北史卷八十七 于洛侯・胡泥・李洪之・張赦提・趙霸・崔暹・邸珍・田式・燕榮・元弘嗣・王文同
序(酷吏総論)
- 国を為むる要には仁義・礼制・法令・刑罰の四つがある。仁義・礼制は教化の本、法令・刑罰は教化の末であり、本無くして立たず末無くして成らない。教化は遠く刑罰は近きに効くため、刑罰は教化を助けるにとどめ、専ら行うべきではなく、威を立てるにとどめ濫用すべきではない。老子は「政察察なれば民は缺缺(不安定)」「法令滋章にして盗賊多し」と説いた。
- 秦は獄吏を重用し民を苦しめ、漢はその弊を改めたが緩みすぎて大姦巨猾を逃した。郅都・甯成らの酷吏は時弊を正す面もあったが、于洛侯らは功や余勢に乗じて高位を得ながら性を恣にして無礼を行い、恩を施しても善意によらず、罪を科しても悪を憎むゆえでなく、罰する多くは無辜であった。これは郅都・甯成とは異なり、君子はこれを賤しんで《酷吏傳》に編んだ。
- 『魏書』には于洛侯・胡泥・李洪之・高遵・張赦提・羊祉・崔暹・酈道元・穀楷を、『齊書』には邸珍・宋游道・盧斐・畢義雲を収める。『周書』はこの篇を立てない。『隋書』には庫狄士文・田式・燕榮・趙仲卿・崔弘度・元弘嗣・王文同を収める。高遵・羊祉・酈道元・谷楷・宋游道・盧斐・畢義雲・庫狄士文・趙仲卿・崔弘度はそれぞれの家傳に附し、残りをこの篇に列ねた。
于洛侯――魏の秦州刺史
- 代の人。秦州刺史として貪酷安忍を極めた。民の呂勝の脛纏を奪った富熾に百叩きの刑を科し右腕を切断し、殺人の罪で死罪と定められた王隴客には舌を生きたまま抜き胸腹に二十余の傷を負わせた上、四柱に磔にして手足を裂き、命の絶える直前に斬首して四体を分け道に懸けた。見る者は皆嘆愕した。民の王元壽らが一斉に反乱を起こすと、有司の弾劾により孝文帝は使者を刑場に遣り兵民に告知させたのち洛侯を斬らせ民に謝した。
胡泥――魏の定州刺史
- 代の人。司衛監に至り永成侯を賜った。禁中の取締りに厳格で殿中尚書叔孫侯頭の失態を法で処断し、孝文帝に嘉されて幽州刺史・仮范陽公となった。北平の陽尼の学識を薦挙し、のち定州刺史に転じたが暴虐酷濫な刑罰と受賄により召還され処刑された。処刑に際し孝文帝は太華殿で侍臣に責める詔を読ませ、家で死を賜った。
李洪之――魏の秦州・益州刺史(附:子神)
- 本名文通、恒農の人。若くして沙門となり後に還俗した。真君中、狄道護軍となり安陽男を賜った。永昌王仁の南征に伴い得た元後(献文帝の生母)の姉妹と縁を結び、元後が文成帝の寵を得て献文帝を生んだ後は元後の兄と自称し「洪之」と改名した。元後の臨終の際に太后が示した南方の兄弟名を託され、以後献文帝の親舅として厚遇された。太安中、南方の兄弟が上京し洪之と交わり長幼の序を定めた。
- 外戚として河内太守・任城侯となり、険阻で人柄の荒い河内で厳格な科条を設け劫賊を鎮めたが、誅殺は過酷を極めた。懐州刺史・漢郡公を経て内都大官となり、河西羌胡の反乱では侍中陸定と統軍し、山胡討伐では大信を示して降伏を促した。尚書・外都大官に遷った。
- のち秦・益二州刺史として帯刃の禁令を布告し、夜間の密偵で違反者を捕らえ処刑したが、冤罪も百人単位に及んだ。赤葩渇郎羌の討伐では道を切り開き軍容を示す一方、少数の騎兵で村里を慰撫し賦役の増収を得たが、威と害が共存する評判を得た。
- 若い頃の妻張氏との間に多くの子をもうけたが、のち劉芳の従姉を重んじ張氏を疎み、両家は反目した。孝文帝の禄制施行にあたり収賄の罪で京師に召され太華殿で百官の前で罪を数えられ、大臣として自裁を許された。艾灸による激痛にも平然と客を迎えたが、最期には沐浴して家中を巡り涙して薬を仰いだ。
- 元後の兄と偽称していたことは孝文帝により後に暴かれたが、南方の李氏一族とは終始親しく交わった。晩年は本来の一族との交わりをやや取り戻した。劉氏との間に四子あり。
- 長子の神は膽略に富み軍功で長楽県男に封ぜられ平東将軍・太中大夫を歴任、相州事を代行中に葛榮の猛攻を凌ぎ、葛榮が捕らえられた功で公爵に進んだ。元顥入洛の際は侍中・殿中尚書として相州事を代行し、安康郡公に改封され、普泰元年に驃騎大将軍・儀同三司・相州大中正となった。没後、司徒公・冀州刺史を追贈され、子の士䋤が継いだが北斉受禅で例により降格された。
張赦提――魏の幽州刺史
- 中山安喜の人。武勇に優れ計略に富み、武衛中郎から出発した。京畿を荒らした賊魁「豹子」「彪子」らの残虐な行為(斬首・射殺・臓腑を引き出す等)を鎮圧すべく逐賊軍将となり短期間で捕縛・処刑した。靈丘の豪族羅思祖の党与による劫盗も遊徼軍将として掃討したが、その過程で濫殺も多く残酷と評された。功績により幽州刺史・仮安喜侯となり、当初は清廉であったが妻段氏の贈収賄を放任し貪虐の評判が立った。
- 中散李真香の査察を恐れ逃亡を図ったが、姑(太尉東陽王丕の妻)の助力を頼みに留まり、妻段氏は真香が私怨で誣告したと訴えた。再調査でも赦提の罪状が確定し、孝文帝は家での賜死を命じた。臨終に妻を「私を貪濁で穢したのはお前だ、九泉でも仇敵として会おう」と責めた。
趙霸――魏の華山太守
- 華山太守として理不尽な酷暴を行い、大使崔光の上奏で「憲度に従わず威虐を恣にし、吏人に手を挙げて僚属を逃走させ、民の統治に堪えない」と弾劾され、詔により免官された。
崔暹――魏・北魏末の瀛州刺史(附:子瓚・孫茂)
- 字は元欽、清河東武城の人で滎陽・潁川の間に居を構えた。猛酷で仁恕に欠け、権門に取り入る性格。秀才から南兗州刺史に累進したが官瓦の盗用と贓汚で御史中尉李平に弾劾され免官、豫州の代行職では田宅の不正占有と官奴の隠匿で御史中尉王顕にも弾劾された。瀛州刺史でも貪暴を極め、身分を隠して視察中に「癩兒刺史」と罵られる逸話が残る。不称職で京師に召還された。武川鎮の乱では李崇の指揮に背き敗北し単騎で逃げ帰り廷尉に禁固されたが、女妓・園田を元叉に贈って赦免された。建義初め河陰の変で殺害され、司徒公・冀州刺史・武津県公を追贈された。
- 子の瓚は尚書左丞を兼ね、妻は荘帝の姉(後の襄城長公主)で特に冀州刺史を追贈された。孫の茂が祖父の爵を継いだ。
邸珍――北斉の殷州刺史
- 字は安宝、本貫は中山上曲陽で魏の太和中に武州鎮に移った。孝昌中の六鎮の乱で杜洛周に従い、洛周が葛榮に併呑されると葛榮軍に入った。葛榮が爾朱榮に敗れると余党とともに并州に移り、斉神武の信都挙兵に従い長史・上曲県侯・殷州刺史となった。取り立てが過酷で州人を苦しめ、尚書右僕射・大行台として梁の将成景携らを撃ち彭城に帰陣した。統治は残酷で士衆の心は離れ、土着の豪族にも無礼であったため州人に殺害された。定州刺史・司空公を追贈された。
田式――隋の広州総管
- 字は顕標、馮翊下邽の人。祖の安興・父の長楽はともに魏で本郡太守を務めた。武芸に優れ剛果な性で、北周に仕え渭南太守として厳猛な政を敷き、官吏は畏縮して法を犯さなかった。本郡太守に転じても親故の請托を退け、周武帝に評価され儀同三司・信都県公を経て延州刺史となった。北斉平定の功で建州刺史に転じ、尉遲迥討伐の功で大将軍・武山郡公に進んだ。
- 隋文帝受禅後、襄州総管として威を専らにし、部下は恐懼して仰ぎ見ることもできなかった。娘婿の杜寧が命に背いて楼に上ったため杖五十を科し、可愛がっていた奴僕が衣に虫が付いたのを払っただけで慢心と見なし打ち殺した。部下の贓罪や境内の劫盗はすべて地下牢に投じ死ぬまで出さず、赦令が届いても囚人を先に処刑してから民に示すという酷薄ぶりだった。これにより文帝の譴責を受け除名された。
- 憤慨のあまり食を断ち自殺を図ったが妻子に阻まれ、子の信(儀同)に「大人は重臣なのに、こんなことでどうするのか」と諫められ、逆上して刃を向け門を傷つけた。文帝はその深い自責の念を知り官爵を復し、廣州総管に任じて卒官させた。
燕榮――隋の幽州総管
- 字は貴公、華陰弘農の人。父の侃は北周の大将軍。剛厳な性格で武芸に優れ、北周の内侍上士から武帝の斉討伐の功で開府儀同三司・高邑県公となった。隋文帝受禅後、大将軍・落叢郡公・晉州刺史を経て、突厥討伐の功で上柱国・青州総管となり、力の強い者を伍伯に選び違反者を容赦なく鞭打ち境内を粛清した。母の老齢を理由に毎年入朝を願い許された。
- 陳討伐では行軍総管として東萊から海路で太湖に入り呉郡を落とし、蕭瓛を捕らえた。揚州総管代行を経て武候将軍・幽州総管となった。
- 幽州では威容と厳酷で知られ、名門范陽盧氏を吏卒として辱め、鞭打ちで千を数えることもあった。無実を訴えた者に「後に罪あれば免じよう」と言いながら約束を反故にし「無過でもこうなのだから、有過ならなおさら」と嘯いた。巡察の折に人妻の美貌を聞けば奪って淫した。幽州長史元弘嗣が固辞するも赴任させられ、笞刑をめぐる確執から弘嗣を投獄し糧を絶ち、弘嗣は衣の綿を水で咽んで飢えを凌いだ。弘嗣の妻の訴えで考功侍郎劉士龍が査察に赴き、燕榮の毒虐と贓穢が明らかとなり京師に召還され賜死となった。死の前、屋敷の寝室から蛆が地から湧き出るという不吉な兆しがあり、燕榮はその場所で死んだ。子は詢。
元弘嗣――隋の黄門侍郎
- 河南洛陽の人。祖の剛は魏の漁陽王、父の経は北周の漁陽郡公。若くして爵を襲ぎ左親衛となり、晋王(煬帝)の陳平定に従軍し上儀同を授かった。観州長史として厳峻な政で怨まれ、幽州に転じては総管燕榮の虐待を受け禁固された。燕榮誅殺後、弘嗣自らも酢を鼻に灌ぐ拷問など燕榮以上の酷政を行い、奸偽は屏息した。
- 仁寿末、木工監として東都造営に従事し、大業初め煬帝の遼東遠征に備え東萊海口で造船を監督したが、役丁は捶楚に苦しみ水中で立ち通しの労役により死者が三、四割に達した。黄門侍郎・殿中少監を経て遼東の役で金紫光禄大夫に進んだが、隴西の奴賊討伐後、楊玄感の乱への呼応を疑われ代王侑により送還され、無実とされたが帝の疑いは晴れず日南に流される途上で死んだ。子は仁観。
王文同――隋の光禄少卿
- 京兆頻陽の人。明弁で幹用に富み、開皇中軍功で儀同を拝し桂州司馬となった。煬帝即位後、光禄少卿から忤旨により恒山郡贊務に左遷された。豪猾な長吏の弱みを握る有力者を大木の橛に磔にして棒で打ち大衆を震え上がらせ、遼東遠征に際しては巡察先で沙門を妖妄として拘束し、長吏の遅参を打ち殺し、河間では法会に集まった沙門・長老数百人を惑衆の罪で斬殺、僧尼を裸にして淫行の有無を検分し数千人を殺そうとした。郡中の士女は路上で号泣し、煬帝は大怒して使者を遣わし河間で王文同を斬らせ民に謝した。仇人はその棺を暴いて肉を刻み食い尽くしたという。
史論
- 論じていう。士の名を立てる道は一つでなく、循良によって進む者もあれば、厳酷によって顕れる者もある。寛猛は互いに資し、徳刑は相補うが、厳しくせずして化すのは君子の先んずるところである。于洛侯ら酷吏はその悪の様相こそ異なれ、みな残忍に帰し、人の肌膚を木石のごとく軽んじ、その命を芻狗より軽んじた。悪を長じて改めなければ禍を免れる者は少ない。あるいは身を罪戮に晒し、あるいは憂憤のうちに斃れ、方法は異なれど各々に相応の結末を迎えた。世の君子はこれを天道の応報と見るであろう。