北史卷九十六 氐・吐谷渾・宕昌・鄧至・白蘭・党項・附國・稽胡

氐――族源と仇池建国

  • 氐は西方の異民族の一支族で、白馬とも呼ばれる。夏・殷・周の三代には自分たちの君長を持ち、代替わりごとに中国の天子に朝見していたとされ、『詩経』にも氐・羌が朝貢を欠かさなかったと詠まれている。
  • 秦・漢以来、岐山・隴山以南、漢水以西に居住し、独自の首長を立てていた。前漢の武帝は中郎将の郭昌・衛広を遣わしてこれを平定し、その地に武都郡を置いた。汧水・渭水から巴・蜀にかけて種族が繁茂し、白氏・故氐などと呼ばれ、それぞれ侯王を称して中国の封拝を受けた。
  • 後漢の建安年間、部落大帥の楊騰が現れ、仇池(周囲百頃、断崖絶壁で高さ七里余、道は三十六回も曲がりくねり、山上に泉があって塩も産した)に拠点を移した。楊騰の子孫の千萬は、魏から百頃氐王に任じられた。

氐――西晋期の楊氏(茂搜・難敵・毅・初・国・世・纂)

  • 千萬の孫の飛龍は子がなく、甥の令狐茂搜を養子とした。茂搜は西晋の恵帝の元康年間に輔国将軍・右賢王を自称し、氐族に王として推戴された。関中から流入した人々も多く彼を頼った。西晋の愍帝は茂搜を驃騎将軍・左賢王とした。
  • 茂搜の死後、子の難敵が位を継ぎ、弟の堅頭と部曲を分けた。難敵は左賢王を称して下弁に、堅頭は右賢王を称して河池に屯した。難敵の死後、子の毅が立ち、後趙の石季龍(石虎)に臣従しつつ東晋にも臣を称した。
  • 毅の一族の楊初が毅を殺して仇池公を自立し、石季龍、のち東晋に服属した。永和十年(354年CE)、東晋は初を天水公に改めた。翌年、毅の末弟の宋奴が甥の梁三王に初を暗殺させたが、初の子の国が宋奴・梁三王を誅殺し、再び仇池公を自立した。桓温は国を秦州刺史に、その子の安を武都太守に上表した。
  • その後、国の従叔の俊が国を殺して自立、国の子の安は苻生に叛いて俊を殺し、東晋に再び服属した。安の死後、子の世が仇池公となり、東晋太和三年(368年CE)に秦州刺史に任じられ、弟の統は武都太守となった。世の死後、統は世の子の纂を廃して自立(統は一名を徳という)。纂は党を集めて統を殺し、仇池公を自立して簡文帝に使者を送り、秦州刺史に任じられた。東晋咸安元年(371年CE)、前秦の苻堅が楊安を派遣して纂を討ち、これを破って人民を関中に移し、仇池の地は空になった。

氐――楊定・楊盛・楊玄(東晋末~北魏初期)

  • 宋奴の死後、子の仏奴・仏狗は前秦の苻堅に逃れ、堅は娘を仏奴の子の定に嫁がせ、尚書・領軍に任じた。苻堅の敗死後、関右が乱れると定は隴右に逃れ、暦城に居を移し(仇池から百二十里)、百頃に食糧を蓄えて夷夏千余家を招き、龍驤将軍・仇池公を自称し東晋に服属した。孝武帝はその自号を認め、のちに秦州刺史とした。北魏の登国四年(389年CE)、定は秦州の地を領して隴西王を称したが、後に乞伏乾帰に殺され、子はなかった。
  • 仏狗の子の盛が監国として仇池を守っていたが、統事の後、征西将軍・秦州刺史・仇池公を自称し、定に武王の諡を贈った。氐・羌の諸部を二十の護軍に分けて鎮戍とし郡県は置かず、漢中の地も得て東晋に服属した。北魏の天興初年(398年CE以降)、朝貢して征南大将軍・仇池王に任じられたが、後秦の姚興に阻まれ通貢は不定期となった。宋の永初年間、宋の武帝が盛を武都王に封じた。盛の死後、私諡は恵文王。子の玄が位を継いだ。
  • 玄(字は黄眉)は征西大将軍・開府儀同三司・秦州刺史・武都王を称し、宋に服属しつつ東晋義熙の年号を奉じ続け、後に宋の元嘉の正朔を用いるようになった。父の盛の遺言に従い宋に忠実だった。北魏の始光四年(427年CE)、太武帝は大鴻臚の公孫軌を遣わして玄を征南大将軍・督梁州刺史・南秦王とした。玄は北魏の内藩に準じる待遇を願い出て許された。玄の死後、私諡は孝昭王、子の保宗が位を継いだ。

氐――楊保宗の廃立と楊難当

  • 玄は臨終に弟の難当へ国事を託そうとしたが、難当は固辞して保宗の擁立を求めた。保宗の即位後、難当の妻の姚氏が「幼君を立てるのは危うい」と説き、難当は保宗を廃して自立、宋に服属した。難当は保宗を鎮南将軍として石昌に鎮させ、次子の順を鎮東将軍・秦州刺史として上邽を守らせたが、保宗が難当襲撃を謀って発覚し捕らえられた。
  • この頃、仇池が豊かなため流民が多く帰属し、許穆之・郝惔之らは司馬姓を僭称して晋室の近戚を名乗った(惔之は後に殺害)。宋の梁州刺史甄法護の失政により宋の文帝は蕭思話を後任としたが、難当は思話の赴任前に梁州を襲い漢中を得た。のち思話の司馬蕭承之が梁州を平定し、難当は再び宋に服属した。難当は保宗を許して董亭に鎮させたが、保宗は兄の保顕と共に北魏の京師に帰順し、太武帝は保宗を征南大将軍・秦州牧・武都王に任じて公主を娶らせ、保顕を鎮西将軍・晋寿公とした。北魏は大鴻臚の崔頤を遣わし難当を征南大将軍・儀同三司・領護西羌校尉・秦梁二州牧・南秦王とした。
  • 難当は後に大秦王を自称し、建義の年号を立て、王后・太子を置き百官を天子に擬したが、宋への貢献は続けた。国内の大旱・災異により大秦王の号を武都王に戻した。北魏の太延初年、難当は上邽に拠ったが、太武帝は樂平王丕らを遣わして上邽を取らせ、難当は詔に従った。しかし難当は再び南下し、宋の益州涪城・巴西を攻め、雍州流民七千余家を仇池に連れ帰った。宋の文帝は激怒し裴方明らを派遣、難当は敗れて仇池を捨て千余騎で上邽に逃れた(太武帝は中山王辰に迎えさせた)。裴方明は仇池を得て保宗の弟の保熾に守らせたが、河間公の斉がこれを撃退した。

氐――楊文徳・楊保宗の子孫と武都王国の興亡

  • 保宗は上邽ついで駱谷に鎮したが、弟の文徳の勧めで叛乱を企て発覚、斉が保宗を京師に送り難当が殺すよう命じられた。氐・羌は文徳を立てて濁水に屯させ、文徳は征西将軍・秦河梁三州牧・仇池公を自称して宋に援を求め、武都王に封じられた。援軍の房亮之らは斉に捕らえられ、文徳は葭蘆に逃れ武都・陰平の氐がこれに帰した。淮陽公の皮豹子らが討伐し文徳は漢中に走り、妻子・僚属・資糧を奪われた。保宗の妻(公主)は京師に送られ賜死。彼女は「私も一国の母」と反論して罪に問われた逸話が残る。
  • 文成帝の時代、難当は営州刺史となり、後に外都大官に転じて死去、忠と諡された。子の和は父に従い北魏に帰順し仇池公に封じられた。和の子の徳子が爵位を継いで早世、子の小眼が継いで公に降格され天水太守となり死去。小眼の子の大眼は別に伝がある。小眼の子の公熙が爵位を継ぎ、正光年間に叛乱を企てるも発覚し、賄賂で罪を免れたが、後に秦州の反乱鎮圧中に戦死した。
  • 文徳はのち漢中から汧・隴に入り陰平・武興の地を得たが、宋の荊州刺史劉義宣に殺された。
  • 保宗の子の元和は宋に逃れ武都・白水太守となったが、城を挙げて北魏に帰順、文成帝は征南大将軍・武都王に任じ京師に移住させた。
  • 元和の従叔の僧嗣は葭蘆で武興王を自称、その死後、従弟の文度が武興王を自立して帰順したが再び叛き、征西将軍皮歓喜に討たれ斬られた。文度の弟の弘(小名は鼠。名は献文帝廟諱に触れるため小名で呼ばれた)は武興王を称し、謝罪して献文帝に貢献、南秦州刺史・征西将軍・西戎校尉・武都王に任じられた。鼠の死後、従子の後起が継ぎ、その死後は鼠の子の集始が征西将軍・武都王となり、南秦州刺史・安南大将軍・領護南蛮校尉・漢中郡侯・武興王に任じられ厚遇された。仇池鎮将の楊霊珍に武興を襲われ集始は南斉に亡命したが、景明初年に降り武興に戻った。死後、子の紹先が立ち、集始には安王の諡が贈られた。

氐――楊紹先と東益州の設置

  • 紹先が幼かったため叔父の集起・集義が政務を握った。夏侯道遷が漢中を挙げて北魏に帰順した際、梁の白馬戍主尹天保がこれを包囲し、集起・集義は保身のため援けなかったが、集始の弟の集朗が兵を率いて天保を破り漢川を守った。集義は梁・益両州が定まると武興の存続が危ぶまれると考え、氐族を煽動して紹先に僭号を勧め、集起・集義も王を称し梁に援を求めた。安西将軍邢巒配下の傅豎眼が武興を攻略し紹先を捕らえて京師に送り、その国は滅んで武興鎮(のち東益州と改称)となった。
  • 前後の鎮将・刺史(唐法楽、杜纂、邢豹)の失政により氐豪の仇石柱らが反乱を起こし、朝廷はこれを憂慮した。正光年間、魏子建が刺史として恩信をもって招撫し、遠近が帰服した。後任の唐永の代になると再び氐人が反乱し、武興の地は再び氐族のものとなった。
  • 北魏末の混乱で紹先は武興に戻り再び王を自立したが、宇文泰(周文)が秦・隴を平定すると籓を称し妻子を人質に送った。大統元年(535年CE)、周文は紹先の娘を魏帝の妃とする許可を上奏した。紹先の死後、子の辟邪が立った。

氐――西魏・北周期の反乱鎮圧

  • 大統四年(538年CE)、南岐州の氐苻寿が反乱し武都を陥し太白王を自称、大都督侯莫陳順・渭州刺史長孫澄がこれを討ち降した。九年、清水の氐酋李鼠仁が乱を起こし、氐帥梁道顕も叛いて南由を攻めたが、周文は典簽趙昶を遣わして慰諭し、鼠仁らは相次いで帰順した。十一年、武興に東益州を置き辟邪を刺史とした。十五年、安夷の氐が再び叛き、郡守の趙昶が首謀者二十余人を斬って鎮定、南秦州事を摂行させた。氐帥蓋闘らが北谷に拠って反乱し、西方の宕昌の羌獠甘と結んだが趙昶が説諭と武力で討平した。興州の叛氐が南岐州を侵し刺史叱羅協が急を告げると、趙昶が救援し大破した。
  • 陰平に拠っていた氐酋楊法深は北魏孝昌年間に内附し、廃帝元年(552年CE)に黎州刺史となったが、二年、楊辟邪が反乱すると氐族もこれに応じ、叱羅協・趙昶が討平した。周文は宇文貴を興州刺史として威名により氐族を服させた。楊法深は尉遅迥に従って蜀を平定した後、一族の楊崇集・楊陳侳と抗争を繰り返し、趙昶が調停して部落を分置した。
  • 恭帝末、武興の氐が利州を包囲し、鳳州固道の氐の魏天王らも呼応したが、大将軍豆盧甯らが討平した。北周の明帝の時代、興州の段吒や下辯・柏樹二県の民が反乱し蘭皋戍を破り、氐酋の姜多も廚中氐を率いて落叢郡を陥したが、趙昶がこれを討平し段吒を斬った。陰平・葭蘆の氐が廚中と呼応して屯聚したため、趙昶は精鋭を率いて奇襲し七柵を破って渠帥を誅し二郡を降した。後に廚中の氐が再び寇掠すると、儀同の劉崇義・宇文琦が討伐し、諸氐は平定された。
  • 王謙の挙兵の際、沙州の氐帥開府楊永安が謙に応じて反乱、大将軍達奚儒が討平した。

吐谷渾――族源と建国伝説

  • 吐谷渾は遼東鮮卑の徒河渉帰の子。渉帰には二子あり、庶長子が吐谷渾、末子が若洛廆(後の慕容氏)である。渉帰の死後、若洛廆が部落を継いだ。渉帰は吐谷渾と若洛廆にそれぞれ七百戸を分与したが、両者の馬が喧嘩したことをきっかけに諍いが生じ、吐谷渾は「先公の定めで異部となった以上、遠く離れよう」と述べて西方へ移った。若洛廆が後悔して呼び戻そうとしたが、馬は西へ突き進み戻らず、吐谷渾は天意と受け止めて西に移り、陰山に拠った後、隴を越えて枹罕に至った。若洛廆は兄を偲び『阿於歌』を作り、後の代々の楽曲となった。
  • 吐谷渾は枹罕から甘松、南は昂城・隴涸、洮水以西の白蘭に至る数千里を、水草を追って遊牧した。西北の諸種族はこれを阿柴虜と呼んだ。

吐谷渾――吐延・葉延から樹洛幹まで

  • 吐谷渾の死後、六十人の子の中で長子の吐延が継いだ。吐延は昂城の羌酋姜聡に刺され、臨終に大将の絶抜泥へ幼い子の葉延を託し、白蘭への退避を命じて死んだ。
  • 葉延は十歳で草人形を作り姜聡と名付けて毎朝射抜くほどの孝心を示し、書伝を読んで曾祖父の弈洛韓が昌黎公に封じられたことから、『礼』の規定により王父の字「吐谷渾」を氏とした。
  • 葉延の死後、子の碎奚が立つも三人の弟の専権を抑えられず、大将らが弟たちを誅殺した。碎奚は憂いのうちに子の視連を世子として莫賀郎(父の意)と号させ政務を委ね、死去。視連は父への孝を守り遊興を慎んだが十五年で死去、弟の視羆が立った。視羆の死後、子の樹洛幹らが幼かったため弟の烏紇提が立ち、樹洛幹の母を妻として慕璝・慕利延の二子をもうけた。烏紇提の死後、樹洛幹が立ち車騎将軍を自称した(東晋義熙初年に当たる)。

吐谷渾――阿豺の遺訓と慕璝の南朝宋・北魏通交

  • 樹洛幹の死後、弟の阿豺が立ち驃騎将軍・沙州刺史を自称した(境内に草木の生えない黄沙の地があったことから沙州と号した)。阿豺は氐・羌を併合して数千里の強国となり、西強山に登って墊江の水源を問い、「水も帰るところを知る、我も塞外の小国とはいえ帰する所がないはずがない」と述べ、宋に使者を送り方物を献じた。宋の少帝は澆河公に封じ、文帝はさらに加除の詔を発したが、阿豺は急死した。臨終、諸子二十人にそれぞれ一本の矢を持たせ、母弟の慕利延に一本を折らせ容易に折れることを示し、次に十九本を束ねて折らせようとして折れないことを示し、「力を合わせよ」と諭して慕璝への継承を遺言し死去。慕璝が立った。
  • 慕璝は宋に表を送り隴西公に封じられ、秦・涼の亡命者や羌戎の雑夷五、六百落を招集し、南は蜀・漢、北は涼州・赫連と交わって勢力を拡大した。太武帝の時代、慕璝は侍郎謝大寧を遣わして北魏に帰順を表し、赫連定を捕らえて京師に送った。太武帝は大将軍・西秦王に策拝した。
  • 慕璝は表文で、爵位は高いが土地・恩賞が伴わないことを訴え、また戦乱で離散した秦・涼の民の返還を願った。太武帝は太尉長孫嵩ら二百七十九人の朝議にかけ、辺境の君主への処遇は前例に基づき土地の拡大までは求めがたいとしつつも、金城・枹罕・隴西の地は既得のものと認め、貢物への返礼も増やすとした。以後慕璝の朝貢は簡略化したが、宋にも通じて隴西王に封じられた。

吐谷渾――慕利延の西遁と入于闐

  • 太延二年(436年CE)、慕璝の死後、弟の慕利延が立ち、太武帝は慕璝に恵王の諡を贈り、慕利延を鎮西大将軍・儀同三司・西平王に、慕璝の子の元緒を撫軍将軍に任じた。慕利延は宋からも河南王に封じられた。太武帝の涼州親征の際、慕利延は恐れて沙漠へ西遁したが、赫連定を捕らえた功をもって太武帝に召還され帰還した。
  • 慕利延の兄の子の緯代は慕利延に害されることを恐れ帰順を図ったが発覚し殺され、その弟の叱力延ら八人が京師に逃れ討伐を要請、太武帝は晋王伏羅に討たせた。伏羅軍は大母橋に至り、慕利延の兄の子の拾寅は河西に敗走、慕利延自身は白蘭に逃れた。従弟の伏念や長史孚呖鳩黎ら一万三千落が帰降した。太武帝は再び征西将軍・高涼王那らに白蘭を討たせ、慕利延はついに于闐国に入りその王を殺害(死者数万)、さらに南は罽賓を征した。宋に使者を送って援を求め方物を献じたが、七年後に旧地へ戻った。

吐谷渾――拾寅・伏連籌の北魏との攻防

  • 慕利延の死後、樹洛幹の子の拾寅が立ち伏羅川に都し王者を気取った。北魏の正朔を奉じ、宋からも河南王に封じられ、太武帝は鎮西大将軍・沙州刺史・西平王とした。後に拾寅は険遠を頼んで恭順を欠くようになった。
  • 文成帝の時代、定陽侯曹安は拾寅征討を進言。かつて晋王伏羅・高涼王那の遠征でも大戦果はなく国家の関心事ではないとの議論もあったが、曹安の作戦案が採用され、陽平王新成・建安王穆六頭らが南道、南郡公李惠・給事中公孫抜・曹安が北道から討伐、拾寅は南山に逃れ、諸軍は追撃を断念して駝馬二十余万を得て帰還した。
  • 献文帝はさらに上党王長孫観らに討たせ、曼頭山で拾寅を撃破。拾寅は蕃籍への復帰を願うも献文帝はその使者を幽閉し許さなかった。拾寅の部落が飢饉に見舞われ澆河に侵掠すると、皮歓喜・長孫観らが討伐し、拾寅は子を軍門に遣わして謝罪、献文帝は詔で切責しつつ人質を求めた。拾寅の子の斤が入侍したが献文帝はすぐに帰した。その後も拾寅は辺境を侵し、洮陽の返還を求める表を献文帝に送り、以後は歳ごとに職貢を修めた。
  • 太和五年(481年CE)、拾寅の死後、子の度易侯が立ち、後に宕昌を伐って詔で咎められ悔い改め、以後奉詔した。度易侯の死後、子の伏連籌が立ち、孝文帝への入朝を病と称して拒み洮陽・泥和城を修築した。文明太后崩御の際の弔問が不敬とされたが、孝文帝は貢物を絶つことなく寛容に処した。後に枹罕の二戍(洮陽・泥和)を魏が接収した際、伏連籌は世子の賀魯頭を朝貢に送り、使持節・都督西垂諸軍事・征西将軍・領護西戎中郎将・西海郡開国公・吐谷渾王に任じられた。
  • 宣武帝の初年、伏連籌は天朝を模して官制・称号を独自に整え他国に対して尊大にふるまい、詔で戒められた。正光末、秦州の莫折念生の反乱で河西の路が絶えた際、伏連籌は涼州刺史宋穎の救援要請に応じ、涼州を保全した。以後、関徼が通じなくなり貢献は絶えた。

吐谷渾――誇呂の可汗号と隋との抗争

  • 伏連籌の死後、子の誇呂が立ち初めて可汗を自称、伏俟城(青海西十五里)に居した。城郭を持ちながら常には氈帳で水草を追う暮らしを続けた。国土は東西三千里、南北千余里。王・公・僕射・尚書・郎中・将軍などの官制を持ち、金獅子の座に坐し、后は母尊と呼ばれた。
  • 風俗は華夏に類似する部分もあるが、婚姻に貧者は女性を盗むこともあり、刑罰は殺人・馬盗が死罪、その他は贖罪や杖刑とされた。青海(周囲千余里)では冬に牝馬を離島に放ち春に妊娠した仔馬を「龍種」と呼び珍重、波斯の草馬から生まれた驄馬が一日千里を走ったという「青海驄」の伝説も記される。
  • 東魏の興和年間、誇呂は使者を送って通好し、婚姻を求めて済南王匡の孫女が広楽公主として嫁いだ。西魏の大統初年にも通好、廃帝二年(553年CE)に西魏の大軍が姑臧に至ると誇呂は震え貢物を献じた。同年、涼州刺史史寧が使節を待ち伏せて多くを捕獲、恭帝三年(556年CE)には史寧と突厥の木杆可汗が誇呂を撃破、妻子を虜にした。北周の武成初年、誇呂は再び涼州を侵したが賀蘭祥・宇文貴に討たれ洮陽・洪和二城を奪われた。保定・天和年間には朝貢が続いたが、建徳五年(576年CE)の国内大乱では武帝が皇太子を派遣して討たせ、誇呂は伏俟城から逃走した。宣政初年、趙王の他婁屯が来降したのを最後に朝献が絶えた。
  • 隋の開皇初年、弘州侵犯を機に隋は元諧に討伐させ、誇呂は名王十三人と共に降った。高寧王移茲裒が河南王に封じられ降衆を統べた。その後も辺境侵犯が続いたが、州刺史皮子信の戦死や汶州総管梁遠の撃退などが記録される。
  • 誇呂は在位百年に及び、しばしば怒りにまかせて太子を廃殺した。太子が誇呂を捕らえて隋に降ろうとする陰謀が発覚して殺され、少子の嵬王訶が太子となったが、彼もまた誇呂に誅殺されることを恐れて隋に投降を図った。文帝はこれを慰撫しつつ深入りを避けた。開皇八年(588年CE)、名王拓拔木弥の帰化要請にも文帝は軍事介入を避けた。移茲裒の死後、弟の樹帰が後を継いだ。隋の陳平定後、誇呂は畏怖して寇掠をやめた。
  • 開皇十一年、誇呂が死去、子の世伏が甥の無素を送って称藩し方物を献じ、娘を後宮に入れることを願ったが文帝は許さなかった。刑部尚書宇文弼を派遣して撫慰、開皇十六年、光化公主を世伏に嫁がせた(公主を天后と称する上表は却下)。
  • 翌年、国内で大乱が起き世伏が殺され弟の伏允が立った。以後朝貢は続いたが情報を探る様子が見えた。煬帝の即位後、伏允の子の順が入朝。鉄勒の犯塞をきっかけに煬帝は馮孝慈を出撃させたが敗れ、鉄勒は謝罪して吐谷渾討伐に転じ、これを大破。伏允は西平に逃れ、煬帝はさらに観徳王雄・宇文述に討たせて大勝、伏允は山谷に逃れ旧地は隋の版図(西平臨羌城以西、且末以東、祁連以南、雪山以北、東西四千里、南北二千里)となり郡県鎮戍が置かれた。順は帰されず、伏允は数千騎で党項に寄寓した。煬帝は順を主に立てて玉門から送り出したが、部下に泥洛周が殺され順は帰らずじまいとなった。大業末、天下大乱に乗じて伏允は旧地を回復し河右を侵し続けた。

吐谷渾――周辺の小国(乙弗勿敵・契翰・可蘭・女王国など)

  • 吐谷渾の北には乙弗勿敵国があり、周囲千余里の屈海があった。万落の民は風俗を吐谷渾と共にしつつ五穀を知らず魚と蘇子を食した。
  • 契翰の一部も風俗を同じくし、特に狼が多い。
  • 白蘭山の西北に可蘭国があり、五色・五声を解さない未開の民で、大家畜のみを養い、戦を知らず異人を見れば逃げ去る臆病な性質だった。
  • 白蘭西南二千五百里、大嶺と四十里の海を隔てて女王国があり、万余落の民が定住し桑麻・五穀を作り、女性を王としていた。使節の往来はなくその伝聞も不確かとされる。

宕昌――風俗と梁勤一族の朝貢

  • 宕昌羌は三苗の末裔とされ、周の武王の殷討伐に従った八国の一つに数えられる。前漢には先零・焼当などが辺境の脅威となった。東は中華、西は西域に接し南北数千里、姓ごとに部落を分かち酋帥は統一されず、宕昌もその一つ。定住民で織物の家屋に住み、法令や徭賦はなく戦時のみ集結、獣皮の衣で犛牛・羊・豚を飼育した。継母や嫂を妻とする風習、文字を持たず草木の栄枯で歳時を数えるなど、独自の習俗が記される。
  • 梁勤が世々酋帥として羌の心を得て王を自称。その孫の弥忽は太武帝の初年、子の弥黄を遣わして内附を求め、太武帝は弥忽を宕昌王、弥黄を甘松侯に任じた。弥忽の死後、孫の彪子が立ち(領域は仇池以西東西千里、席水以南南北八百里、人口二万余落)、以後も職貢を続けたが吐谷渾に朝貢路を絶たれることが多かった。彪子の死後、弥治が立ち、彪子の弟の羊子が吐谷渾に逃れて位を奪おうとしたが、献文帝が武都鎮将宇文生を送って救援し撃退した。弥治の死後、子の弥機が立ち、司馬利柱を朝貢に送った。楊文度の武都包囲に際して弥機は二人の兄を率いて救援し文度を敗走させた。孝文帝の時代には硃砂・雄黄・白石膽各百斤を貢ぎ、以後も歳々朝貢が続き、弥機は征南大将軍・西戎校尉・梁益二州牧・河南公・宕昌王に任じられた。

鄧至・赫羊国・諸小羌国

  • 鄧至は白水羌の一支で、地名にちなみ自ら鄧至と称した。領域は亭街以東、平武以西、汶嶺以北、宕昌以南で風俗は宕昌に似る。王の像舒治が内附を願い出て孝文帝から龍驤将軍・鄧至王に任じられ、以後貢献が続いた。周文は章武公導に兵を率いて送らせた。
  • 鄧至の西に赫羊国があり、大きく鮮やかな赤色の羊がいたことに由来する国名という。
  • ほかに東亭衛・大赤水・寒宕・石河・薄陵・下習山・倉驤・覃水などの羌国があり、風俗は粗野で鄧至とは異なるが、時に朝貢し朝廷は雑号将軍や子・男・渠帥の称号を与えた。

白蘭

  • 白蘭は羌の一支で、東北は吐谷渾、西北は利摸徒、南は那鄂に接する。風俗・物産は宕昌とほぼ同じ。北周の保定元年(561年CE)、犀甲・鉄鎧を献じた。

党項

  • 党項羌も三苗の後裔とされ、宕昌・白狼の種を含み、いずれも獼猴種を自称する。東は臨洮・西平、西は葉護に接し南北数千里、山谷間に住む。大部落は五千騎、小部落は千騎ほど。犛牛の尾や毛を織って屋根とし、法令なく生業に応じて分散生活し、戦時のみ集結する。継母や嫂との婚姻の乱れが諸夷の中でも顕著とされる。文字を持たず、老年の死は「令終」として哭泣せず、若年の死は嘆いて哭くなど独自の葬礼を持つ。琵琶や横吹、缶を打つ音楽もあった。
  • 北魏・北周期にたびたび辺境を侵した。隋の文帝が丞相であった時代に大規模な寇掠があり、蔣公梁睿が王謙平定後にこれを討伐、開皇元年(581年CE)に千余家が帰化。五年、拓拔甯叢らが旭州で内附し大将軍に任じられた。十六年に会州を侵すと隴西の兵に大破され帰順、文帝は「定住して長幼を養え」と諭し、以後朝貢が続いた。

附國・嘉良夷・薄縁夷・女国と諸羌

  • 附国は蜀郡西北二千余里にあり、漢代の西南夷にあたる。東部の嘉良夷は同じ風俗を持ちながら言語は少し異なり、いずれも氏姓を持たない。
  • 附国王の名は宜繒。国は南北八百里、東西千五百里で城柵はなく、復讎を好み石を積んだ「巣」(高さ十余丈、下は五、六丈、木で区切られ形は仏塔状)に住み夜は門を閉ざして盗賊を防いだ。重罪は牛での罰。人々は身軽で撃剣を好み、漆皮の鎧、長さ六尺の弓、竹の矢を用いた。母や嫂を娶る風習、死者は沐浴させて高床に安置し武装させ獣皮で覆う独特の葬礼、剥皮葬(一年後に本葬)、木で祖父神を祀るなど詳細な風俗が記される。金・銀・銅を産し白雉が多く、嘉魚(長さ四尺で鱗が細かい)も獲れる。
  • 大業四年(608年CE)、附国王が使者素福ら八人を朝貢に送り、翌年も弟の子の宜林が嘉良夷六十人を率いて朝貢、良馬の献上は道の険しさで果たせず、道の開削を願うも煬帝は民の労苦を理由に許さなかった。
  • 嘉良に幅六、七十丈の川、附国に幅百余丈の川があり、いずれも南流し皮舟で渡った。
  • 附国の南に薄縁夷、西に女国があり、東北の山地には大小の左封・昔衛・葛延・白狗・向人・望族・林台・舂桑・利豆・迷桑・婢薬・大硤・白蘭・北利摸徒・那鄂・当迷・渠歩・桑悟・千碉などの羌族が深山に散在し、大君長を持たず党項に似た風俗を持ち、吐谷渾や附国に服属することもあった。大業年間に朝貢があり、隋は西南辺境に諸道総管を置いて管理した。

稽胡――劉蠡升の乱

  • 稽胡(歩落稽とも)は匈奴の別種で、劉淵(元海)の五部の末裔、あるいは山戎・赤狄の後とされる。離石以西、安定以東の七、八百里の山谷に住み、定住して農耕も行うが桑蚕は少なく麻布を多く着る。男性の服装や葬礼は中国に似るが、女性は貝殻を耳や首に飾る。渠帥は文字を解し、通訳を介して意思疎通する。無礼で貪欲な気質、婚前の淫奔を咎めない風俗、兄弟死亡時に嫂を娶る慣習などが記される。郡県に編入されつつも徭賦は軽く、険阻な山谷の者は服属せず凶暴で寇掠を繰り返した。
  • 北魏の孝昌年間、劉蠡升が雲陽谷に拠って天子を自称し年号・百官を立てた。魏の混乱に乗じて汾・晋の間を荒らし続けたが、東魏の高歓(神武)は娘を蠡升の太子に嫁がせると偽って油断させ、大統元年(535年CE)三月に襲撃、蠡升は北部王に殺され神武に送られた。残党は蠡升の三男の南海王を立てたが、神武はこれを滅ぼし、偽主・弟の西海王・皇后・夫人・王公以下四百余人を鄴に連行した。

稽胡――北周期の反乱鎮圧

  • 河西の稽胡は険阻に拠って服属しなかった。西魏の宇文泰(周文)は高歓との抗争で経略の余裕がなく、黄門侍郎楊[A181]を遣わして安撫した。大統五年、黒水部が叛き、七年には夏州刺史劉平伏が上郡に拠って反乱、周文は于謹・侯莫陳崇・李弼らを相次いで派遣し討平した。
  • 北周の武成初年、延州の稽胡郝阿保・狼皮が北斉に附いて自ら丞相・柱国を称し、劉桑徳と呼応したが柱国豆盧甯が討破。二年、狼皮の残党を大将軍韓果が討破した。
  • 保定年間、離石の生胡が汾北を侵し、勲州刺史韋孝寛が険要に城を築いて備えた。楊忠が突厥と共に北斉を伐った際、稽胡が糧秣供給を拒んだため楊忠は突厥との共同討伐を偽って脅し、供給させた。丹州・綏州の諸胡や蒲川の郝三郎らの逆命に対しては達奚震・辛威・於寔らが討伐し部落を離散させた。天和二年、延州総管宇文盛が銀川に城を築くと、稽胡の白鬱久同・喬是羅らが襲撃を企てたが討たれ、喬三勿同らも破られた。五年、開府劉雄が綏州から北辺を巡検した際、白郎・喬素勿同らが河を渡って迎撃したが撃破された。
  • 建徳五年(576年CE)、武帝が晋州で北斉軍を破り追撃した際、稽胡は北斉軍の遺棄した武器を奪い、蠡升の孫の沒鐸を主に立てて聖武皇帝・石平の年号を称した。翌年、武帝は東夏を平定した勢いで討伐を議したが、斉王憲は「種族が多く山谷が険阻なため一挙には除けない、まず首魁を斬り残りは慰撫すべき」と進言、武帝はこれに従い憲を行軍元帥として趙王招・譙王儉・滕王逌らを率いさせた。憲軍は馬邑に至り分道進軍、沒鐸は天柱に河東を、大帥の穆支に河西を守らせ憲軍を挟撃しようとしたが、譙王儉が撃破し千余級を斬獲、趙王招は沒鐸を捕らえて残衆は降伏した。宣政元年、汾胡帥の劉受羅千が再び反乱すると越王盛が討って捕らえ、以後寇乱はほぼ収まった。

史論

  • 氐・羌・吐谷渾らはいずれも風俗を異にし辺境に居し、歴代にわたって叛服を繰り返してきたが、これは彼らの本性というより、徳のない政治には叛き、道のある政治には服するという道理に基づくものであり、先王が彼らを「荒服」として扱ってきた所以である。