北史卷八十八 眭誇・馮亮・鄭修・崔廓・徐則・張文詡

序(隱逸総論)

  • 兼済(世に出て天下を済う)と独善(身を全うし世を避ける)とは顕晦の別があるが、その由来は古い。伯夷・叔斉は周の武王のもとで生を全うし、華士・少正卯は太公望に容れられなかった。心を求める者は貪を戒める働きを、跡を督する者は教義の風を矯めるとする。世を避けて帰らない者は代々存在し、《易》は「世を遁れて悶えず」「王侯に事えず」と讃え、《詩》は「皎皎たる白駒、彼の空谷に在り」と詠じ、《礼》は「儒は上、天子に臣たらず、下、諸侯に事えず」と説き、《論語》は「逸民を挙げれば天下の心帰す」と言う。出処の道は異なれど、みな君子の道である。
  • 隠者の系譜は洪崖・箕山に始まり、周の七人・漢の四皓を経て、魏晋以降ますます広がった。大なる者は天下を軽んじ万物を細かとし、小なる者は苦節に安んじ貧賤に甘んじた。世と同塵し波瀾に流される者も、時に逆らい俗に矯め江湖を独往する者もいる。魚鳥と戯れ琴書を友とし、遺粒を拾い落毛を織り、石泉を飲み松柏に庇い、独善に安んじて兼済を求めない。しかし賢明な君主は常に岩穀の隠士を求めて奔走した。彼らの道は世に広く行われずとも志は奪えず、堅貞の操は懦夫の志を立て貪競の風を止める働きがあったからである。
  • 澆浮な末世にあってなお心を物の外に置き俗を離れ、千古の友を求める者は稀有の人である。
  • 『魏書』は眭誇・馮亮・李謐・鄭脩を《逸士傳》に、『隋書』は李士謙・崔廓とその子賾・徐則・張文詡を《隱逸傳》に載せる。本篇では李謐・李士謙をそれぞれの家傳に附し、残りを編んで《隱逸傳》とした。

眭誇――北魏の高潔な隠士

  • 一名旭、趙郡高邑の人。祖の邁は晋の東海王越の軍謀掾で、のち石勒に降り徐州刺史となった。父の邃は慕容宝の中書令。誇は大度で書伝を好み世務に心を留めなかった。酒を好み物外に浩然としていた。三十歳で父の喪に遭い髭髪が白くなるほど哀哭し、聞く者は皆涙した。高尚を貫き仕えず、同郡の李順の交わりを拒み、邦国の人々はみな畏敬した。
  • 崔浩とは莫逆の交わりを結び、浩が司徒として中郎に召しても病と称して赴かず、州郡の逼りでやむなく上京しても浩とは平生を語るのみで世利には触れなかった。浩が詔書を懐に投げ入れても口を開かず、「桃簡(浩の幼名)、もう司徒になったのだから国士を煩わせずともよい、私は帰る」と告げた。浩は誇の騾馬を厩に留めて引き止めようとしたが、誇は郷人の輸租車に紛れて関を出た。浩は「眭誇は本来小職で辱めるべきでない者、その人に杖策で帰らせてしまった、なんと詫びればよいか」と嘆じた。当時の朝法は厳しく、私に帰った誇には咎めが及ぶところであったが浩が取り成し無事だった。翌年浩が騾馬を送り返し馬まで贈って詫びたが、誇は受け取らず返信もしなかった。
  • 浩の死に際しては素服して喪に服し、郷人の弔問を一時受けた後「崔公が死んだ今、誰が眭誇を容れよう」と嘆いた。舅の巨鹿魏攀(当時の名士)は婿としての礼を求めず友のごとく接した。ある人が「大才の者は必ず貴仕に就くはずなのに、なぜ田舎に埋もれているのか」と問うと、《知命論》を著してこれに答えた。没した日には葬儀に市のごとく人が集まった。子はない。

馮亮――魏の高僧格の隠士

  • 字は霊通、南陽の人。梁の平北将軍蔡道恭の甥。若くして諸書を博覧し仏理を篤く好んだ。道恭に従って義陽に赴いた際、中山王元英の義陽平定で捕らえられたが、英はその名を聞き礼遇した。嵩山に隠居し英の徳に感じて折々参上したが、英の死には赴いて哀慟を尽くした。
  • 宣武帝は羽林監・中書舎人として《十地経》の侍講を求めたが固辞し、幅巾での参内を願い許された。数年後、逆人王敞の事件に連座して尚書省に十余日拘留されたが特に赦免された。以後は景明寺に寓居し、衣食と従者を給されたが、旧居を懐かしみ山室に戻った。山水と巧思を好み、宣武帝の後援で沙門統僧暹・河南尹甄深と嵩山の地相を調べ閑居仏寺を造営した。延昌二年、篤疾に際し馬輿で嵩高道場寺に送られ数日後に没し、帛二百匹の贈品を賜った。
  • 遺言で甥の綜に、板を左手に《孝経》一巻を右手に持たせて磐石に安置し、十余日後に山で焚いて仏塔経蔵を建てるよう託した。厳冬の雪の中、道人恵需が毎朝屍を訪れ塵雪を払ったが鳥獣に侵されず、栗の実も皮殻のみが食われて肌体は損なわれなかった。荼毘の日には素霧が地から天に立ちのぼり終日絶えなかったといい、営葬に集まった道俗百余人は皆これを異とした。

鄭修――魏の岐南の隠士

  • 北海の人。岐南の凡谷に隠れ岩窟に住み俗世と交わらず、経史と玄学を好んだ。歴代の州将が招いても応じなかったが、岐州刺史魏蘭根の再三の招きにやむなく一度だけ出て会い、すぐに山に戻った。蘭根の推薦を受けた明帝は雍州刺史蕭宝夤に実否を確かめさせようとしたが、宝夤が反乱を起こしたため沙汰は行われなかった。

崔廓――字士玄、北斉末の隠士(附:子賾)

  • 博陵安平の人。父の子元は斉の燕州司馬。廓は幼くして孤貧で母の身分の低さゆえに邦族に軽んじられ、里佐となって屈辱を受けたことから山に逃れ書を博覧し山東の学者に宗とされた。帰郷後も辟命に応じず、趙郡の李士謙と「崔・李」と並び称される忘言の友となった。士謙の死に慟哭して伝を作り秘府に納めた。士謙の未亡人盧氏も家事の判断を廓に委ねた。刑名の理を論じた著述もあり、隋の大業中に家で没した。
  • 子の賾(字は祖浚)は七歳で文をよくし、容貌は矮小ながら弁舌に優れた。開皇初め秦孝王の推挙で射策高第となり、儒者と楽制を定め校書郎・協律郎を歴任、太常卿蘇威に重んじられた。母の喪に五日絶食するほどの孝行を示し、河南王・豫章王の侍読を経て晋王(煬帝)の記室参軍となった。豫章王からの離別の書には典雅な文が贈られ、賾はこれに応える返書を著した。
  • 豫章王は米五十石・衣服・銭帛を贈り、晋邸の文翰の多くは賾の手による。太子斉帥・舎人を経て、藍田で発見された古い玉人像について漢文帝以来の制であることを『嵩高山廟記』を引いて答え、また羊腸阪の所在を『漢書地理志』『地書』の記載から答え、煬帝に「問一知二」と評された。大業五年、諸儒とともに『区宇図志』二百五十巻を撰進したが帝の意に沿わず、虞世基・許善心により六百巻に改められた。父の喪ののち起用され遼東の役で鷹揚長史・遼東の郡県名の制定に関わり『東征記』を著した。越王長史となり山東の招撫にあたって帰順者八百余人を得た。江都に従駕中、宇文化及の弑逆後に著作郎に任じられたが病と称して応じず、道中発病し彭城で六十九歳で没した。
  • 賾は元善・柳䛒・王劭・姚察・諸葛潁・劉焯・劉炫らと交わり清談を楽しみ、『洽聞志』七巻・『八代四科志』三十巻などの著作は江都の陥落で焼失した。

徐則――隋の天台山の道士

  • 東海郯の人。周弘正に学び三玄に通じ、論議に優れ都邑に名を馳せたが「名は実の賓」と悟り縉雲山に隠棲した。数百人の弟子の教授要請も断り、妻帯せず巾褐で過ごした。陳の太建中に召され至真観に憩ったが一月で天台山に戻り、松の水のみを食して厳冬にも綿を着なかった。太傅徐陵はその徳を頌して山に碑を立てた。
  • 太極真人が「八十を過ぎれば王者の師となり道を得る」と告げたという。晋王広(煬帝)が揚州鎮守の頃、道を慕う書を送り招請したが則は時日が不便として辞し、八十一歳で王の招きに応じ揚州に赴いた。晋王が道法を受けようとした矢先、夜半に香火を焚き平生の礼を行い五更に没した。体は生きているかのように柔らかく数十日経っても顔色が変わらなかった。晋王は下書して「屍解地仙」と讃え、天台への帰葬を命じた。
  • 江都から天台までの道中、則が徒歩で歩く姿を見た者があり、旧居に戻って経書を弟子に分け「客が来たらここに迎えよ」と命じ、石橋を越えて姿を消した。まもなく屍柩が届いたことから霊化と知れ、時に八十二歳。晋王は驚嘆し賵物千段を贈り画工に肖像を描かせ柳{巧言}に賛を作らせた。当時、建安の宋玉泉、会稽の孔道茂、丹陽の王遠知らも辟穀の道を行い煬帝に重んじられた。

張文詡――隋の孝子

  • 河東の人。父の琚は開皇中に洹水令として清正で知られた。文詡は博覧強記で特に《三礼》に精しく、太学で博士房暉遠らに推服された。侍御史皇甫誕は師の礼を執って馬で招いたが、文詡は牽いて歩み人に頼らぬ意を示した。右僕射蘇威に召されても仕官を固辞した。仁寿末、太学廃止で杖をついて帰郷し灌園を業とし、州郡の招きにも応じず孝行で知られた。
  • 徳をもって郷党の風俗を移し、夜に麦を盗む者を見ても咎めず、盗人は感悟して麦を捨て謝ったが、文詡は自ら口外しないよう命じ持ち帰らせた。数年後盗人自身が語ってようやく人に知られた。隣家の不正な塀普請には旧壁を壊して応じ、腰痛の治療で医者の誤りにより傷を負った際も医者を咎めず「風眩で坑に落ちた」と偽って庇った。州県の賑恤も貧しさを理由に断り、「老いが迫るのに修めた名が立たぬのを恐れる」と嘆じ如意で机を打って自ら楽しみ、閔子騫・原憲になぞらえられた。家で没し、郷人は碑を建て「張先生」と号した。

史論

  • 論じていう。古の隠逸とは身を伏せて見えなくすることでも、言を閉ざして出さないことでも、智を蔵して発しないことでもない。恬淡を心とし、明でも暗でもなく時に安んじ物に私を及ぼさない者を指す。眭誇は纓冕を忘れ丘園に志を尽くし、あるいは隠れて親に背かず貞にして俗を絶たず、あるいは教えずして人を勧め虚しく往いて実り多く帰る、自然の純徳がなければ至り得ない境地である。張文詡は傷つけられても慍らず、徐則は沈冥に志を置き、親疎も貴賤も超えた抱朴の士と言えよう。崔廓は屈辱に感じて肥遁の名を得、その子祖浚(賾)は文籍の美をもって家業を継いだ。父子の動静は異なれど、名を成した点では一つであり、称えるべきである。