- 要旨: 宋庠が『人物志』の校訂方針を述べ、著者劉邵と注者劉昞の伝記を、本伝から要点を抜いて記す。
校訂の経緯
- 『人物志』は魏の劉邵が著した三巻十二篇で、隋・唐の『經籍志』でも篇の順序は現行本と同じく、名家に分類される。十六国時代に燉煌の劉昞が重んじて初めて注解したが、伝本には誤りが多かったため、官私の諸本を合わせ、重複や後人の増補を除いて定本とした。
- 書証のない疑字は諸本の伝承を残し、軽々しく意改しない。ただし「簡暘而明砭」の「明砭」は書伝にも字書にも根拠ある意味がなく、魏晋以後の草書で「啓」が似た形になったため、「簡暢而明啓」の誤写ではないかと文寛夫は考えた。
劉邵の事績
- 劉邵、字は孔才、廣平郡邯鄲の人である。官書『魏志』など表記に異同があるが、「邵」は高・美の意で孔才と符合し、『法言』の「周公の才の邵」も根拠になるとして、この字に定めた。
- 建安年間、計吏として許へ行った。正旦の日食予告をめぐり、荀彧の座で廃朝・会同延期が論じられた際、梓慎・禆竈のような古の良史にも水火占の誤りがあり、『禮記』が日食を「諸侯が天子に旅見して礼を終えられない四事」の一つに数えるのは、変異を予測して朝礼を廃すためではないと論じた。荀彧は採用して朝会を通常どおり行い、実際に日食はなかった。
- 魏の黄初年間、尚書郎・散騎侍郎となり、詔を受けて五更の群書を類別し『皇覽』を作った。議郎庾嶷・荀詢らと科令を定め、『新律』十八篇と『律畧論』を作り、散騎常侍へ進んだ。
- 『趙都賦』を明帝に賞され、『許都賦』『洛都賦』を命じられた。当時は外に軍旅、内に宮室造営が盛んだったため、二賦はいずれも諷諫を含んだ。景初年間には都官考課のため七十二条と『畧說』一篇を作り、礼楽による風俗移行を説いて『洛論』十四篇を著した。
- 正始年間には経書を講じ、關内侯を賜った。『法論』『人物志』など百余篇を著し、没後に光禄勲を贈られた。散騎侍郎夏侯惠は上疏して才を称え、陳壽も「学籍を広く覧て文質ともに周洽」と評した。
劉昞の事績
- 劉昞、字は延明、燉煌の人である。十四歳で博士郭瑀に学んだ。郭瑀には弟子五百余人、経業に通じた者八十余人がおり、笄年の娘の婿を選ぶため別席を設けたところ、劉昞が進み出て沈着に「昞がその人です」と答え、妻に迎えた。
- 後に酒泉に隠居して州郡の召命に応じず、弟子は五百余人に達した。李暠が凉州を領すると儒林祭酒・從事郎に徴した。李暠が欠損した典籍を自ら補修した際、劉昞が代行を願うと、李暠は自ら手を執ることで人々に典籍を重んじさせるのだと答え、二人の会遇を孔明と玄徳になぞらえた。
- 撫夷護軍となり政務があっても読書をやめなかった。李暠が夜は休むよう勧めても、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」「老いの将に至らんとするを知らず」という孔子の言葉を引き、学問を続けた。
- 三史の繁雑さを縮めて『畧記』百三十篇八十四巻を著し、『燉煌實錄』二十巻、『方言』三巻、『靖恭堂銘』一巻を作り、『周易』『韓子』『人物志』『黄石公三畧』に注して世に行われた。
- 沮渠䝉遜が酒泉を平定すると秘書郎として注記を専管させ、西苑に陸沈觀を築いて自ら礼し、「玄處先生」と号した。学徒は数百、毎月羊酒を贈られ、牧犍には国師として自ら拝礼され、官属以下も北面して学んだ。
- 魏太武帝が凉州を平定して士庶を東遷させると、以前から名を聞いていたため樂平王從事中郎に任じた。後に帰郷を思い、道中で病没した。以上は劉邵・劉昞の本伝から要点を取ったものである。