北史卷七十四 列傳第六十二 袁充

字德符

  • 袁充は本、陳郡陽夏の人で、後に丹陽に寓居した。祖の昂・父の君正はともに梁の侍中。
  • 充は幼くして聡明で、十余歳のとき父の客に葛衫姿を揶揄されると即座に古詩を引いて応じ、大いに称賛された。陳では秘書郎から太子舎人・晋安王文学・吏部侍郎・散騎常侍を歴任、陳滅亡後は隋で蒙・鄜二州司馬を歴任した。
  • 占候の術を好み、太史令を領した。文帝が皇太子廃立を考えていた頃、充は帝の意を汲んで「玄象を見るに皇太子は廃されるべき」と進言し帝はこれに従った。
  • 開皇年間、日影の変化を根拠に隋の興隆を天が祝福している旨を上奏(開皇元年冬至の影一丈二尺七寸二分から十七年には一丈二尺六寸三分に短縮、夏至の影も同様に短縮したこと等を詳細に述べ、鄭玄注『周官』や『春秋元命包』『堯典』などを援用して大隋の隆盛を天命と結びつけた)。帝は大いに喜び天下に布告させた。造営の役夫にはこれにより工程が加算され、丁匠は苦しんだ。
  • 仁壽初、充は文帝の生年月日と天地陰陽律呂の一致を六十余条にわたって奏上し帝を喜ばせ、厚い賞賜を受けた。
  • 仁壽四年、煬帝即位に際して太史丞高智宝とともに「今年の即位は堯の受命の年と符合する」旨を奏上、斉王暕に百官を率いて祝賀の表を奉らせた。熒惑が太微を守った際も「陛下の徳により熒惑が退いた」と奏し百官が祝賀、帝は前後で万を数える賞賜を与えた。充は天文の変化を口実に土木の改作を進言し帝に取り入った。大業六年、内史舎人に遷り遼東征討にも従い朝請大夫・秘書少監を拝命した。
  • 天下大乱、雁門の危難、賊の蜂起により帝が不安を覚えると、充はまた天文を口実に祥瑞を上奏(去年八月末以降の流星・熒惑退舎・赤気などを突厥撃破の兆しとして七件挙げ、河南・洛陽が甲子・乾元初九の爻と符合する「福地」であると述べた)。帝は大いに喜び秘書令に抜擢し、以後帝の征討の意向を先読みして星象を仮託し帝の意を助長した。朝臣は皆これを憂えたという。
  • 宇文化及の弑逆の際、充も誅殺された。