北史卷八十二 列傳第七十儒林下 劉炫
河間景城の人(字は光伯)。劉焯と机を並べ十年門を閉ざして読書し、驚異的な博覧強記で知られた大儒。開皇年間に国史編修・律令制定・群書考定に携わったが、偽書献上事件や讒言により仕途は終始不遇で、蜀への配流・除名を重ねた末、乱世のなか飢餓のうちに没した。
年表(1件)
- 開皇二十年国子・四門および州県学の廃止に反対する上表を行うが聞き入れられず
波乱の生涯を送った大儒
- 字は光伯、河間景城の人。少くして聡敏で知られ、劉焯と十年門を閉ざして読書した。瞳は明晰で日を見ても眩まず、強記黙識は並ぶ者がなく、左手で円、右手で方形を描きながら口で誦じ目で数え耳で聴くという五事同時遂行ができた。
- 北周武帝の斉平定後、瀛州刺史宇文亢に戸曹従事として招かれ、後に刺史李絵の礼曹従事となり吏才で知られた。
- 隋開皇中、著作郎王劭と国史を修め門下省に直して顧問に備え、天文律暦の修訂と内史省での群書考定にも従事し内史令李徳林に厚遇されたが、三省を歴任しても正式な官は得られず県からは賦役を課された。吏部尚書韋世康に才能を問われ、《周礼》《礼記》《毛詩》《尚書》《公羊》《左伝》《孝経》《論語》の孔安国・鄭玄・王粛・何休・服虔・杜預ら十三家の注に精通し講授でき、《周易》《儀礼》《穀梁》もある程度、史書・諸子・文集の名言故事は暗誦し、天文律暦も窮め、公私の文章は人に代筆させたことがないと自陳したが、吏部は詳しく試すことなく、朝廷の知名の士十余人が保証してようやく殿内将軍を除された。
- 牛弘が天下の遺逸の書を購求した際、炫は《連山易》《魯史記》などと題した書を偽造して献上し褒賞を得たが後に訴えられ、赦免はされたものの除名された。帰郷して教授を業としたが、廃太子楊勇に招かれ蜀王秀に仕えるよう命じられながら遅延したため蜀王は激怒し益州に枷送り、門衛に配されたが後に赦されて典校書史を務めた(この間、屈原の《卜居》に擬して《筮塗》を著した)。蜀王秀の廃位後は諸儒と五礼を修定し旅騎尉を授かった。
- 吏部尚書牛弘が上柱国の傍系親族の服喪等級を大夫に準じ一等下げるべきと議した際、炫は「古の仕官は宗子一人のみで庶子は進めず、宗子と疎遠でも喪に服したのは恩を受けたため。今の仕官は才によるため嫡庶を問わず古と異なる、なぜ降等が必要か」と駁しこの議は取り下げられた。
- 開皇二十年、国子・四門および州県学が廃され太学のみが残された際、炫は学校の存続を切実に上表したが帝は聞き入れなかった。当時国家が遼東遠征に意を注いでいたのに対し、炫は不可を説く《撫夷論》を著したが誰も聞かず、大業末の三度の征討失敗によりその予言が的中した。
- 煬帝即位後、牛弘に招かれ律令を修めた。文帝の代に定めた「州県佐吏は三年で交代、九品官の妻は再婚不可」の制を炫は不可と論じ、牛弘はこれに従った。諸郡の学官設置や流外官の俸給も炫の建議による。牛弘との問答では、《周礼》の士と府史の比率が変わった理由を「昔は委任責成で歳末に殿最を考課するのみだったが、今は文書の勘覆が過酷で複雑になったため」と答え、魏斉の令史が閑職だった理由も「州の数の増加、官吏任用が全て吏部・考功に集中したこと」を挙げ、「省官より省事、省事より清心が要」と説いたが牛弘は感心しつつも実行しなかった。
- 納言楊達の推挙で射策高第となり太学博士を除されたが品階の低さで辞任、召還の途上で無実の讒言により罷免され河間に帰った。折しも盗賊が蜂起し穀物価格が高騰し教授もできなくなり、妻子と百里離れて音信も絶え鬱々として《自賛》を著した。四つの幸いと一つの深い恨みを述べ、貧窮の身から博覧強記を得て名を成した幸い、大過なく職を全うした幸い、しばしば宮中に召され厚遇された幸い、晩年に郷里で文史を楽しめる幸いを挙げ、深い恨みとして「盛世に生まれながら学校が廃され道が世に備わらず業が後世に伝わらないこと」を挙げた。
- その後、郡城で糧食が絶え、門人の多くが賊に投じる中、炫の窮乏を哀れんだ郡官が炫を賊に引き渡し、賊が官軍に破られると炫は飢餓の身で県官に投じたが、賊との内通を疑われ門を閉ざされ、冬の夜に凍え飢えて死んだ。門人は「宣徳先生」と諡した。
- 性格は躁がしく諧謔を好み自負が強く当世を軽んじたため執政に憎まれ、仕途は不遇だった。著書に《論語述議》十巻、《春秋攻昧》十巻、《五経正名》十二巻、《孝経述議》五巻、《春秋述議》四十巻、《尚書述議》二十巻、《毛詩述議》四十巻、《詩序》注一巻、《算術》一巻、文集があり、いずれも世に行われた。