蠻
- 蠻の種族は盤瓠の後裔とされ、江・淮の間に部落を広げ数州にまたがった(東は寿春、西は巴蜀、北は汝・潁に接する)。魏の代にはさほど脅威ではなかったが、晋末以降しだいに繁栄し寇暴化した。劉曜・石勒の乱後は北方の陸渾以南まで勢力を広げ、宛・洛は荒廃した。
- 道武帝が中山を平定すると声教が及び、泰常八年、蠻王梅安が渠帥数千を率い京師に朝し人質を求めた。始光中、安の侍子豹は安遠将軍・江州刺史・順陽公とされた。興光中、蠻王文武龍が降を請い、南雍州刺史・魯陽侯とされた。
- 延興中、大陽蠻首桓誕(桓玄の子、幼くして大陽蠻に流れ着き習俗に馴染んだ)が沔水以北・滍葉以南の八万余落を率いて内属、孝文帝は誕を征南将軍・東荊州刺史・襄陽王に任じ郡県自選を許した。太和四年、王師の南伐に前駆を務め、南征西道大都督として義陽を討ったが果たせず。太和十年、潁陽に移り、十六年に王から公に降格、十七年には征南将軍・中道大都督として竟陵を征したが遷洛のため停止。斉の田益宗が部曲四千余戸を率いて内属、雷婆思ら十一人も内徙を求め、詔で廩食が給された。誕は太和十八年に入朝し厚遇を受け、卒去に際し諡は剛。子の暉が跡を継ぎ、景明初、大陽蠻首田育丘ら二万八千戸が内附し四郡十八県が置かれた。
- 正始年間、魯陽蠻魯北燕らの反乱を李崇が討平し万余家を河北諸州・六鎮に徙したが、再度叛いて逃走した者は追討で殺し尽くされた。東荊州蠻樊素安が反乱し帝号を僭称、その弟秀安の反乱も李崇・楊大眼が討平した。梁の沔東太守田清喜が七郡三十一県・戸一万九千を率い内附、梁への討伐協力を申し出た。梁の永甯太守文雲生の六部も内附した。
- 永平初、東荊州表太守桓叔興(暉の弟)が招撫した大陽蠻一万七百戸が内附し、酈道元が郡県設置を検分した。叔興は延昌元年に南荊州刺史となり東荊州に隷した。梁による討伐(蔡令孫ら)を蠻首樊石廉と共に撃退し、清水戍の攻撃も阻んだ。叔興上表により東荊州への隷属を解かれた。
- 正光中、叔興は南に叛き、成龍強・田牛生ら別の蠻首が内附。梁の辺城王文僧明・田官德らも州ごと内属し官爵を授けられたが、義州は梁の裴邃に陥落。梁の田超秀の内附申し出は保留のまま超秀が死去し、部曲が内附した。六鎮・秦隴の反乱に乗じ二荊・西郢の蠻が大いに擾乱し、三鵶路を断ち都督を殺し襄城・汝水にまで及ぶ被害を出し、梁軍とも連年攻防を繰り返した。
- 冉氏・向氏・田氏などの大族は三峡に拠り水路を封鎖して荊蜀の往来を阻んだが、北周文帝(宇文泰)の伊・瀍平定で威が南に及び諸蠻は靡然として服した。大統五年、蔡陽蠻王魯超明が内属し南雍州刺史を世襲。十一年、蠻酋梅勒特が朝貢したが、田杜青らの擾乱は楊忠が討平。杜青和は巴州刺史を自称して内附後に再叛し東梁州を攻囲、唐州蠻田魯嘉も豫州伯を自称して叛いたが王雄・権景宣らが討平した。
- 廃帝初、蠻首樊舍が内附し督淮北三州諸軍事・淮州刺史・淮安郡公とされた。于謹らの江陵平定に伴う蠻の動揺は豆盧甯・蔡祐らが討平。恭帝二年、宜人王田興彦・北荊州刺史梅季昌らが款附し開府儀同三司等を授けられたが、譙淹の扇動による向鎮侯・向白虎らの梁への呼応、向五子王の信州攻略、田烏度・田唐らの江路遮断、文子榮の汶陽郡占拠と仁州刺史自称、蒲微の逆命を田弘・賀若敦・潘招・李遷哲らが討平した。周武成初、文州蠻の反乱も鎮圧された。
- のち冉令賢・向五子王らが白帝を陥し開府楊長華を殺して蜂起、元契・趙剛らの討伐でも元凶は除けなかった。天和元年、開府陸騰が王亮・司馬裔らと共に討伐に赴いた。令賢は水邏城の防備を固め涔陽蠻とも結んだが、陸騰は「懸軍で険塁を攻めても勝てず敵の気勢を増すだけ」として先に江南の十城を落とし(王亮の攻略で八城を旬日で陥し賊帥冉承公らを捕獲)、続いて水邏城を攻めた。険峻な石壁城を越え、蠻帥冉伯犁・冉安西を懐柔して案内させ、龍真(令賢の兄、石勝城守備)も寝返らせて内応させ、水邏城を陥落させて令賢を捕らえ、司馬裔も別に二十余城を攻略し冉三公らを捕らえた。陸騰は骸骨を積んで京観とし、以後蠻蜒は恐れをなして反抗をやめた。
- 石墨城の向五子王・雙城の子寶勝も王亮・司馬裔が包囲・撃破し、五子王・寶勝を捕らえ諸向の首領を斬った。信州は劉備の故宮城南に移し、巫縣・信陵・秭歸にも城を築いて守りを固めた。天和六年、蠻渠冉祖裛・冉龍驤の反乱も趙訚が討平し、以後群蠻は恐れて寇をなさなくなった。
獠
- 獠は南蠻の別種で、漢中から邛・笮に至る川洞に広く分布する。氏族の別も名字もなく、長幼の順で「阿謨・阿段」(男)「阿夷・阿等」(女)のように呼ばれる。樹上に「幹闌」と呼ぶ住居を構え、家口に応じて大小がある。多くは推挙された長者を王とするが遠隔統治はできず、父子相続する。太鼓・角笛一対を王が持ち子弟に吹奏させる。
- 好んで殺し合い、水中で刀を持ち魚を刺す潜水漁法や、口で噛み鼻で飲む独特の食法を持つ。死者は棺を立てて埋葬する。禽獣に似た気性で、父子でも武器を持つ者から先に殺す。父を殺した者も犬一頭で謝罪すれば恨みを解く風習があり、報復には殺して食すこともある。親戚同士でも売り買いし、逃げても捕らえられれば賤隷として服従する。竹の簧を鳴らして音楽とし、鮮明な細布を織る。鬼神を畏れ淫祀を尊び、殺した美髯の者の顔皮を剥いで竹籠に入れ「鬼」として祀る風習、銅製の「銅爨」(薄く軽い調理器具)などが記される。
- 建国中、李勢の蜀に諸獠が出て巴西・渠川・広漢・陽安・資中を攻め益州の大患となり、これが李勢滅亡の一因となった。桓温の蜀平定後も制圧できず、蜀人が東流した後の空いた山地に獠が広がった。梁・益二州は毎年獠を討ち利を得た。
- 正始中、夏侯道遷の漢中内附後、宣武帝は邢巒を梁・益二州刺史とし夏人に近い獠は安堵したが山中の獠は編戸に入らなかった。羊祉は酷虐で人望を失い、梁の范季旭・獠王趙清荊の侵攻を統軍魏胡が撃退。姜白・王法慶の反乱も征虜将軍が討平。傅豎眼は施恩布信で獠の心を得たが、後任の元法僧の貪残で獠は反乱し梁と結んで晋壽を包囲、豎眼の再任で鎮静化した。元桓・元子真の代は無徳無功で獠は苦しんだ。梁・益二州の統治のため巴州を置き巴酋厳始欣を刺史とし、隆城鎮(獠二十万戸を管掌)も設けた。北獠は租布を納め外部と交易したが巴州の生獠は不服従で、頭王が節目ごとに刺史に謁見するのみであった。
- 孝昌初、始欣の貪暴に諸獠が反乱し巴州を包囲、山南行台魏子建の説得で解散したが、始欣は梁の陰子春の扇動で叛意を固めた。族子の愷(隆城鎮将)がこれを察知し梁の使者を捕らえ証拠を行台に送った。魏子建が傅豎眼の子敬紹の収賄で始欣を帰任させたところ、始欣は愷を攻め滅ぼし梁に叛いた。梁将蕭玩の援軍も梁・益二州の討伐軍に大破され、始欣は捕らえられ、傅曇表が刺史となった。のち元羅の漢州陥落を最後に音信は絶えた。
- 北周文帝の梁・益平定後、華人と雑居する獠は賦役に服したが、暴発を繰り返し毎年討伐(「圧獠」と呼ばれた)が行われ、獠出身の奴隷が広く売買された。恭帝三年、陵州木籠獠の反乱を陸騰が討平。周保定二年、鉄山獠の反乱・江路遮断も陸騰が三城を攻略して鎮圧。天和三年、梁州恆棱獠の反乱には総管長史趙文表が、軍吏の分散攻撃案を退け一道からの進軍と恩威併用の策で対処、険路を選んで敵の伏兵を回避し、大蓬山下で降伏を導いた。以後租税も滞りなく徴収され、文表は蓬州刺史として人望を得た。
- 建德初、李暉が蓬・梁州総管となると諸獠も服したが、獠は険阻な地に拠って増え続け、屢々討伐しても根絶できず、性は禽獣に近く諸夷の中で最も懐柔しがたいとされた。
林邑
- 林邑の先祖の由来は『南史』に詳しい。国土は数千里に及び香木・金宝を多産、産物は交趾とほぼ同じ。磚と蜃灰で城を築き東向きの門を設ける。尊官は西那婆帝・薩婆地歌の二等、属官三等(倫多姓・歌倫致帝・乙地伽蘭)、外官は二百余部に分かれ弗羅・可輪が牧宰に相当する。王は金花冠・朝霞布の衣を纏い、良家の子弟二百余人が金装の武具で侍衛する。竹製の弩に毒矢を用い、琴・笛・琵琶・五弦などの楽器は中国とほぼ同じ。人は深目高鼻で髪は縮れ黒い。婚姻・葬送(身分により埋葬・水葬・火葬の別があり、骨は金・銅・瓦の甕に収め海や江に沈める)、七日ごとの弔いの儀礼などが記される。仏教が篤く、文字は天竺と同じ。
- 隋文帝の陳平定後、林邑は方物を献じたが後に朝貢が絶えた。群臣が林邑の奇宝を語ったことから仁壽末、大将軍劉方が驩州道行軍総管として甯長真・李暈・秦雄らと共に討伐、王梵志の巨象部隊に苦戦したが小坑を掘り草で覆う計略で象を陥れ大破、都に入り金製の廟主十八枚(歴代十八世の証)を得た。班師後、梵志が故地を回復し謝罪の使者を送り、以後朝貢が続いた。
赤土
- 赤土国は扶南の別種、南海の中にあり水行百余日で至る。都の土色が赤いことに由来する国名で、東は波羅刺国、西は婆羅娑国、南は訶羅旦国、北は大海に接し方数千里。王は瞿曇氏、多利富多塞(父が出家し位を譲った)が十六年間在位し三妻を持つ。都の僧祗城は三重の門を持ち菩薩・飛仙の絵と金花鈴で飾られ、婦人による奏楽・献花の儀礼が行われる。王宮の重閣・金の龕・鏡・香炉・伏牛像・宝蓋などの荘厳、官制(薩陀加邏・陀拏達叉・迦利密迦が政事、俱羅末帝が刑法を掌る)が記される。
- 風俗は穿耳断髪・香油を塗る、仏教を敬い婆羅門を重んじる、婚姻は五日間の宴の後に父が娘の手を執って婿に授け七日で結ばれる、少子のみ親と同居する等が記され、葬送は水辺に竹木の棚を組んで火葬し灰を水に流すが王のみ金瓶に収め廟に安置する。気候は温暖で年中稲・穄・豆類を産し、甘蔗酒・椰子酒を醸す。
- 隋煬帝の代、大業三年、屯田主事常駿・虞部主事王君政らが赤土への使者に選ばれ五千段の贈物を携え出航、焦石山・陵伽缽拔多洲・師子石・狼牙須国を経て赤土に達した。王は婆羅門鳩摩羅を遣わし舟三百艘で出迎え、王子那邪迦が礼を尽くして駿らを迎え、天竺楽の演奏や盛大な宴でもてなした。帰路には金芙蓉冠・龍腦香などの方物を携えた那邪迦が同行し、大業六年春に弘農で煬帝に謁見、駿らは執戟都尉に任じられた。
真臘
- 真臘国は林邑の西南、元は扶南の属国で日南郡から舟行六十日。王は刹利氏、名は質多斯那、その死後子の伊奢那先が伊奢那城(郭下二万余家)に都した。城内の大堂で聴政し、三十の大城にそれぞれ部帥を置く官制は林邑と同じ。
- 王は三日に一度朝を聴き、五香七宝の床・宝帳・金鈿の壁などで飾られた玉座(赤土に類する)に座す。金宝の冠・纓絡・耳飾りを纏い、五大臣(孤落支・相高憑・婆何多陵・舍摩陵・髯羅婁)以下が階下で三度稽首する礼が行われる。参半国・硃江国と友好し、林邑・陀桓と交戦した。
- 王位は正妻の子のみが継ぎ、即位時に他の兄弟は指を切るか鼻を削がれ官職には就けない。人は小柄で色黒く、拳髪垂耳。右手を浄、左手を穢とし、経咒を読誦して食前食後に楊枝で歯を清める。婚姻・葬送(五香木での火葬、金銀瓶か瓦に灰を収め水に流す、あるいは山中に晒す風習も)が記される。
- 気候は温暖多湿で瘴癘があり、稲・粱を産し、婆羅那娑樹・庵羅樹など特異な果樹が多い。海には建同(象鼻状の吸水噴出をする四足魚)・浮胡魚などの巨魚が棲む。五・六月には疫病除けに白豚・白牛・羊を祀る。陵伽缽婆山の神祠、城東の婆多利神への人肉供犠、王による毎年の生贄殺しなど、鬼神信仰が篤い。仏法・道士をともに敬う。
- 隋大業十二年、朝貢したが以後絶えた。
婆利
- 婆利国は交趾から海を渡り赤土・丹丹を経て至る。東西四月行・南北四十五日行。王は刹利邪伽氏、名は護濫那婆。官は独訶邪拿・独訶氏拿。国人は投輪(鏡状で外周が鋸状の武器)の投擲に長け百発百中、他の兵器・風俗は真臘、産物は林邑に類する。刑罰は殺人・盗みに手切り、姦通に足鎖(一年)を科す。月末に酒肴を盤に載せ流水に浮かべる祭祀、十一月の大祭、珊瑚の産出、人語を解く鳥「舎利」の伝承が記される。
- 隋大業十二年、朝貢したが後に絶えた。
- 同時期、南方には丹丹・盤盤の二国もあり方物を貢ぎ、風俗・産物はほぼ同様であった。
史論
- 論曰:『礼記』に「南方を蛮といい、火食せぬ者もいる」とある。その種族は一つではなく、華人と雑居する者を蜒・獽・俚・獠・厓と呼び、君長を持たず山洞に住み、断髪文身し攻討を好む。秦が三楚を併せ、漢が百越を平らげて以来、地は丹徼・日南に及び、水陸ともに郡県に組み込まれた。南北分裂の時代には各地で割拠が異なり、蛮・獠の族はそのつど去就を変えた。林邑・赤土・真臘・婆利に至っては江嶺を隔て中国と交わらなかった。
- 隋が天下を平定し、煬帝が業を継ぐと威は八荒に及び、遠方への野心から流求・林邑に兵を進め、秦漢を超える威を殊俗に示した。しかし域外での功績は域内の破綻を救うものではなかった。『左伝』に「聖人にあらざれば、外に平安なら必ず内に憂いあり」とあるが、まことにその通りである。
- 大業年間、南方から朝貢した国は十余国あったが、その事跡の多くは失われ、今なお知られるのは四国のみである。