編纂の趣意
- 『易』に「人の道を立てるは仁と義」とある。士の名を成す所以はこの二者にある。天下を大とすれば身は軽く、生を重んずれば義に比べれば軽い。太山より重い死もあれば、鴻毛より軽い生もある――理を全うするか義を全うするかによる。生は再び得られず死は取り返せない。それでも仁の道遠からずんば身を殺してこれに徇い、義が生より重ければ躯を捐てて践む。関龍逢は夏の桀に殞命し、比干は殷の紂に節を竭くし、申蒯は斉荘公に断腕し、弘演は衛懿公に肝を納れ、漢の紀信・欒布、晋の向雄・嵆紹も皆危亡を憚らず忠貞を貫いた。社稷を救う実効はなくとも、その志は三光・九泉に貫く。臨難忘身・見危授命を行う者は少ないが、内に鉄石の心、外に凌霜の節を持つ者のみがこれをなせる。魏より隋に至る200余年、歳寒に松柏を見、疾風に勁草を知るがごとき人物が千載の後も凛然と生きている。
- 編纂方針:『魏書』節義伝の於什門・段進・石文徳・汲固・王玄威・婁提・劉渇侯・朱長生・馬八竜・門文愛・晁清・劉侯仁・石祖興・邵洪哲・王栄世・胡小彪・孫道登・李幾・張安祖・王閭に加え、郭琰・遝竜超・乙速孤仏保、及び『周書』孝節伝の李棠・杜叔毗を付す。『斉書』にはこの篇はなく、『隋書』誠節伝の劉弘・皇甫誕・游元・馮慈明・張須陀・楊善会・独孤盛・元文都・盧楚・劉子翊・堯君素のうち皇甫誕・馮慈明・独孤盛・元文都は各家伝に収め、残りを本篇に、さらに『隋書』孝義伝の郎方貴・郭世俊も加えて「節義伝」とする。
於什門
- 代の人。北魏明元帝の代に謁者として馮跋への使者となる。和竜に至り外に留まり入城せず「大魏皇帝の詔は馮主自ら出て受けるべし」と伝えた。馮跋が力ずくで入城させ拝礼を強いようとしたが拒み、「馮主が跪いて詔を受けるべきで、賓主の礼として自分から敬すればよく、無理強いは不要」と応酬した。馮跋に留め置かれ、群衆の中で背を向け尻を露わにして辱めた。以後拘留され衣服も朽ちるほど放置されたが馮跋の衣の贈与を拒み続け、24年間屈しなかった。馮弘(馮跋の後継)が北魏に臣従を上表した際にようやく解放され帰国、侍御史に任じられた。太武帝は蘇武に比して称賛し詔で羊千頭・帛千匹を賜い上大夫に進め、宗廟に策告し天下に示した。
段進
- 出自不詳。太武帝初年、白道守将。柔然(蠕蠕)の大檀の侵攻を受け包囲され力尽きて捕えられた。段進は大声で敵を罵り殺された。帝はこれを憐れみ安北将軍を追贈、顕美侯を賜い諡は荘。
石文德
- 中山蒲陰の人。義行があった。真君初年、県令黄宣が任地で没し、貧しく近親もなかったため石文徳の祖父石苗が私財で葬儀を営み3年の喪に服し、宣の妻を20余年扶養、その死にも喪服を尽くした。以後、石苗から石文徳に至るまで、任地で没した刺史・守令の喪に服す習わしを続けた。5世同居、家門は雍睦。
- (附)梁州の上言によれば、天水白石県の趙令安・孟蘭強ら4世同居の家があり、行いが州里に聞こえ門閭が表彰された。
汲固
- 東郡梁城の人。兗州従事。刺史李式が事件で拘束された際、その子李憲が生後1か月であった。李式は「程嬰・杵臼のような義人はいないか」と衆に問い、汲固が密かに戻り李憲を式の家から抱き出し匿った。捕吏が李憲を捜索した際、たまたま出産した婢の子を身代わりに差し出した。事が露見すると汲固は李憲を連れて逃亡、赦免後に帰った。李憲は10余歳まで汲固夫婦を「郎婆」と呼んで育てられた。後に高祐が兗州刺史となった際、汲固の節義を称え主簿に任じた。
王玄威
- 恒農北陝の人。献文帝崩御に際し州城門外に草廬を建て喪服姿で哭泣し続けた。刺史苟頽が上表、詔で状況を問うと「先帝の恩沢を悲慕するあまりの行動で、礼の規定を知らぬわけではない」と答えた。訴えあれば上表せよとの詔にも「哀悼のみで求めるものはない」と答え、100日目に私財を投じ400人の斎会を、忌日には百僧供を設けた。大晦日には詔により白い槹(喪の道具)と褲褶一式を賜り服喪を解かせ、州に表彰させた。
婁提
- 代の人。献文帝時代、内三郎。献文帝の急逝に「聖主が崩じたのに生きて何になろう」と佩刀で自刺し瀕死となった。文明太后は帛200匹を賜った。
- (附)勅勒部人の蛭抜寅は兄の地于が官馬を盗食した罪で死罪となるところ、抜寅が自ら殺したと偽り、兄も弟の罪ではないと主張、兄弟が互いに死を望んで争ったため孝文帝が判断に迷い赦免した。
劉渴侯
- 出自不詳。剛烈な性格。太和年間、徐州後軍として力戦したが衆寡敵せず捕えられ、目を怒らせて大罵し屈せず殺された。孝文帝は立忠将軍・平州刺史・上庸侯を追贈し絹千匹・穀千斛を賜った。
- (附)厳季という校尉も同じ戦いで捕えられながら屈せず、後に脱走して帰り、立節将軍・五等男に叙せられた。
硃長生(附:於提)
- 代の人。孝文帝時代、員外散騎常侍として朱長生は於提と共に高車へ使いした。高車王阿伏至羅が拝礼を強要したが朱長生は拒否、金銀の宝器を献じつつも「臣従の礼を尽くすべきで口先だけの再拝では実がない」と迫り、衆人の前で拝礼させようとして阿伏至羅の怒りを買い、献上品を奪われ石窟に幽閉された。「臣となれば生かす、降らねば殺す」と脅されても於提と共に「鬼となっても汝の臣とはならぬ」と拒否、飲食を絶たれた。同行者30人は屈して肉酪を得たが朱長生・於提は従わず分けて幽閉され、3年後に放還された。孝文帝は蘇武に比して朱長生を河内太守、於提を隴西太守、共に五等男に叙し、従者も皆令長とした。
馬八龍
- 武邑武強の人。財を軽んじ義を重んじた。友人の武遂県尹靈哲が軍中で死去した際、駆けつけて遺骸を負って帰り私財で葬儀を営み、緦麻の喪に服して遺児を実子同様に養った。州郡が上表し門閭が表彰された。
門文愛
- 汲郡山陽の人。早くに孤児となり伯父母を孝謹に養った。伯父の死後、喪の途中で伯母も没し、6年間喪服を続け哀毀骨立した。郷人の魏仲賢らが孝義を表彰した。
晁清
- 遼東の人。祖父晁暉は済州刺史・潁川公。晁清は爵を襲い伯に降格、梁城戍将となった。梁軍の攻囲を受け食糧が尽きても節を屈せず殺された。宣武帝が褒め、楽陵太守を追贈し諡は忠。子の晁栄賓が跡を継いだ。
劉侯仁
- 予州の人。城人白早生が刺史司馬悦を殺し反乱を起こした際、悦の子司馬朏が劉侯仁の許に逃れた。賊は懸賞と拷問で劉侯仁を追及したが漏らさず、朏は禍を免れた。事件が収まると有司が節操を評価し、府籍を免じ小県への任官を上奏、詔で許された。
石祖興
- 常山九門の人。太守田文彪・県令和真らが任地で没した際、家絹200余匹を出して喪事を営んだ。州郡が上表、孝文帝が二級の爵位(上造)を賜り、後に寧陵令を拝し卒した。吏部尚書李韶がその節義を上奏し諡贈を請い、霊太后は奏の通り「恭」の諡を与えた。
邵洪哲
- 上谷沮陽の人。県令范道栄が朐城から先んじて帰順したため県令に任じられていたが、道栄の郷人徐孔明が偽って訟え功勲でないとされ道栄は除名された。孤独困窮する道栄のため邵洪哲が代わって京師に赴き曲直を明らかにし、長年の労苦の末に道栄は名誉を回復した。
- 後に北鎮の反乱で道栄が孤立無援となった際、邵洪哲の兄邵伯川が郷人を率いて迎え幽州まで送り届けた。道栄はその誠節に感じ入り訴えを申し立て、詔で州郡に里閭の表彰を命じた。
王榮世(附:鄧元興)
- 陽平館陶の人。三城戍主・方城県子。梁軍の攻囲を受け、勝てぬと知り府庫を焼き妻妾を殺した後、城陥落時に副将の鄧元興らと共に屈せず殺害された。明帝は詔で忠節を称え、王栄世に伯爵と斉州刺史を追贈、鄧元興に開国子と洛州刺史を追贈した。
胡小彪
- 河南河陰の人。若くして武勇に優れた。正光末年、晋寿の統軍。孝昌年間、梁将樊文熾らが辺境を侵し、益州刺史邴虯が長史和安に小剣を守らせたが文熾に包囲された。虯は胡小彪と統軍崔珍宝を援護に遣わしたが、文熾の急襲で共に捕えられた。文熾は珍宝を城下に連行し和安に降伏を勧めさせたが射返された。さらに胡小彪と和安を交渉させた際、胡小彪は「私は柵の守りが甘く捕えられたが、賊の兵は取るに足りぬ、努めて堅守せよ、援軍は近い」と激励、賊に刀で打たれ言葉半ばで殺された。三軍はその壮節を歎じ悲しみ、賊はまもなく敗走、次将蕭世澄・陳文緒ら11人が捕えられた。行台魏子建はその気概を壮とし、蕭世澄と交換で遺骸を得て葬った。
遜道登
- 彭城呂県の人。永安初年、梁将韋休らに捕えられ、面を縛られ刃を突きつけられて村々を巡り投降を勧めるよう強いられたが、大声で「努力せよ、賊は何もできぬ」と叫び続け、賊に殺された。
- (附)荊州包囲時、行台宗霊恩が使者として宗女ら4人を城内に遣わしたが賊将に捕えられ、投降を促す言葉に変えるよう命じられたが「天軍まもなく至る、堅守せよ」と大声で言い放ち、賊は怒って腹を裂いて斬首した。両州がその節義を上表、遜道登らは五品郡・五等子爵を賜り子弟の承襲を許され、使者を遣わし弔祭された。
李幾
- 博陵安平の人。7世同居同財、22房198口の大家族を統率し、長幼が礼を尽くし、労役には幼い者も競って参加した。郷里は美風として称賛し門閭が表彰された。
張安祖
- 河陽の人。世爵の山北侯を襲った。河陽令であった元承貴が貧窮の中、選考のため尚書に赴く途中、寒さで路傍で凍死し、幼子が屍を門前に置いたまま葬る術もなかった際、張安祖が悲しみ礼を尽くし自ら棺を作り葬送を全うした。朝野が称賛し尚書が上奏、門閭が表彰された。
王閭
- 北海密の人。数世同居100口の大家族。
- (附)太山の劉業興は4世同居、魯郡の蓋俊は6世同居、共に財産を共有し家門雍睦、郷里に敬われた。有司の上奏でいずれも門閭が表彰された。
郭琰
- 字は神宝、京槃の人。若くして父を失い母に孝を尽くした。孝武帝が藩邸にあった頃、通侠の気質で知られ交誼を結んだ。即位後、新豊県公に封ぜられ洛州刺史。孝武帝の西入(長安への出奔)に伴い馮翊郡公に改封され行台尚書・潼関大都督。大統年間、北斉神武帝(高歓)が竇泰に恒農を襲わせた際、行台の郭琰は寡兵で敗れ洛州に奔った。刺史の泉企が城を固守し力尽きようとした際、郭琰は天を仰ぎ「なぜこの長蛇(賊)を放し順を助けぬのか」と哭き、兵士たちを奮い立たせたが、東魏の将高敖曹に捕えられた。「天子の臣が賊に捕われた」と言い返す郭琰の名声を知る高敖曹は義として殺さず并州へ送った。北斉神武帝に対しても言色屈せず、殺害された。
遝龍超
- 晋寿の人。義俠を尚び郷里に重んじられた。永熙年間、梁将樊文熾が益州を侵し刺史傅和が孤城を固守する中、遝龍超は出撃のたびに敵を破った。糧矢が尽きる中、漢中への援軍要請のため夜に出たところ文熾に捕えられ、封爵を条件に降伏を勧める使者にされたが、城中に「援軍数万が大寒に近く至る」と偽って告げた。文熾は怒り火で炙り殺したが、死に至るまで言葉も態度も屈しなかった。西魏大統二年、竜驤将軍・巴州刺史を追贈された。
乙速孤佛保
- 北秀容の胡族の酋長。若くして驍勇で弓に優れた。孝武帝時代、直閣将軍。関中入りに従い蒲子県公に封ぜられ弓矢を賜った。大統初年、梁将蘭欽が漢中を陥した際、都督として力戦したが敗勢を悟り、城陥落前に天を仰ぎ「この馬は常に乗り、この弓矢は天恩の賜物、賊に渡せぬ」と言い、馬と弓を斬った後自刎した。三軍がその壮烈を称えた。使者として漢中にあった黄門郎趙僧慶がこれを聞き遺骸を長安に運び、天子は感嘆し著作にその事跡を記させた。
李棠
- 字は長卿、勃海蓚の人。祖父李伯貴は魏宣武帝時代、魯郡守。父の喪に哀毀のあまり没する孝行があり、宣武帝は勃海相を追贈した。父の李元冑は員外散騎侍郎。李棠は幼くして孤児となり学を好み志操があった。高仲密が北予州刺史として李棠を掾に招いた。仲密が西魏への帰順を図った際、東魏が遣わした鎮城奚寿興を殺す謀議に李棠も加わり、仲密は城を挙げて西魏に帰順、李棠は関中への使者となった。西魏文帝はこれを喜び広宗県公に封じ、給事黄門侍郎・車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍を加えた。魏安公尉遅迥の蜀討伐に従い、成都入城後に招降の使者となったが、蕭捴の詰問に軍情を語らず、苦しめられても「私は王者の忠臣、死あるのみ、義として節を変えぬ」と答え殺された。子の李敞が跡を継いだ。
杜叔毗
- 字は子弼、先祖は京兆杜陵の人、襄陽に移住。父の杜漸は梁の辺城太守。杜叔毗は早くに父を失い母に孝を尽くした。梁に仕え宜豊侯蕭脩府の中直兵参軍。西魏文帝が大将軍達奚武に蕭脩を南鄭に包囲させた際、蕭脩は杜叔毗を派遣して和議を請わせ、西魏文帝はこれを礼遇した。使者が戻る前に蕭脩配下の中直兵曹策・参軍劉暁が城を武に降そうと謀議、杜叔毗の兄杜君錫(中記室参軍)ら一族が部曲を率いていたため、策らは疑い謀反の罪を着せ殺害した。城が降ると策は長安に至り、杜叔毗は日夜哭泣し冤罪を訴え続けた。朝議は帰附以前の事として追罪しないとしたが、杜叔毗は復讐を志すも母への累を恐れた。母は「兄が横死した痛みは骨髄に徹する、曹策が朝に死ねば私は夕に死んでも本望」と言い、杜叔毗は母の言葉を受け白昼堂々曹策を京城で斬り、首を断ち腹を割いて手足を解体した後、自ら縛って処刑を請うた。西魏文帝はその志気を嘉し特に赦した。母の喪に哀毀骨立、喪明け後は晋公宇文護に中外府楽曹参軍として辟召され陝州刺史に累進。衛国公宇文直の南討に従軍し敗れて陳軍に捕えられ、降伏を勧められても言色屈せず殺された。子の杜廉卿がいる。
劉弘
- 字は仲遠、彭城叢亭里の人。若くして学を好み、行いを慎み節操を重んじた。北斉に仕え西楚州刺史。斉滅亡後、北周武帝が本郡太守とした。隋文帝の陳平定後、行軍長史として総管吐万緒に従い渡江、上儀同・濩沢県公・泉州刺史。高智慧の反乱で城を攻められ、糧尽きて犀甲の腰帯や樹皮を煮て食べても離反者は出なかった。降伏を勧められても節を曲げず、城陥落時に殺された。文帝は長く嘆じ物2千段を賜った。子の劉長信が官爵を継いだ。
游元
- 字は楚客、広平任城の人。父游宝蔵は郡守。若くして聡敏。北周に仕え寿春令・譙州司馬を歴任し能吏と評された。開皇年間、殿内侍御史。煬帝即位後、尚度支郎に転じる。遼東の役で左驍衛長史として蓋牟道監軍、朝請大夫・兼書侍御史。宇文述ら九軍の敗戦の裁きを命じられた際、権勢に阿らず告発を貫き、帝に公正を賞され朝服を賜った。黎陽で軍糧輸送の監督中、楊玄感の反乱に際し正義を説いて拒んだため殺害された。帝は深く嘉し銀青光禄大夫を追贈、子の游仁宗を正議大夫・弋陽郡通守に任じた。
張須陀
- 弘農閿郷の人。剛烈で勇略があった。若くして史万歳の西爨討伐に従い儀同を授けられ、楊素の漢王楊諒討伐に従い開府。大業年間、斉郡賛務。遼東の役で飢饉に際し、独断で倉を開き賑給し「詔を待てば民は溝壑に落ちる、罪を得ても悔いない」と述べ、帝も咎めなかった。
- 太平が長く続き軍事に疎い世相の中、張須陀は勇決善戦し士卒の心を得て名将と称された。賊将王薄と豆子䴚の孫宣雅・石祗闍・郝孝徳ら10余万を章丘で大破し帝を喜ばせた。裴長才・石子河の軍も撃退し、賊帥秦君弘・郭方預らの北海包囲も撃破した。
- 大業十年、蹲狗山の左孝友軍を包囲降伏させ、解象・王良・鄭大彪・李脘らの徒党万計を平定、威名は東方に轟いた。功により斉郡通守・河南道十二郡黜陟討捕大使。盧明月10余万の侵攻を祝阿で撃退、呂明星・師仁泰・霍小漢らを済北で撃走、東郡の翟譲とも30余戦して常に破った。滎陽通守に転じる。
- 李密が翟譲に洛口倉奪取を進言し滎陽に迫った際、張須陀は迎撃し敗走させたが、李密の伏兵に囲まれ再三救出を試みるも兵は壊乱、「兵敗これに至り天子に見える顔がない」と馬を下りて戦死した。部下は数日号泣し続け、帝は子の張元備に兵を統括させたが、赴任前に賊に遭遇し果たせなかった。
楊善會
- 字は敬仁、弘農華陰の人。父楊初は毗陵太守。大業年間、鄃令として清正で知られた。民の反乱を討伐し連戦連勝、賊将張金称に対しても常に優勢を保った。煬帝が段達を討伐に遣わした際、楊善会の献策を段達が用いず敗れたが、以後は策を採用させ大勝、金称の同盟軍孫宣雅・高士雅らも撃破した。朝請大夫・清河郡丞に抜擢。山東諸郡が次々陥落する中、抗戦を続けたのは楊善会のみで前後700余戦して負けなかった。太僕楊義臣が金称に敗れた際、楊善会の策を採り勝利、金称を捕斬し首級を献上、帝から尚方甲槊弓剣を賜り清河通守に進む。楊義臣に従い漳南の高士達を斬り首級を江都に献じ、帝の褒詞を受けた。後に竇建徳に陥落させられたが、建徳は釈放し貝州刺史として用いようとした。楊善会は罵り続け刃を突きつけられても屈せず殺された。清河の士庶が皆哀悼した。
盧楚
- 涿郡范陽の人。祖父盧景祚は魏の司空掾。若くして才学があり、性は剛直で口が重く言葉が難しかった。大業年間、尚書左司郎として公卿に憚られるほど厳正だった。煬帝の江都行幸中、東都官僚の不法を糾弾し続けた。越王侗の称帝後、内史令・左備身将軍・尚書左丞・右光禄大夫・涿郡公として元文都らと共に侗を輔佐した。王世充の反乱で武衛将軍皇甫無逸が逃亡を誘ったが、盧楚は「元文都殿と社稷に殉ずる約束をした、今逃げるは不義」と拒み、太官署に潜んで捕えられ、世充に斬刑を命じられ支体を切り刻まれた。
劉子翊
- 彭城叢亭里の人。父劉遍は北斉徐州司馬。学を好み文章に通じ、剛毅で吏務の才があった。開皇年間、秦州司法参軍。楊素の推挙で侍御史。永寧県令李公孝の継母服喪問題に関する劉炫の議論(撫育の恩なしとして服喪解官不要とする説)に対し、劉子翊は『礼』の継母服の規定を詳細に論駁した(要旨:継母は父の配として実母と同格に服すべきであり、撫育の有無で服の軽重を分けるのは礼典に根拠がなく、羊祜の養子の例や長沙王毖の故事を引きつつ名分による服喪の原則を主張した)。事は上奏され劉子翊の議論が採用された。
- 新豊令・大理正を歴任し能吏と評され、書侍御史に抜擢。朝廷の疑議を的確に解き衆目を集めた。煬帝の江東行幸に随行、天下大乱の中で直諫し忤旨、丹陽留守に左遷。
- 上江への督運中、賊将呉棋子に捕らえられたが説得して投降させ、賊の首領を渡江させたところ煬帝が殺害されたと知りながら告げた者を信じず斬った。賊が首領に推そうとしたが従わず、臨川城下に連行され「帝崩ず」と城中に告げるよう強いられたが言葉を変えて伝えたため殺害された。
堯君素
- 魏郡湯陰の人。煬帝の晋王時代からの側近。即位後鷹揚郎将に累進。大業末年、驍衛大将軍屈突通に従い河東で義軍を防いだが、通が兵を引き南に退いた後、堯君素は河東通守として留まり続けた。義軍の呂紹宗・韋義節らの攻撃を退け続けた。屈突通軍敗北後、通が城下から降伏を勧めたが堯君素は「あなたが今乗る馬は代王の賜物、恥を知れ」と厳しく責め、通を慚じさせて退けた。
- 包囲下で行李が断たれる中、木鵝(木製の鵞鳥)を作り首に上表文をつけ黄河に流して東都に情報を送った。越王侗はこれを見て感嘆し金紫光禄大夫を承制で授け使者を送った。監門直閣龐玉・武衛将軍皇甫無逸ら義に帰した者たちが説得に来ても、また金券まで送られても降る心はなかった。妻が城下から「隋室は既に滅んだ、なぜ禍を招くのか」と説くと弓で射殺した。江都陥落の報や糧尽の中、民が相食む状況になっても「藩邸旧臣として大義に死ぬのみ、いずれ天命が定まれば首を諸君に渡す」と将士に語った。白虹が府門に降りるなど不吉な兆しの後、まもなく左右の者に殺害された。
陳孝意
- 河東の人。大業初年、魯郡司法書佐として廉平で知られた。太守蘇威が囚人を処刑しようとした際、固く諫めても聞き入れられず自ら衣を脱いで代死を申し出、蘇威はようやく考えを改め礼遇を厚くした。蘇威が納言となった際、侍御史に推挙。父の喪に礼を過ぎて哀毀し、白鹿が廬に馴れ寄ったという孝感の逸話がある。雁門郡丞に起用され、菜食で斎居し朝夕哀哭し柴毀骨立するほどだった。腐敗する官吏の多い中、清節をますます厳しく守り不正を摘発した。
- 煬帝の江都行幸中、馬邑の劉武周が太守王仁恭を殺して反乱を起こした際、前郡丞楊長仁・雁門令王鵜鶴らの内応の謀を知り一族を誅滅、郡内は震撼した。武周の攻撃を防ぎ続けたが孤城で援軍なく、帝が反乱には決して屈しないと信じて詔勅庫に向かい涙を流し続けた。糧が尽き、校尉張世倫に殺され城は武周に渡った。
張季珣(附:弟仲琰、仲琰弟幼琮)
- 京兆の人。父張祥は隋文帝に見出され丞相参軍から并州司馬に累進。漢王楊諒の反乱で将劉建に并州城下を焼かれた際、張祥は城内西の王母廟に登り「百姓に罪なし、神霊あらば雨で助けよ」と号泣し祈ったところ雲が起こり雨が降って火が消えたという奇瑞があり、士卒はこれに感激し戦意を高め、援軍到着で賊は退いた。功により開府、後に都水監で卒官。
- 張季珣は若くして慷慨の志があり、大業末年鷹揚郎将。箕山に拠って守り、李密の倉城陥落後の招降を大罵して拒み、密の軍は3年攻めても落とせなかった。物資が尽き薪もなく家屋を壊して焚き人々は穴居生活となった。士卒が飢弱し密に陥落させられた際、張季珣は動じず捕えられたが「敗軍の将とはいえ天子の爪牙の臣、賊に拝礼などしない」と拒み、李密はその気概を壮として釈放しようとしたが、翟譲が金品を求め拒まれたため殺害した。
- 弟の張仲琰は上洛令として城を守っていたが、義兵蜂起に伴い部下に殺され義に帰した。
- 仲琰の弟張幼琮は千牛左右、宇文化及の乱で殺害された。張季珣一族は忠烈で兄弟が皆国難に死んだことを論者は賢とした。
杜松贇
- 北海の人。剛烈で名節を重んじた。石門府隊正。大業末年、楊厚が北海県を攻めた際、偵察に出た杜松贇が捕えられ「郡兵は既に破れた、早く降れ」と城内に伝えるよう強いられたが、偽って承知し城下に至ると「私は不意に捕えられたのであって力尽きたのではない、官軍が大軍で到来し賊はまもなく捕えられる」と大声で叫んだ。賊は刀で口を突き引き立てたが、杜松贇は楊厚を罵り続け、腰を斬られるまで屈しなかった。城内の民は涙を流し士気を高め、北海は守り抜かれた。朝請大夫・本郡通守を追贈された。
郭世俊
- 字は弘乂、太原文水の人。家門雍睦、7世同居し、犬豚が乳を共にし鳥鵲が巣を同じくするという奇瑞があり義感の応と評された。州県が事を上申し隋文帝は平昌公宇文幹を遣わし慰問、尚書侍御史柳彧が河北巡察の際に門閭を表彰。漢王楊諒が并州総管として聞き及び兄弟20余人に衣一襲ずつ賜った。
郎方貴
- 淮南の人。若くして志尚があり従弟の郎双貴と同居。開皇年間、淮水の渡し場で船人に怒られ腕を折られた。帰宅して知った双貴が怒り渡し場に赴き船人を殴殺、渡し場の役人が二人を捕縛。県は郎方貴を首謀として死罪、双貴を従犯として流罪としたが、兄弟は互いに首罪を争い、県も州も裁定できず、二人は水に身を投げて死のうとした。州が上奏すると、皇帝はその義を異とし特に罪を赦し門閭を表彰、物百段を賜った。後に州主簿となった。
史論
- 於什門らは危難に臨んで屈せず死を視ること帰するがごとく、あるいは険難に赴くこと平地のごとく、ただ義のある所に従った。大なるは国を光らせ家を隆んにし、小なるは己を損なって物を利した。その盛烈は河海と流れを争い、峻節は竹柏と共に茂る。皆その実践の致すところであり、身は没しても名は立った、決して徒事ではない。