高構
- 高構は字を孝基、北海の人。滑稽で機知に富み弁舌に優れ読書と吏事を好んだ。斉に仕え蘭陵・平原二郡太守を歴任、斉滅亡後は周武帝に許州司馬とされた。隋文帝受禅後、戸部侍郎に累進、内史侍郎晋平東と兄子の長茂の嫡子争いを尚書省が決められない中、構が理にかなった裁断を下し文帝に「尚書郎は天の星宿に応ずると聞くが、卿の才識でその言葉が真実と知った、嫡庶は礼教の重んずるところ、卿の判決文を何度も読み返し理に適っていて意表を突かれた」と賞され米百石を賜り知られるようになった。
- 馮翊武郷の唖で聾の女性が野で犯され身ごもり生まれた男児の姓が分からず申省された際、構は「母が語れず由来を究める術がない、『風俗通』に姓は爵に由来するもの居所に由来するものがあるとする、この子は武郷で生まれたので武を姓とすべき」と判じた。雍州司馬に遷り明断で称され、吏部侍郎、再び雍州司馬、事に坐して盩厔令に左遷されたがそこでも能名を得た。文帝は善しとし再び雍州司馬に、仁壽初にまた吏部侍郎となったが公事で免官された。
- 煬帝立つと復位を命じられた。吏部の官の多くが不称職で去る中、構は最も能名があり、前後の典選官も皆その下風に立った。構の劇談を好む性格を軽薄と評す者もいたが内実は方雅で、吏部尚書牛弘に特に重んじられた。老病により解職した後も、弘は登用の可否を人を遣って構に問わせたという。河東の薛道衡は構の清鑒を称え、文章は必ず草稿を構に見せてから公にし、構の指摘に道衡は常に感服した。大業七年、家で没した。挙薦した杜如晦・房玄齢らは後に自ら公輔の位に至り、論者は構に知人の鑒があったと称した。
- 開皇中、昌黎の豆盧実は黄門侍郎として慎密と称され、河東の裴術は右丞として糾正多く、河内の士燮・平原の東方挙・安定の皇甫聿道は刑部で法を平允に執行し、京兆の韋焜は戸部郎として讜言を重ね、南陽の韓則は延州で恵政をなした。これらの人々は事跡が逸したものの吏幹があり当時称された。