北史卷七十四 列傳第六十二 裴蘊

裴蘊

  • 裴蘊は河東聞喜の人。祖の之平、父の忌はともに『南史』に伝がある。忌は陳にあって呉明徹とともに周に俘囚となり周から江夏公を賜り、隋で十余年後に没した。
  • 蘊は弁才と吏才に優れ陳で直閣将軍・興寧令を歴任、父が北にいたため密かに隋文帝に内応を約した。陳平定後、文帝が江南の士人を閲する中、蘊は先に帰順の心があったとして儀同を超授された。僕射高熲が「蘊に国への功はない」と諫めたが、文帝はさらに上儀同、開府儀同三司まで進めた。洋・直隷三州刺史を歴任し能名を得た。
  • 大業初、考績連続最上で太常少卿に召され、煬帝の意を汲んで天下の周・斉・梁・陳の楽家子弟を楽戸として集め、楽人を三万余に増やして帝を喜ばせ、戸部侍郎に遷った。
  • 戸口の漏れを正すため、諸郡に貌閲(実地調査)を命じ、不正があれば官司を解職、里正・郷長を配流とし、密告者には被糾の家に賦役を代わりに負わせる制を敷いた。大業五年、進丁二十四万三千・新附口六十四万一千五百を得て帝に大いに称賛され、京兆賛務に進んだ。ごく僅かな不正まで摘発したため、吏民は畏れ憚った。
  • 御史大夫に抜擢され裴矩・虞世基とともに機密を掌り、罪を作りたい相手には法を曲げて陥れ、赦したい者には軽典で釈放するなど法を恣にした。楊玄感の乱の残党討伐では帝の意を汲んで峻法をもって数万人を誅殺し家産を没収させた。
  • 帝に疎まれた司隷大夫薛道衡について「才を恃み無君の心を持つ」と讒言し誅殺に導いた。また蘇威が討遼の策として賊への大赦・投入を献策すると、蘊は「賊がそれほど多いはずがない」と讒言し、蘇威は父子・孫三代にわたり除名された。
  • 蘊は司隷刺史以下の官を廃し御史百余人を増置させて権勢を拡大し、朋党を組んで郡県の不服従者を陥れた。度遼の役の功で銀青光禄大夫に進んだ。
  • 司馬徳戡が乱を企てた際、蘊は郭下の兵民を発して逆党宇文化及らを取り押さえようと謀ったが、報を受けた虞世基がこれを疑い抑えたため計画は実行されず、蘊は「謀を播郎(虞世基)に及ぼしたのが誤りだった」と嘆いて害された。子の愔も尚輦直長として同日に死んだ。