法・美政の要を類輯したものである。
  • 太宗(諱世民)は隴西成紀の人、涼武昭王の八世孫、高祖の次男。隋末の乱を平定して功を立て、武徳九年に皇太子となり同年即位、翌年貞観と改元、在位二十三年の名君であった。後世、文宗もこの書を慕い、太和の初めの善政はこの書に負うところがあったという。

貞観初:民を存するのが為政の道

  • 太宗は侍臣に「君たる道はまず民を存することにある。民を損なって己を養うのは股を割いて腹を満たすようなもので、腹が満ちれば身は死ぬ」と語り、天下を安んじるにはまず己の身を正すべきで、身が正しくないのに影(治世)が曲がらぬことはないと述べた。奢侈・声色への欲が政務を妨げ民の怨みを招くことを常に恐れていると語った。
  • 諫議大夫魏徴は、昔楚の荘王が隠者詹何に理国の要を問うたとき、詹何が「身を修めて国が乱れた例はない」と答えた故事を引き、陛下の言はこれと同じ古義であると賛じた(『通鑑』にも武徳九年の同趣旨の発言が付記される)。

編者按(戈直)

  • 『中庸』の九経も『大学』の八目も修身を根本とする。尭・舜・禹・湯・武王はいずれもまず自らの徳を明らかにして天下を治めた。身と天下を一体と見るのが三代以上の治、二つに分けて見るのが三代以下の治である。太宗のこの言は三代以下の君主としては非凡だが、魏徴がこの機に中庸・大学の学を説かず楚の詹何の故事にとどめたことを惜しみ、太宗が二帝三王の学を得ていれば貞観の治にとどまらなかったろうと評す。

貞観二年:明君と暗君

  • 太宗が魏徴に「何をもって明君・暗君と言うか」と問うと、魏徴は「兼聴すれば明、偏信すれば暗となる」と答え、堯舜が四方の門・目・耳を開いて天下の賢才・情勢を広く聴いたことを例に挙げた。
  • 秦の二世は趙高を偏信して天下の潰乱を知らず、梁の武帝は朱异を偏信して侯景の反乱を知らず、隋の煬帝は虞世基を偏信して群盗の蜂起を知らなかった例を挙げ、君主が広く下情を聴けば臣下に壅蔽されないと結んだ。太宗はこれを大いに善しとした。

  • (范祖禹の評より)聖人は天下を耳目とするゆえに聡明であり、凡君は近習を耳目とするゆえに暗蔽される。明暗の別は遠近・大小の違いにすぎない。

  • (唐仲友の評より)兼聴すれば公正な臣が進み、偏信すれば讒言が浸潤する。これは魏徴の聴納任用論の根本である。

編者按(戈直)

  • 兼聴・偏信は外から来るものだが、明・暗はさらに心中にあるもので、堯舜の聡明はその心が鏡や秤のように澄み平らかであることに由来する。君たる者が堯舜の明に至るには格物致知の学から始めるべきだとする。

貞観十年:草創と守成いずれが難しいか

  • 太宗が「帝王の事業は草創と守成のいずれが難しいか」と問い、房玄齢は群雄割拠を平定する草創の困難を、魏徴は得た後に驕逸に流れ徭役・侈靡が国を衰えさせる守成の困難をそれぞれ説いた。
  • 太宗は、房玄齢とは万死に一生を得た草創の艱難を、魏徴とは驕逸から危亡に至る守成の艱難を共有してきたとし、今後は守成の困難を共に慎むべきだと述べた(『通鑑』では房玄齢らがこれを聞き拝謝したと記す)。

  • (范祖禹の評より)自古、創業で失敗する者は少なく守成で失敗する者が多い。安逸から禍乱が生じるのは常のことで、後継の守成は一層難しい。

  • (林之奇の評より)創業の難しさは凡人でも分かるが、守成の難しさは賢者でも見落としがちである。周の宣王も漢の高帝も晩年に緩みが生じた例を引く。
  • (唐仲友の評より)創業・守成いずれも「易し」と言えば怠りが生じる。太宗は房玄齢・魏徴二人の言の真意を悟り、守成を一層慎んだ。

編者按(戈直)

  • 創業と守成を身をもって兼ねた者は少なく、周武・漢高は創業のみ、成王・康王・文帝・景帝は守成のみである。禹・湯はまれに両者を兼ねたが、なお本を固めることや終わりを慎むことを難事とした。太宗も己の能を恃まず未熟を懼れたことが貞観の治を導いたと評す。

貞観十一年:魏徴、隋の滅亡を鑑として上疏す

  • 特進魏徴は上疏し、歴代の帝王は多く創業に成功しながら守成に失敗すると述べ、隋の煬帝を例に、富強を恃んで民の欲を極め、宮苑を飾り徭役を絶やさず、讒邪を用いて忠正の臣を失い、ついに匹夫の手で滅んだ経緯を説いた。武王が鹿台の財を散じ、卑宮に安んじた故事を挙げ、驕らず初めを慎んで終わりを全うすべきだと諫めた(『通鑑』は貞観十一年正月、太宗が飛山宮を作った際の上奏とする)。
  • 同月、魏徴はさらに「木の長ぜんことを求める者は必ずその根本を固くし、流れの遠きを求める者は必ずその泉源を浚う」で始まる上疏(十思の疏)を奉り、創業の艱難の後には得た志が驕り、竭誠が傲物に変わりやすいと戒め、「十思」(足るを知る・止まるを知る・謙虚・満溢を戒める・盤遊を慎む・始めを慎み終わりを敬う・虚心に下を納れる・讒邪を退ける・賞罰を私情で誤らない)を説き、あわせて九徳を挙げ賢才登用を勧めた(『通鑑』では貞観十一年四月の上奏とする)。
  • 太宗はこれに手詔で答え、晋の武帝が呉平定後に驕奢に流れ何曽が子孫に禍を予言した例を引きつつも、何曽が「進みて忠を尽くさず退きて後言する」不忠を犯したと論じ、魏徴の忠言を深く納れる意を示した。

  • (孫甫の評より)魏公(魏徴)は忠直の名を歴代高からしめた。太平の世にあってなお小さな過ちを防ごうと諫諍を怠らなかった点に、輔相たる者の本分を見る。

  • (呂祖謙の評より)魏徴が説いた「十思」を太宗が終始貫けば、貞観の治にとどまらず堯舜の隆盛にも比しえたはずで、十思は孔子の九思と並んで万世の教えとなりうる。

編者按(戈直)

  • 魏徴は大事のみならず小事も、初年のみならず晩年も諫めを怠らなかった。二つの上疏は、隋の得失を鑑みることと、始めより終わりを全うすることを説いた点で表裏をなすと評す。

貞観十五年:天下を守る難易

  • 太宗が「天下を守るのは難しいか易しいか」と侍中に問うと、魏徴は「甚だ難しい」と答え、賢を任じ諫を受け入れることは君主も行うが、古来、憂危の間は賢を任じ諫を受けるが安楽になると寛怠に流れ、危亡に至ると答えた。安んじてなお懼れることこそ難事だとした。

編者按(戈直)

  • 太宗ほどの才で天下を取ることさえ易しかったのに、魏徴があえて「甚だ難し」と答えたのは、周の宣王・晋の武帝・玄宗・憲宗などが安逸により乱を招いた例に鑑みたもので、孔子が「一言興邦」を論じた故事に通じると評する。