北史卷九十四 高麗・百濟・新羅・勿吉・奚・契丹・室韋・豆莫婁・地豆干・烏洛侯・流求・倭

篇の趣旨

  • 天地の覆う範囲は広大だが、生きる者は禽獣より少なく、中華の地は狭く異俗の地は広い。人は天地に形を得て陰陽の気を稟け、風土や水土によって性質が定まる。中華(諸夏)は霜露が届き風気が通じ、仁義がここから生まれるが、荒裔(辺境)は凶徳が生じやすい。九夷・八狄・七戎・六蛮は風俗こそ違え、貪欲で乱を好み、強ければ抗い弱ければ服するのは同じである。
  • 秦皇・漢武は遠征を極めたが、匈奴を退けても国力は疲弊し、天馬を得ても民は困窮した。時代が秦漢と異なる今、その野心をまねて天道に逆らうべきではない。先王は徳を樹てることを尊び、地を広げることを卑しんだ。魏から隋に至るまで四夷の朝貢のあり方は時代ごとに異なるため、ここに『四夷伝』としてまとめる。

高麗

  • 高句麗の始祖朱蒙は夫餘王の妃河伯女が日光に感じて生んだ卵から生まれた。夫餘の人々に疎まれ育てられたが、弓の名手として知られ、迫害を逃れて焉違らと東南へ逃走、追われる中で魚鱉が橋となって大水を渡り、紇升骨城に至って高句麗を建てた(高を氏とした)。夫餘に残した子始閭諧(のち閭達)も後に合流した。
  • 朱蒙の死後、如栗、莫来(夫餘を併合)と続いた。漢武帝元封四年、朝鮮を滅ぼし玄菟郡を置き高句麗を県としたが、のち高句麗は驕り朝貢を怠るようになった。王莽の代、高句麗侯騶が誅殺され、莽は国名を蔑称に改めさせた。光武帝建武八年、朝貢が再開された。
  • 殤帝・安帝の間、莫来の裔孫宮が遼東を侵し、玄菟太守蔡風が討伐したが鎮められなかった。宮の死後、子伯固が継ぎ順帝・桓帝の間も遼東を侵した。霊帝建寧二年、玄菟太守耿臨の討伐で伯固は降り遼東に属した。公孫度の代には友好関係にあった。
  • 伯固の死後、子伊夷摸が継ぎしばしば遼東を侵した。建安中、公孫康の攻撃で国は破れたが伊夷摸は新国を再興、玄菟との合撃でさらに大敗した。
  • 伊夷摸の死後、子位宮が継いだ。祖父宮同様生まれつき目が開いていたことから「位宮」と呼ばれ、勇力と騎射に優れた。魏景初二年、司馬懿の公孫淵討伐に援軍を送った。正始三年、位宮は遼西安平を侵したが、五年に幽州刺史毌丘儉が沸流で大破、丸都まで追撃してその都を屠り、位宮は妻子と共に逃れた。六年、儉は再征し位宮は沃沮まで敗走、将軍王頎の追撃で肅慎まで達し石に功を刻んで凱旋した。以後、中華との交流が再開した。
  • 晋の永嘉の乱後、鮮卑慕容廆が昌黎の大棘城に拠った。位宮の玄孫乙弗利がしばしば遼東を侵したが、廆は制しきれなかった。
  • 弗利の死後、子釗が継いだ。魏建国四年、慕容廆の子晃が木底で釗軍を大破し丸都まで追撃、釗は単騎で逃れ、晃は釗の父の墓を暴き母妻・宝物・男女五万余口を奪い宮室を焼き丸都を破壊して帰還した。釗はのち百済に殺された。
  • 晋孝武帝太元十年、句麗が遼東・玄菟を攻めたが、後燕の慕容垂の弟農が奪回した。垂の子寶は句麗王安を平州牧・遼東帯方二国王とし、長史・司馬・参軍の官を初めて置いた。のち遼東郡も領有した。
  • 太武帝の代、釗の曾孫璉が使者を送り国諱を求め、太武帝は帝系名諱を下賜し、員外散騎侍郎李敖を遣わし璉を都督遼海諸軍事・征東将軍・領東夷中郎将・遼東郡公・高句麗王とした。李敖の報告によれば都は平壌城で、遼東の南千余里、東は柵城、南は小海、北は旧夫餘に至り、戸数は魏の代の三倍であった。以後毎年黄金二百斤・白銀四百斤を貢納した。馮弘が高句麗に亡命すると太武帝は送還を求めたが璉は応じず、太武帝は討伐を計画するも樂平王丕らの諫めで中止、弘は結局璉に殺された。
  • 文明太后が献文帝の後宮を整えるため璉に娘を求めると、璉は弟の娘を差し出すと申し出たが、馮氏との婚姻が滅亡を招いた前例を恐れる周囲の勧めで女死と偽った。朝廷が疑い問責すると璉は「天子が過ちを許すなら詔に従う」と答えたが献文帝の崩御で立ち消えとなった。孝文帝の代には貢献が倍増し返礼も厚くなった。光州の海上で璉が斉へ送った使者余奴らが捕らえられ、孝文帝は「蕭道成は君を殺して江左に僭号した者だ、なぜ籓臣の義に反しこれと通じたのか」と責めつつも一過を咎めず送還した。
  • 太和十五年、璉は百余歳で死去。孝文帝は東郊で哀悼し、車騎大将軍・太傅・遼東郡公・高句麗王を追贈(諡康)、璉の孫雲を都督遼海諸軍事・征東将軍・領護東夷中郎将・遼東郡公・高句麗王とした。世子の入朝を求めたが雲は病を理由に断り、厳しく責められた後は毎年朝貢するようになった。正始中、宣武帝は使者芮悉弗を引見し、金・珂の貢納が滞る理由(夫餘は勿吉に、渉羅は百済に奪われた)を確認、高句麗に威懐の策を尽くすよう命じた。
  • 神龜中、雲の死去に霊太后が哀悼し、車騎大将軍・領護東夷校尉・遼東郡公・高麗王を追贈、世子安を鎮東将軍・領護東夷校尉・遼東郡公・高麗王とした。正光初、光州で梁から安に授けられた冠服・使者江法盛らが海上で捕らえられ京師に送られた。
  • 安の死後、子延が継ぎ、孝武帝は持節・散騎常侍・車騎大将軍・領護東夷校尉・遼東郡公・高句麗王を加えた。天平中、侍中・驃騎大将軍を加えた。
  • 延の死後、子成が継ぎ、武定年間まで毎年朝貢が絶えなかった。大統十二年、西魏にも朝貢。北斉受禅の年には斉にも朝貢し、文宣帝は持節・侍中・驃騎大将軍・領東夷校尉・遼東郡公・高麗王とした。天保三年、文宣帝は営州で崔柳を高句麗に遣わし魏末の流民の返還を求め、拒めば「便宜に従って処置せよ」と命じた。柳は成を殴打して屈服させ五千戸を連れ帰った。
  • 成の死後、子湯が継ぎ、乾明元年に北斉から遼東郡公・高麗王、周建德六年に北周から上開府儀同大将軍・遼東郡公・遼東王とされた。隋文帝の受禅後は大将軍・高麗王とされ、以後毎年朝貢が絶えなかった。
  • 高句麗の地勢:東は新羅、西は遼水を隔てて二千里、南は百済、北は靺鞨に接し千余里。人々は定住し山谷に住み布帛と皮を衣とする。土地は痩せ農蚕だけでは自給できず節食する。王は宮室を好み、都は平壌城(長安城とも、東西六里、浿水に南面する)で、倉庫を城内に集め有事に籠城、王の居所は別にあり常住しなかった。国内城・漢城の三京制を敷き、遼東・玄菟等数十城に官司を置いて統轄、新羅と絶えず戦争した。
  • 官制は大対盧以下十二等(強弱により大対盧が自ら任命され王の任命によらない)、内評・五部褥薩を置いた。服飾・冠(蘇骨)・書物(五経・三史・三国志・晋陽秋)・兵器・税制(布・穀)・刑罰(反逆は柱に縛って焚き一族没収、盗みは十倍賠償できなければ子女を奴婢とする)・音楽(五弦・琴・箏など)・年頭の浿水での水掛け行事・淫祀を含む風俗が詳述される。婚姻は男女相悦で決まり財礼はなく、受け取れば恥とされた。喪は三年(兄弟は三月)、葬送は鼓舞で送り副葬品は会葬者が持ち去る風習があった。仏法・鬼神を敬い、夫餘神・高登神の廟を祀った。
  • 隋が陳を平らげると湯は畏れ守りを固めた。開皇十七年、文帝は靺鞨を圧迫し契丹を禁圧したこと、密かに弩手を送り込んだことなどを責める璽書を送り、湯は謝罪の上表を準備したが病没した。
  • 子の元が継ぎ、文帝は上開府儀同三司・遼東公を授けたが、元は靺鞨と共に遼西を侵し、営州総管韋世衝に撃退された。文帝は激怒し漢王諒を元帥に討伐を命じたが、饋運が続かず疫病も発生し軍は振るわず、元が謝罪の上表(「遼東糞土の臣元」)を送ると兵を退いた。
  • 煬帝の代、元の入朝を求めたが元は拒み、大業七年、煬帝は自ら遼水を渡り征討。高麗は籠城戦を続け、降伏を装って時間を稼ぐ戦術に翻弄され、煬帝の軍は食糧が尽きて撤退(このとき遼水西の武厲邏を得て遼東郡・通定鎮を置いた)。九年の再征では楊玄感の乱により撤兵、兵部侍郎斛斯政が高麗に亡命し軍情が漏れ殿軍が敗れた。十年の三征では天下の反乱で軍が集まらず、高麗も疲弊して降伏を申し出、斛斯政を送還したため煬帝は受け入れたが、元自身は入朝せず、以後天下大乱で再征は行われなかった。

百濟

  • 百済は馬韓の一部、索離国の出。索離王の侍女が天からの気に感じて生んだ子(東明)は捨てられても豕や馬の呼気に守られ、成長して弓の名手となり、王の忌避から逃れる際に弓で水を撃つと魚鱉が橋となり夫餘に至って王となった。東明の後裔仇台が帯方の故地に建国、漢の遼東太守公孫度の娘を娶り東夷の強国となった。百家で渡ったことから百済と号した。
  • 領域は東は新羅、北は高句麗に接し、南北九百余里・東西四百五十里。都は居拔城(固麻城)、五方(中方古沙城・東方得安城・南方久知下城・西方刀先城・北方熊津城)を置いた。王姓は餘氏、王を「于羅瑕」、王妃を「于陸」と称した。官制十六品(左平以下)とその冠飾・帯色、内官十二部・外官十部の分掌、五部・五方・郡の軍制が詳述される。
  • 風俗は新羅・高麗に似るが、冠の翅飾りや拝礼の作法に独自性があり、婦人の髪型、僧尼の存在(道士はいない)、音楽・遊戯(投壺・樗蒲・弄珠・握槊・囲碁)、宋《元嘉暦》の使用、賦税・刑罰(反逆・敗戦・殺人は斬、盗みは流罪で贓物二倍返還、婦人の姦通は夫家の婢とする)、婚姻・喪服の礼、農産物、大姓八族(沙・燕・刕・解・真・国・木・苗)、始祖仇台廟の四時祭祀などが記される。
  • 魏延興二年、王余慶(蓋鹵王)が使者を送り、高句麗との対立の経緯(祖須が釗を討った故事、馮氏滅亡後の圧迫、三十余年の抗争)を訴え救援を求めた。海中で発見した衣器・鞍勒を高句麗の物ではないと主張したが、献文帝は「疑わしきをもって必然の過ちとしない」として静観、使者邵安を送るも璉に阻まれ交渉は実らなかった。以後も晋・宋・斉・梁に称藩し魏との関係も保った。
  • 北斉受禅後も余隆・余昌が通使、武平元年斉後主は余昌を持節・侍中・車騎大将軍・帯方郡公・百済王とし、二年には東青州刺史も兼ねさせた。周建徳六年、斉滅亡後は北周にも通使。
  • 隋開皇初、余昌は上開府・帯方郡公・百済王に叙され、陳平定の際に漂着した隋の船を厚遇し祝賀の使者を送った。文帝は「以後年ごとの朝貢は不要」と応じた。開皇十八年、遼東の役に際し軍導を申し出たが実際は高麗と内通し両端を持した。余昌の死後、子余璋が継ぎ、大業年間には隋への協力を装いつつ内実は高麗と通じ、新羅とも抗争を続けた。唐乱後は音信が絶えた。
  • 南方には耽牟羅国(百済の附庸)、その西には貊国があった。

新羅

  • 新羅は辰韓の一種。秦から逃れた人々が馬韓の東界に住んだのが辰韓(秦韓)で、言語・地名に中華の名残がある。辰韓王は代々馬韓人が務め、辰韓人自身は王になれなかった。辰韓十二国の一つが新羅で、毌丘儉の高句麗討伐で敗走した者が留まって成立したとも、あるいは百済人の逃亡王が建てたともいう。当初百済に附庸し、のち強盛化して迦羅国にも附庸した。伝世三十代、真平王の代に隋開皇十四年朝貢し、文帝は真平を上開府・楽浪郡公・新羅王に叙した。
  • 官制十七等(伊罰幹以下)、文字・甲兵は中国と同じで壮健者を軍に選抜、風俗・刑政・衣服は高麗・百済に類する。正月一日の朝賀・日月神を祀る儀式、八月十五日の射礼、大事は群議で決するなどの制度が記される。婚喪の礼、田畑の良さも記される。
  • 大業以来、毎年朝貢。地勢が険しいため百済と対立しつつも侵されなかった。

勿吉

  • 勿吉(靺鞨)は高句麗の北にあり、邑落ごとに長を持ち統一されず、東夷で最も勁悍。七部(粟末・伯咄・安車骨・拂涅・號室・黑水・白山、うち黒水部が最強)に分かれ、拂涅以東は石鏃を用い古の粛慎氏に当たる。地勢・住居(土を掘り梯子で出入りする穴居)・農産(粟・麦・穄・葵)・塩の産出・畜産(馬はあるが牛はなく、羊もいない)・酒(米を噛んで醸す)・婚姻(初夜に女の乳を掴んで終わる作法)・妒忌への厳しい報復、毒矢猟、葬送(夏は仮埋葬、冬は屍を貂の餌にして毛皮を得る)などが記される。
  • 延興中、乙力支が朝献し馬五百匹を貢いだ。乙力支は難河を遡り太瀰河・洛孤水を経て契丹西界から和龍に至った経路や、高句麗・百済との連携策(高句麗討伐を魏に提案)を語ったが、朝廷は「三国はみな籓附、互いに侵すな」と諭した。以後大莫盧国など周辺諸国も相次いで朝貢、太和・景明・正光年間まで貢使が続いたが、中国の混乱で一時途絶えた。興和二年以降、北斉にも朝貢が続いた。
  • 隋開皇初、相率いて朝貢し、文帝は「汝らを子のごとく見る、我を父のごとく敬え」と語り、使者は「聖人ある内国に朝拝したい」と応じた。契丹との抗争に文帝が介入し和解させた。宴席での勇壮な舞に文帝が感嘆した逸話も伝わる。煬帝の代、粟末部の渠帥突地稽が高麗との戦いに敗れて隋に降り、柳城に居住して中国風俗を慕い冠帯を授けられた。遼東の役にも従軍し功を挙げたが、江都の変後は李密・王須拔らの攻撃を受け、最終的に羅藝のもとへ逃れた。

  • 奚(庫莫奚)は東部胡宇文氏の別種。慕容晃に敗れて松漠の間に逃れた。不潔だが射猟に長け寇掠を好んだ。登国三年、道武帝の親征で弱水南に大破され、家畜十余万を得た。道武帝は「群狄は徳義を知らぬ鼠盗に過ぎない、まず中原を平定してから威懐を及ぼせば服する」と語った。以後文成帝・献文帝の代に名馬・毛皮を貢納したが、太和四年・二十二年には度々塞内に侵入し詔で責められた。宣武帝の代には交易を許しつつ監視する策が取られ、以後毎年朝献、北斉受禅後も朝貢が続いた。
  • 後に五部(辱紇主・莫賀弗・契個・木昆・室得、各部俟斤が統率)に分かれ、阿会氏が最盛で他部を従えた。契丹としばしば争った。

契丹

  • 契丹は庫莫奚の東にあり、奚と異種同類。共に慕容晃に敗れて松漠に逃れたが、登国中の魏の大破で奚と分かれた。真君以来毎年名馬を貢ぎ、献文帝の代には莫弗紇何辰が使者として送られ、その帰国後の証言で東北諸族が慕い服した。悉萬丹部など多数の部族も次々に朝貢、和龍・密雲での交易が定例化した。太和三年、高句麗と柔然が地豆干分割を企てたことに反発し、莫賀弗勿幹が三千乗・万余口を率いて内附。以後毎年朝貢、飢饉の際は関市を許された。宣武・孝明帝の代も朝貢が続き、婚礼の服色を巡る恩恵も記される。北斉受禅後も朝貢は絶えなかった。
  • 天保四年、契丹が塞を犯すと文宣帝自ら北討し、潘相樂・韓軌の別動隊と合わせて大破、十余万口・数十万頭の家畜を虜にした。捕虜は諸州に分置された。のち突厥に圧迫され、一部(一万家)は高麗に身を寄せた。
  • 風俗は靺鞨に似て寇盗を好んだ。父母の死を悲しんで泣くのを弱さとし、屍を樹上に三年置いて骨を焼き、酒を注いで祈る風習があった。
  • 隋開皇四年に莫賀弗が朝謁、五年には全体が内附し文帝は故地に住まわせた。責めを受けて謝罪した後、高麗から離反した別部が内附するも、文帝は突厥との関係を考慮して糧食を与え本部へ帰した。その後北方に移り紇臣水沿いに十部(三百戸から千戸程度)を形成、突厥沙鉢略可汗の吐屯統治に反発し吐屯を殺して逃れた。大業七年、朝貢した。

室韋

  • 室韋(失韋)は勿吉の北千里、契丹の類で南は契丹、北は失韋と号す。地勢は低湿、言語は庫莫奚・契丹・豆莫婁国と同じ。粟・麦・穄を産し、夏は城居、冬は水草を追う。角弓を用い、女は叉手髻を結う。盗みは三倍賠償、殺人は馬三百匹の賠償。赤い珠を婦人の飾りとし、多いほど尊ばれ、持たない女は嫁げなかった。葬送は屍を樹上に置く。
  • 武定二年、張烏豆伐らが朝貢し、以後武定末まで貢使が絶えず、北斉受禅後も歳時の朝聘が続いた。
  • のち五部(南室韋・北室韋・缽室韋・深末怛室韋・大室韋)に分かれ、統一されず突厥の三吐屯が総領した。各部の地勢・風俗(南室韋の巣居・牛車、北室韋の穴居・氷上漁労、缽室韋の樺皮屋根、深末怛室韋の冬季穴居、大室韋の言語不通)が詳述される。北室韋のみ朝貢を続けた。

豆莫婁

  • 豆莫婁国は勿吉の北千里、旧北夫餘の地。室韋の東、東は海に至り方二千余里。定住し倉庫を持つ。地は五穀に適するが果樹はない。人は長大で強勇謹厚、六畜の名を官名とし邑落に豪帥を置く。麻布を産し、高麗風の服に大きな帽子を被る。刑は厳しく殺人は死罪、妬み深い者への嫌悪から死者を山上に晒す風習がある。濊貊の地ともいわれる。

地豆干

  • 地豆干国は室韋の西千余里。牛・羊が多く名馬を産し、皮を衣とし五穀はなく肉・酪を食す。延興二年に朝貢を始め太和六年まで貢使が絶えなかったが、十四年に度々塞を犯し、孝文帝は陽平王頤に討伐させた。以後朝貢を続け武定末・北斉受禅後も絶えなかった。

烏洛侯

  • 烏洛侯国は地豆干の北、代の都から四千五百余里。低湿で霧が多く寒冷、冬は穴居、夏は牧畜。豕・穀麦を産し、大君長はなく世襲の莫弗が部落を統べる。人は勇敢で盗みを嫌う風があり、箜篌を用いる。西北に完水・于巳尼大水(北海)がある。
  • 太武帝真君四年に朝貢、魏の先帝の旧墟である石室(南北九十歩、東西四十歩、高さ七十尺)の所在を伝え、太武帝は中書侍郎李敞を遣わし祝文を石室の壁に刻んで祭った。

流求

  • 流求国は建安郡東の海島、水行五日で至る。王は歓斯氏、名は渴刺兜(土人は可老羊と呼ぶ)、妻は多拔茶。居所波羅檀洞は三重の柵と流水で囲まれ、四五の帥が諸洞を統べ、洞ごとに小王・村ごとに烏了帥を置く。男女は白紵を髪に纏い、独特の冠・衣服を用いる。武器は刀槊・弓箭・剣鈹だが鉄が乏しく骨角で補う。王は木獣に乗る輿で移動する。
  • 好戦的で諸洞は互いに救援せず、少人数の跳ね出し合いで勝敗を決め、戦死者の首級を持ち帰った者が隊帥に任じられる。賦斂はなく事あれば税を徴収、刑は鳥了帥が裁き不服なら王に上訴、獄には縄のみで枷はなく、死刑は鉄錐で頭頂を刺す。文字はなく月の満ち欠けと草木の栄枯で時を知る。人は深目高鼻で胡人に似る。父子同床、婦人の入れ墨、酒・塩・酢の製法、宴会の作法、葬送の様式、鬼神信仰と人祭(戦で殺した者を神に供える)などが記される。
  • 隋大業元年、海師何蛮の報告を受け、三年に羽騎尉硃寬が入海探索、言葉が通じず一人を捕らえて帰った。翌年再訪するも従わず布甲を持ち帰った。倭国の使者はこれを「夷邪久国人の物」と証言した。武賁郎将陳稜・朝請大夫張鎮州が兵を率いて流求を攻め、都を焼き男女数千人を捕虜として帰還、以後音信は絶えた。

  • 倭国は百済・新羅の東南、大海中の山島に位置し、魏の代に三十余国が通じた。地勢は東西五月行・南北三月行、邪摩堆(『魏志』の邪馬台)に居し、帯方郡から一万二千里、会稽の東で儋耳に近いという。俗に文身し太伯の後裔と自称する。帯方から倭国までの海路(朝鮮を経て瀚海を渡り一支国・末盧国・伊都国・奴国・不彌国・投馬国を経て邪馬台国に至る)が詳述される。
  • 漢光武帝の代に入朝し大夫を自称、安帝の代にも朝貢(倭奴国と称した)。霊帝光和年間、国が乱れ女王卑弥呼が鬼道で人心を得て共立された。魏景初三年、公孫淵誅殺後に卑弥呼が朝貢し金印紫綬を授けられた。正始中、卑弥呼の死後男王が立つも国が服さず、卑弥呼の一族の女台与が王に立てられ、以後晋・宋・斉・梁と朝聘が続いた。
  • 陳平定後、開皇二十年、倭王阿每(字多利思比孤、号阿輩雞彌)が入朝。使者は倭王が天を兄、日を弟とし昼は政務、日の出とともに弟に委ねると答え、文帝は「大いに義理に合わない」として改めるよう命じた。王妃を雞彌、太子を利歌彌多弗利と呼び、内官十二等の制、軍尼・伊尼翼の地方統治、服飾(男子の裙襦、隋代以降の冠制、婦人の裙襦)、武器(弓矢刀槊弩など、無征戦)、刑罰(殺人・強盗・姦通は死罪、盗みは贓物弁済か没身、神明裁判の風習)、音楽、文身、仏法(百済経由で文字を得た)・卜筮・巫覡信仰、正月の射戯、鵜飼漁法、婚姻(相悦婚、跨火の儀礼)、葬送(貴人三年殯)、阿蘇山の火山信仰、如意宝珠の伝説などが記される。新羅・百済は倭を珍物の多い大国として仰いだ。
  • 大業三年、多利思比孤が朝貢し、国書に「日出処の天子、書を日没処の天子に致す、恙なきや」とあり、煬帝は不快感を示した。翌年、文林郎裴世清が答礼使として派遣され、百済・竹島・耽羅国・都斯麻国・一支国・竹斯国・秦王国(華夏に似た人々がおり夷洲かと疑われた)を経て海岸に至り、竹斯国以東は倭に附庸していた。倭王は小徳何輩台・大礼哥多毗らを遣わし歓迎の儀を整え、裴世清は倭王に謁見し方物を受け取った。以後、交流は途絶えた。

史論

  • 論曰:広谷大川ごとに制度は異なり、そこに生きる者の風俗・嗜欲も一様ではないが、聖人は時に応じて教えを設け、その志を通じさせた。九夷は中華から隔たるが天性柔順で暴虐の風はなく、夏殷の代には時に来朝した。箕子が朝鮮に逃れて八条の禁を定めて以来、その感化は千載絶えず、遼東諸国には衣冠・俎豆の礼、経術・文史を愛する風があり、京都に遊学する者も絶えない。孔子の「言忠信、行篤敬なれば蛮貊の邦でも行われる」との言葉の通りである。
  • 魏から隋まで四代の間は争乱の時代で外征の余裕がなかったが、開皇末に遼東征討が行われるも天の時を得ず失敗した。二代(文帝・煬帝)は宇宙を包む志を抱き三韓の地を頻繁に踏み千鈞の弩を発したが、小国は死を賭して抗い、隋は成果を得られぬまま四海が騒然となり土崩瓦解して身を滅ぼし国を喪った。兵法に「徳を広げることに務める者は栄え、地を広げることに務める者は滅ぶ」とある通り、遼東の地は久しく郡県に列せられずとも朝貢を欠かさなかったにもかかわらず、二代は自らを恃んで文徳を用いず戦を興し、驕りと怒りで師を発し、滅びぬはずがなかった。四夷への戒めを深く思うべきである。豆莫婁・地豆干・烏洛侯は斉・周・隋を経て朝貢が絶え、その後の事情は明らかでない。