生涯
- 字は文懿、清河東武城の人。本名は廟諱に触れるため避けた。七代祖の沈は石季龍の末、廣陵六合より長江を渡り家を構えた。桂陽太守に至る。孫の朏は晉の佐著作郎。外祖楊佺期の連座で除名され南譙に徙り、そこに寓居した。
- 奫は兵書を好み騎射に長じ刀楯を得意とした。父の雙は清河太守を免ぜられ周に帰った。郷人郭子冀が密かに陳の侵攻を引き入れた時、雙は子弟を率いて撃とうとしたが決断できず、奫が計を賛助して賊を破り、これにより勇決の名を知られた。
- 州主簿より起家。隋文帝が丞相となると丞相府大都督を授かり郷兵を領した。賀若弼の江都鎮守に際し特に奫を従わせ間諜とし、陳平定の役で功があった。
- 開府儀同三司に進み文安縣子に封ぜられた。翌年、水軍を率いて逆賊笮子游を京口に、薛子建を和州に破った。大將軍を拝し、文帝は御座に招いて宴し「卿は朕の子となれ、朕は卿の父となろう」と言い、綠沈甲・獸文具裝・綺羅千匹を賜った。
- 楊素の江表征討に従い、別に高智慧を會稽に、吳世華を臨海に破った。上大將軍に進み、撫・濟二州刺史を歴任しともに能吏の評判を得た。
- 開皇十八年(598年)、行軍總管として漢王楊諒の遼東征討に従った。楊諒軍の多くが病没する中、奫の軍だけが無事で、帝はこれを賞した。
- 仁壽中、潭州總管で卒し、諡は莊。子は孝廉。