梁毗
- 梁毗は字を景和、安定烏氏の人。祖の越は魏涇・豫・洛三州刺史・郃陽県公、父の茂は周滄・兗二州刺史。毗は剛謇で学識があった。周では布憲下大夫、宣政中に易陽県子に封ぜられ武蔵大夫に遷った。隋文帝受禅後は侯爵に進んだ。
- 開皇初、鯁正をもって書侍御史となり称職とされた。大興令から雍州賛務に遷ったが憲司にいた頃から一切の忖度なく権貴の意に逆らったため西寧州刺史に出され邯鄲県侯に改封された。在任十一年。
- かねて蛮夷酋長は金冠を服するのを競い、金の多寡で優劣を争い互いに侮辱し合っては干戈を交え国境は安寧を得なかった。毗はこれを憂い、酋長らが金を贈ってきた際にそれを座の側に置いて慟哭し「これは腹の足しにも寒さの防ぎにもならぬ、汝らはこれで殺し合っている、これを持ってきたのは私を殺したいのか」と語り一切受け取らず全て返した。蛮夷は感悟し以後争わなくなった。
- 文帝はこれを聞いて善しとし、散騎常侍・大理卿に召した。処法は平允で称され、上開府に進んだ。左僕射楊素の権勢が百僚を震撼させるのを見た毗は国患になることを恐れ封事を上げた(要旨:楊素の権勢は日増しに高まり、私する者は忠讜でなく親戚を重用し子弟は州郡に布く、天下無事の間は奸図を潜め四海に事あれば禍の始めとなる、王莽・桓玄の例に倣うことを恐れる、陛下が素を阿衡と頼まれるなら臣はその心が伊尹には及ばぬと憂う)。文帝は激怒し親しく詰問したが、毗は「素は権寵を恣にし将領の地では殺戮を憚らない、太子・蜀王が罪で廃された日にも百僚が震悚する中、素だけは眉を揚げ肘を張り喜色を見せ国家の事変を自身の幸いとした」と直言し続け、帝はついに屈服させることができず毗を釈放した。以後楊素への恩寵は次第に衰えた。素の威勢に折れない者はいなかったが、毗と柳彧・尚書左丞李綱のみは辞気を撓めなかった。以後文帝は素に専任せず、毗の言を察したためという。
- 煬帝即位後、刑部尚書に遷り御史大夫事を摂した。宇文述の私的な兵役使役を弾劾したが帝は述の罪を免じようとし、毗が固く争ったため忤旨となり張衡が大夫に代わった。毗は憂憤のうちに没した。帝は吏部尚書牛弘に弔わせた。
- 子の敬真は大理司直。煬帝が光禄大夫魚俱羅の罪を成立させようとした際、敬真はその獄を担当し帝の意を汲んで極刑に陥れたが、まもなく病を得て俱羅の祟りで死んだと伝わる。