北史卷七十八 列傳第六十六 麥鐵杖

始興の人。貧賤の出ながら驍勇で天下に聞こえた武人で、陳末から隋に仕えた将軍。遼東の役で渡河の先鋒を自ら志願し戦死、忠烈の将として厚く弔われた。子の麥孟才も江都の変で宇文化及への復讐を謀り殉節した。

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生涯と最期

  • 始興の人。貧賤の出だが勇猛で膂力あり、一日五百里を歩き奔馬に及んだ。放埓で酒を好み交遊を重んじ信義に厚かったが、漁猟を生業とし正業には就かなかった。
  • 陳の大建中、群盗を結んで蜂起し、廣州刺史歐陽頠に捕らえられ献上され、官戸に没せられ執傘の役に配された。朝罷の後、百餘里を歩いて夜に南徐州へ至り城を越えて忍び入り、放火・強盗を働いた。朝には戻り、朝礼の時刻にはまた執傘の役についていた。これを十数度繰り返し、物の持ち主に見破られ、州が上奏した。朝臣は鐵杖が毎朝必ず在勤しているのを見て信じなかった。
  • 南徐州でしばしば異変が報告されたため、尚書蔡征が試すことを提案し、百金の賞をかけて詔書を南徐州刺史に届ける使者を募った。鐵杖は自ら応募して敕を携えて赴き、翌朝には復命した。帝は「本当に盗みを働いていたのだな」と言い、その勇捷を惜しんで戒めて釈放した。
  • 陳滅亡後、清流縣に居を移した。江東の反乱の際、楊素は鐵杖に草束を頭に載せて夜に川を渡らせ、賊情を探らせた。再度出向いた際、賊に捕らえられ逆帥李稜に縛られ高智慧のもとへ送られた。庱亭に至った時、衛者が食事休憩を取り、鐵杖を哀れんで手枷を解いて食を与えたところ、鐵杖はその刀を奪って衛者をことごとく斬り殺し、鼻を全て削いで持ち帰った。楊素は大いにこれを奇とした。
  • のちに戦功を叙する際、鐵杖の分が漏れたため、楊素が急ぎ京師へ帰るのに徒歩で追いつき、毎夜同宿した。楊素はこれを見て悟り、特に上奏して儀同三司を授けた。文字を知らないため郷里に帰された。成陽公李徹がその驍武を称え、開皇十六年(596年)、京師に召され車騎將軍を授かった。楊素の突厥北征に従い上開府に加えられた。
  • 煬帝即位後、漢王楊諒の反乱に楊素に従って撃ち、常に先陣を切った。柱國に進み、萊州刺史となったが治績はなかった。汝南太守に転じ、次第に法令に習熟し群盗も影を潜めた。朝集の際、考功郎竇威に「麥とは何という姓か」とからかわれ、鐵杖は「麥豆は違わぬのに、何を怪しむのか」と即答し、竇威は答えられず、人々はその機知を称えた。右屯衛大將軍に転じ、帝の待遇はますます厚くなった。
  • 恩義の深さに報いようと常に命を捧げる志を懐いていた。遼東の役に際し先鋒を志願し、医者の呉景賢に「男児の命の在りどころは別にある。灸や膏薬で病を治し損ね児女の手の中で臥死になどしてなるものか」と語った。渡遼にあたり三人の子に「浅黄色の衣装を用意せよ。私は国恩を受け、今日が死ぬ日である。私が討たれれば、お前たちは富貴を得るだろう。ただ誠と孝をこそ努めよ」と言い残した。
  • 渡河の際、橋がまだ完成せず東岸まで数丈を残す中、賊が大挙して至った。鐵杖は岸に跳び上がり賊と戦って死んだ。武賁郎將錢士雄・孟金叉もともに死し、他に及ぶ者はなかった。帝は涙を流し、遺体を得て光祿大夫・宿國公を贈り、諡は武烈とした。子の孟才が跡を継ぎ光祿大夫を授かった。孟才の弟仲才・季才もともに正議大夫を拝した。莫大な贈物を賜い轀輬車を与え、前後部羽葆鼓吹を備えた。平壤道の敗将宇文述ら百余人に喪の綱を執らせ、王公以下が郊外まで見送った。錢士雄には左光祿大夫・右屯衛將軍・武強侯を贈り諡は剛、子の傑が跡を継いだ。孟金叉には右光祿大夫を贈り、子の善誼が官を襲いだ。

麥孟才(附:麥鐵杖の子)――江都での謀と死

  • 字は智稜。父の風を継いで果断勇烈であり、帝は殉節した将の子として厚く恩賜し、武賁郎將を拝させた。江都の変にあたり復讐の志を抱いた。
  • 武牙郎將錢傑と親交があり、二人は「われらは国恩を受けた家の者、賊臣が主を弑し社稷が滅んだ今、何の面目あって世に在れよう」と語り合い、涙を流して腕を扼し、顯福宮で宇文化及を襲撃する謀を立てた。
  • 事の発覚に先立ち、陳籓の子謙がこれを知って密告し、麥孟才は同志の沈光とともに宇文化及に殺害された。忠義の士はこれを哀しんだ。