榮毗(附:兄・建緒)
- 栄毗は字を子諶、北平無終の人。父の権は魏兵部尚書。毗は若くして剛鯁の気概と局量があり群書に通じた。周では内史下士。隋開皇中、殿内局監に累進、盗賊の多い華陰の長史に楊素の推薦で選ばれ能吏と称された。楊素の田宅が多く華陰にあり側近が放縦であったのを毗は法をもって容赦しなかった。素が「私が卿を挙げたのは自らを罰したようなものか」と言うと毗は「法を奉ずる者はただ公の推挙に累を及ぼすことを恐れる」と答え、素は「戯れだ、卿の奉法は私の望むところ」と笑った。晋王が揚州にあり京師の動静を張衡に馬坊設置を口実に探らせていた際、州県は誰も逆らえなかったが毗独りこれを阻んだ。文帝はこれを嘉し絹百匹を賜り蒲州司馬に遷した。
- 漢王諒の反乱に際し河東の豪傑が城に呼応する中、刺史丘和は変事を悟って関中に逃れた。長史の渤海高義明は毗に「河東は国の東門、失えば禍は小さくない、匈匈たる者は少数のはず、桀黠な者十余人を斬れば自ずと定まる」と述べ毗はこれに賛同したが、義明が丘和を追う途中、城西門で渤海の者に殺され毗も捕らえられた。諒平定後、毗は書侍御史を拝命、文帝に「今日の栄達は馬坊の一件による、汝の心を改めるな」と言われ敬われた。朝廷で正色を保ち百僚に憚られたが母の喪で去職、まもなく起用されたが官にて没した。鴻臚少卿を贈られた。
- 毗の兄の建緒は性格亮直で学業もあった。周では載師下大夫・儀同三司、斉平定の始めには鄴城に留鎮し『斉紀』三十巻を著した。文帝との旧誼により丞相期には開府に進み息州刺史となったが、赴任前に文帝が禅代の意を仄めかし「しばらく躊躇せよ、共に富貴を取ろう」と言うと、周の大夫であった建緒は色を正して「明公のこの仰せは私の聞くべきものではない」と答え、文帝を不興にさせながらも赴任した。開皇初、来朝した建緒に文帝が「後悔していないか」と問うと「臣の位は徐広に及ばず、心境は楊彪に近い」と答え、文帝は「私は書には疎いが卿のこの言葉が不遜であることは分かる」と笑った。始・洪二州刺史を歴任し能名を得た。