北史卷九十 列傳第七十八藝術下 徐謇

字は成伯、丹陽の人、家系は東莞。魏の医師。慕容白曜の東陽平定で捕らえられ京師に送られたのち献文帝・孝文帝の三代に仕えた名医で、太和二十二年の孝文帝の重病を救った功で大鴻臚卿に至った。従孫の徐之才は北斉で禅代の首唱者となり文才と機知でも知られた重臣。

年表(5件)

字は成伯、丹陽の医師

  • 字は成伯、丹陽の人、家系は東莞。兄の文伯らと共に医薬に優れた。慕容白曜が東陽を平定した際に捕らえられ京師に送られた。献文帝が能力を試すため病人を幕中に隠し脈を取らせたところ病状と顔色を正しく言い当て寵遇を受けた。中散から内行長に昇進。文明太后の問いに応じ処方したが李脩ほど重用されず、薬剤の調合効験は李脩より精妙であった一方、秘密主義で意に沿わぬ相手には身分の高低を問わず治療しなかった。
  • 孝文帝の洛陽遷都後さらに厚遇され、帝の不調や寵妃馮昭儀の病を診た。中散大夫、侍御師に転じた。孝文帝のため金丹の合成・延年法を求め嵩高山に籠って調合したが数年成らず断念。太和二十二年(498年)、孝文帝が県瓠で重病となり駅馬で徐謇を召し、水路で急行させ一昼夜数百里を進ませた。診察の効果著しく、九月、汝浜で盛大な宴を開き百官の前で徐謇を上席に据え救命の功を宣べさせ、大鴻臚卿・金郷県伯に任じ銭絹・雑物・奴婢・牛馬を厚く賜った。咸陽王禧ら諸王も別に千匹を贈った。鄴へ従行し、翌年馬圏に至った際は孝文帝の病勢が募り叱責され鞭打たれかけたが辛くも免れた。帝崩後、梓宮に従い洛陽に戻った。
  • 徐謇は養生の術を実践し、年八十近くになっても鬢髪は白くならず体力も衰えなかった。正始元年(504年)、老齢により光禄大夫となり、没後は安東将軍・斉州刺史・諡靖を追贈された。子の徐践、字は景升、爵を継ぎ建興太守。
  • 兄の文伯は南斉に仕え東莞・太山・蘭陵三郡太守。その子雄は員外散騎侍郎、医術は江南で称えられた(事跡は『南史』にあり)。

徐之才――徐謇の従孫、方術と弁才の重臣(附伝)

  • 雄の子の徐之才は幼くして俊才、五歳で『孝経』を誦し八歳で大意を通じた。従兄の徐康と共に梁の太子詹事周舎の邸で『老子』を聴講、周舎が食事を用意し戯れに「学問より食に熱心か」と問うと「聖人は心を虚しくして腹を実たすと聞く」と答え称賛された。十三歳で太学生となり『礼』『易』に通じ、劉孝綽・裴子野・張嵊らと『周易』『喪服』を論じ即答、皆「神童」と讃え、孝綽は「班超の相あり」と評した。陳郡の袁昂が丹陽尹となり主簿に招き重用したが、郡の役所火災の際、寝所から裸のまま火事場に出て功曹に免職を求められるも、袁昂はその才を惜しみ許した。
  • 豫章王蕭綜の江都出鎮に随行、後に綜が魏に投降した際、乱軍中で退路を絶たれ魏の統軍石茂孫に捕えられた。蕭綜が魏で司空となり配下を収集する中、之才の在所が知られ孝昌二年(526年)洛陽に召された。南館に置かれ厚遇された。徐践(謇の子)の求めで之才を自邸に迎え、薬石の効験とともに経史に通じ弁舌に優れ朝廷の名士が競って引き立てた。斉の武帝の代、昌安県侯に封ぜられた。天平年間(534-537年)、高歓に晋陽へ召され内館に仕え、武定四年(546年)散騎常侍から秘書監に転じたが、楊愔が南人の之才を要職に不適として金紫光禄大夫に降し魏収に代えたため之才は不満を抱いた。
  • 之才は天文図讖にも通じ、館客の宋景業と吉凶を占い甲午年に革命があると予知、高徳正を通じ文宣帝に伝えて喜ばれた。婁太后や勲貴が関西を警戒し先に禅代すべきでないと言う中、之才独り「千人が兎を追っても一人が獲れば他は止む、大業を定めるのに人の後を追う必要はない」と主張し、証拠を挙げて説得、文宣帝はこれに従った。即位後さらに親密となり、医術のみならず禅代の首唱者となり、滑稽な戯言も憚らず狎昵された。侍中・池陽県伯に任じられたが文宣帝の政令が厳しくなると外任を求め趙州刺史となったが赴任できず弄臣のままだった。皇建二年(561年)西兗州刺史に任じられ赴任前に武明皇太后の病を治し孝昭帝から彩帛千段・錦四百匹を賜った。医術により外任も間もなく召還された。
  • 大寧二年(562年)春、武明太后が再び病み、之才の弟之範が尚薬典御として診候にあたった。宮中で太后を「石婆」と改称し忌避しようとしたことに関する童謡を之範が伝えると、之才はこれを解釈し「四月まで持つ」と予言、四月一日に太后は崩じた。足の腫痛を蛤の精と診断し蛤子二個を摘出した話、骨刀の柄を古墓の髑髏骨と見抜いた話など、明敏な逸話が多い。
  • 天統四年(568年)、尚書左僕射に累進、間もなく兗州刺史に任じられ鐃吹一部を特賜された。武成帝の幻覚(美婦人や観世音が見える発作)を「色欲過多による虚」と診断し湯薬で治した。武成帝は発作のたび之才を追って治療させたが、和士開が次席昇進の順を狙い之才を兗州刺史のまま留め、胡長仁を左僕射、士開を右僕射とした。同年十月、武成帝が病んで「之才を外任にしたばかりに苦しむ」と嘆き、八日に駅使で召したが十日に帝が崩じ、十一日に之才が到着した時は間に合わず、そのまま州に戻った。在職中は暴政をしなかったが法理に疎く放漫だった。
  • 天統五年(569年)冬、後主が之才を召し、左僕射欠員の際「禹の績を再びなせよう」と自負、武平元年(570年)尚書左僕射に再任。和士開・陸令萱母子に卑屈にへつらい、両家の病には尽力して救った。これにより尚書令・西陽郡王に昇進。祖珽が執政すると之才は侍中・太子太師に転じ、「子野(祖珽)が我を排除した」と恨み、祖珽の目疾を師曠(盲目の楽師)に喩えた。
  • 之才は聡明で弁が立ち、劇談・体語を好み公私の場で人をからかった。鄭道育を「師公」と呼ばれ「汝の師でもあり公でもある、三の義のうち既に二つを占める」と応酬、王昕の姓を「言があれば𧥶、犬が付けば狂、頸足を加えれば馬、角尾を施せば羊」と嘲弄、盧元明の戯れには「卿の姓は虐・虚・虜・驢に通ず」と切り返し、群犬を見て即興の詩を作り、李諧の父の名を揶揄され甥の高徳正に絡まれても切り返すなど機知に富んだ逸話が多く記される。唐邕・白建を「并州赫赫たる唐と白」と称え、小役人の癖もからかうなど不遜な言動が多かった。
  • 歴代の帝に戯狎で寵を得た。武成帝の智歯(親知らず)を「聡明長寿の相」と賀し喜ばれた話、僕射としての地位を得ても誰も追従せぬことを嘆いた話、之才の妻(魏広陽王の妹)が和士開に密通されても「若者の戯れを妨げるまい」と黙認した逸話も記される。年八十で没し、司徒公・録尚書事、諡文明を追贈された。
  • 長子の林、字は少卿、太尉司馬。次子の同卿は太子庶子だが学がなく、之才は常に「終には広陵散のごとく絶えるだろう」と嘆いた。弟の之範も医術で知られ太常卿となり、特に之才の爵西陽王を襲うことを許された。北周に入り儀同大将軍を授かり、開皇年間(581-600年)に没した。