勃海蓚の人
- 李雄は勃海蓚の人。父の棠の事績は『誠義伝』にある。雄は若くして志高く、弱冠で周武帝の斉平定に従い功により帥都督となった。
- 隋文帝が相となると韋孝寬に従い尉遅迥を破り上開府・建昌県公に封ぜられ、陳平定後の功で大将軍に進み郴・江二州刺史を歴任、後に事に坐して免官された。
- 漢王諒の反乱に際し、幽州総管の竇抗の去就を疑った煬帝は楊素の推挙で雄を上大将軍・廉州刺史とした。雄は幽州で募兵し千余人を得たが、素の威を恃んで抗が会おうとしなかったため、諭して従わせ、後に伏兵で抗を捕らえ、幽州兵三万を発して井陘から諒を討ち、幽州総管に遷り戸部尚書に召された。
- 雄は弁が立ち帝に重んじられたが、新羅使者との問答で「中国に礼が無いから四夷に求める」と失言し弾劾されて一時免官、後に復職。江都行幸に従い、仗衛の乱れを整えて帝に「公は真に武侯の才」と称賛され右候衛大将軍に転じたが再び事に坐して除名された。
- 遼東の役では来護児に従軍したが、楊玄感が黎陽で反すると帝に疑われ、護送の使者を殺して玄感のもとに逃げ、玄感の謀に参与した。玄感敗死とともに誅殺され家産を没収された。
史論
- 隋文帝の王業の基は劉昉が謀を啓いたが、大権を握りながら身を挺して国難に殉ずることをせず、義を捨てて恩に頼り、後に怨みを募らせて自ら禍を招いた。周に対しては忠貞の節を欠き、隋に対しては命を捧げる誠を欠いた。義に背いた者が刑を免れ富貴を保つのは難しい。
- 柳裘・皇甫績は他人の企てに乗じて事を成し、乱を好み禍を楽しんだが、大運に恵まれ枢要の地位に参じた。晏嬰の「一心は百君に事えられるが、百心は一君に事えられない」との言葉は、まさに劉昉らに当てはまる。
- 郭衍は文帝創業の始めに爪牙の寄を受け、煬帝経綸の際には腹心の謀に参じたが、水に水を加えるように上の意にひたすら迎合し、功は多くとも名は重んじられなかった。「権の首となるな、咎を受ける」との語のとおりである。
- 張衡は奪宗の計を実際に画策した張本人であり、順道によらぬ行動の帰結として非業の死を遂げた。楊汪は学業を自負しながら終わりを全うできなかった、惜しむべきことである。
- 裴蘊は元来奸険の性質で巧みに附会し、威福を恣にし利を追い求めたゆえに滅亡の禍を免れなかった。
- 袁充は若くして機知で知られたが玄象を頼みに時の寵を求め、晷景を偽って天道を誣い、常を乱し衆を侮った。その罪は免れ得なかった。
- 李雄はその失言が禍の因となり夷狄の嘲りを招いた。乱をもって乱に従い、誅滅を免れる術はなかった。