字は世栄、陽平の医師出身の重臣
- 字は世栄、陽平楽平の人。自ら東海郯の王朗の後と称した。父安上は李亮と同門で医薬を学ぶも及ばなかった。王顕は本州の従事を歴任、医術で身を立てつつ明敏で決断力もあった。文昭太后が宣武帝を身籠る夢(日に追われ竜に変じ体を巡る)を見て心疾となった際、徐謇は微風入蔵と診たが王顕は「妊娠男子の兆」と診て的中、待禦師に補された。
- 宣武帝の幼時の病を治療して寵を得、六輔廃止の際は於烈と密謀に関与。累進して廷尉卿、侍御・進御薬を兼ね御史中尉に至った。在職中は評判が良く、獄事を糾明し公正だったが、中尉の属官人事で請託により人選が偏り物議を醸した。宣武帝の命で薬方三十五巻を撰し天下に頒布。東宮建立で太子詹事となり厚く任用され、封は衛国県伯。
- 宣武帝崩後、明帝即位に璽策に参与したが微かに憂懼した。侍療の無効を口実に朝廷から禁中に拘禁され爵位を削られ朔州へ流され、護送中に直閤伊盆生に脇を刺されて絶命した。子の曄は懼れて逃走したが後に捕らえられ拷問を受け、邸宅は没収された。かつて王顕が元景を陥れ処刑させた因縁があり、王顕の死も同じ右衛府で起きたため人々は報応と見た。沙門の予言(吏となれば必ず敗れる)、卜相の嫗の予言(父の冤罪を受ける)も的中したと伝わる。